しりたいふたり、するふたり - 二日目2nd Day - Next to yours
「シルヴァンと何かあったか」
妙な関係を始めてから一度目の週末に、溜池広場までやってきたフェリクスはそこにベレスの顔を認めるなりそう言った。
「この前、授業の後にふたりで話した」
「それから何かあったのかと聞いている」
困ったな、とベレスは思った。
彼女を見据えるフェリクスは一見怒りを滾らせているようにも見える。しかしこの生徒の場合前置きのない直截な物言いはいつも通りだし、その経験からすると今の語調も詰問かと警戒するほどには強くない。
では何にベレスが窮したかというと、いまのところ問いかけの他に何の情報も見せない彼が何のためにシルヴァンの話を聞きに来たのか、すこし慎重な検討を要すると考えたからだった。
シルヴァンと何があったか。
あった。何かと問われれば無論ある。彼は彼女の学級の生徒であったし、つい今朝だって教室の最前列であくびしてきた口に、これでも噛めばとおやつに隠していた揚げた魚の背骨を投げ込んでやったばかりだ。
だがフェリクスが聞いているのはその一幕だけではないのだろう。そうなると話はいきなり難問と化す。なにせ現在のふたりの関係はなんとも晴れた空の下では説明しづらい、とても厄介なものだった。
大枠を見るとベレスが彼の積極的な交際の申し出に頷いたような形になるが、その内実は、互いに感情が伴っているわけでもなければ、直接的な快楽を求めての享楽的な関係でもない。たんに、あるときベレスが彼の女性関係は誠実でないと口出ししたとき、それを不服とした彼が「もっと知ってから評価してください」と主張したので、じゃあ交際してみようか、と、こうである。改めてこう整理してみてもよく意味の分からない、不可思議な状況であった。
これをどこまで説明したものか。ベレスはフェリクスの様子を窺う。シルヴァンとの関係が仮初のものとは言っても、続ける以上はいずれ何らかの噂に上がるものとは考えていた。しかし今日はまだ交際を初めてから二、三日のことであり、目の前の彼の幼馴染が本当に、その交際関係について示唆しているのか確証が持てなかった。
下手な反応はしないほうがいいな、とベレスは思う。
交渉術の席ではこんなふうに詳細を言わずにかまをかけてみるのもよくあることだ。そして噂の俎上に登りやすいシルヴァンが「まあ後で適当な説明でも考えておきます」と模範解答の作成を請け負ったのはまだ昨日のことである。いまは多くを語るべきときでない。
沈黙を選んだベレスに、フェリクスは小さく舌打ちをした。それで別に言いたくなければ構わんと離れてくれれば良かったのだが、あいにく彼はこの話を終わりにするつもりがないらしく、火にかざした鉄の気配を伴う赤みの強い薄茶の瞳は、地面よりも少し上――ベレスの手元に落とされた。
「あいつは相手がどんな女だろうと紋章が刻まれた品なぞ贈ったことはない。それをどうした」
ああ。
ベレスは今の今まで地面すれすれにひらひら動かしていた手首を止めた。するとさっきから地面を俊敏に往復していたまばゆい光の円が止まって、追いかけるものがなくなった猫が抗議の音でにゃあと鳴く。
そうか、これでばれたのか。ひとに見えない場所にあるから大丈夫だと思っていたけど。
そうベレスが見下ろしたのはシルヴァンから貰った真鍮と銀の板だった。
猫と遊ぶために取り出していた銀盤の裏面には細かな意匠が施されている。北の地方に咲くという星の花弁が愛らしい草花。草原を駆ける馬の影。それからその中央に、豊かな景色をすべて刈り取ってみせようと威嚇するような重々しい二つの鎌型。
――ゴーティエの紋章。
「貰ったんだ」
それと承知していてベレスは言った。
「これは戦いの合図を送る道具にもなりそうだねとシルヴァンに言ったら、それならついでに自分の笑い顔を見るのにも使ってほしいと」
「あの阿呆が……」
「返したほうがいいなら返すよ」
フェリクスに渡したベレスの言葉は事実の半分も伝えていない。けれど付け足した一言は本心だった。ベレスが興味を引かれたのは小さな鏡そのものであって、それがシルヴァンの持ち物である必要性はない。もし自身の持ち物を与えることで彼が不利益を得るというなら、すぐに返すべきものである。
ベレスはフェリクスの答えを待たずに、迂闊に剥き出しにしていた鏡に薄布の覆いをかける。鏡面に傷がつかないようにごく柔らかいそれを丁寧に畳んで、端を結んで、よろしく頼むとフェリクスに差し出す。
……と、まて。これは自分から返さないと失礼ではないだろうか。
流れるように返却の手続きを終えようとしたベレスの眉が、わずかな疑念に揺れたのをフェリクスはどう受け止めたのか。
「勘違いするな。お前たちが何をしていようと俺からは何もない。そいつがどこからか拾い上げた品でなく、間違いなくあいつが贈った品であるならそれでいい」
「私が持っていても不都合はない?」
「俺が懸念したのは別の事態だ。あいつが十四、五の頃だったか、あいつが置き忘れた剣帯を手にした子持ち女が――」
追想に向けられたフェリクスの視線が、ふいに彼の足元に向けられた。さっきから暇を持て余していた黒猫が、彼の長靴に身体を擦り付けている。
こっちにおいで、とベレスがそれをぶらりと持ち上げると、彼は急に顔をしかめて、
「……余計なことを言った。まあ、あいつがしたことならそれなりの理由があるのだろうよ」
と彼女に背中を向けた。
ベレスは遠ざかるそれに問いかける。
「君の耳にも入るくらいにはなっている?」
フェリクスは噂に耳ざといとは言えない。彼が問いかけにくるくらいの事態となれば、すでに多くの生徒が状況を耳にしているのではないか。
何らかの対策を打たなければならない。それが本当に疚しいかどうかはともかくとしても、限られた期間のみの間柄であるのは間違いはない。知られればセテスの雷を受けるだろうベレスとしても、一応は貴族として評判が重要――ならもうすこし落ち着いてほしいものだが叶うまい――であろうシルヴァンとしても、とりあえず何でもないのだと主張しておくのは重要に思えた。
フェリクスはベレスをじっと睨むと、まだ下らん風聞程度だがと一度顔を背けて、
「もし策が必要ならアネットに聞け。あれで随分と考え込んでいた」
と端的に答えた。
再び遠ざかるその背に重い荷物を見たベレスは、改めて視界の端を意識する。するとなるほど、こちらを意識する気配がいくつかあった。
ベレスは膝に伸びた黒猫をひと撫ですると、さっきフェリクスの視線が向いていたあたりに目を凝らす。
「……わかった。いまから作戦会議としよう」
するとまるで諜者のように華麗に――とはいかず、積み重なった木樽の影からそろそろと這い出た明るい橙髪の持ち主は、砂まみれになった手と小鳥のように愛らしく結われたまとめ髪を左右に振って、力強く頷いては両手を握った。
その夜。ベレスに呼ばれて部屋を訪れたシルヴァンは、もうじき就寝の見回りが始まる時間にあっても、堂々と部屋の中央に鎮座しては中身をはみ出させている木箱の中身にははあと唸った。
「なるほどねえ、木を隠すなら森ってことですか」
説明せずとも彼がそうと承知したのは当然だった。小ぶりな魔術道具はいつかの演習で見たものであっただろうし、ひと目で畏敬の念を誘うような剣柄もまた同様だろうから。とはいえ、そのなかに頭を突っ込んで整理していたベレスはその理解の速さに任せるだけでもいけないだろうと念のため説明を加える。
「はやくも君と私との噂が広がりかけているらしくて、心配したアネットやみんなが目くらましとして軍備を寄贈をしてくれることになった」
「ははあ。軍備、軍備ねえ……先生、あんたあの鏡、演習に使いたいとか言ってましたけど、浴室やら人に見えるとこでも使ってました?」
「……猫に」
「はい? 猫?」
まさか猫と戯れていたのが決定打とはとても言えない。すまないと肩を落とすベレスに彼は片眉を上げたが、「まあ行軍に使う予定があるのは事実でしたし、学級の共有財産についちゃあもともとどんな資金繰りしてるんだってみんなで話してたんで、変に一緒にいるところを見られたとかよりは誤魔化しやすいですけど」と改めて木箱を覗き込む。
細かいキズにも土汚れの一つも見えない、大事に使われていただろう魔術訓練用の補助装具。しっかりした造りながら菫模様の美しい携帯式の湯沸かし器。一つ一つを大切に摘んで乾かして作ったのだろう、栄養豊富な向日葵の種。叩けば高い音が鳴るほどに硬い木から作られた野営や罠用の杭の類。
これら全てはベレスが困らないようにと学級の生徒たちが持って来てくれたものであり、そのうえイングリットなどは「すみません先生。あの日シルヴァンを指導してくださったばかりに面倒なことになってしまって」と頭まで下げていったのだ。
「うわ、殿下が蒐集してる短剣もあるじゃないですか。イングリットの干し肉も。あいつらあんたの言うこと信じすぎじゃありません?」
「それは思う……申し訳ない」
招き寄せたらアネットの、「あのあの先生、深くは聞きませんけど、聞きませんけど、本当はどうなんですかとか聞きたいですけど、とにかく先生もこのまま噂が広がると困りますよね!」という事態の収集のみを目的とした叫びからすると、頭から最後まで全部説明してみたところで、その後の対応は変わらなかったのではないか。中途半端に嘘をついたと思うだけに、皆の思いやりに心が痛む。
「やっぱり見せたいところだけを見せるのは不誠実だ」
食わせられなかった頭と尻尾。それをため息に乗せて箱に閉じ込めると、シルヴァンはどうですかねえと肩をすくめた。
「うっかり真相が誰かの耳に入った日には、俺の部屋と隣の部屋が一つの穴で繋がったかもって思いますね」
そんな揶揄に、ベレスは床から彼を見上げる。そのくらいで壁を抜かれるならとっくにされているのでは。思わず指摘を加えるが、彼は分かってないですねえ先生とどこ吹く風だ。
「ともかくですね、あんたはともかく普通はそんなに他人に心を砕く余裕はないんです。身体も時間も有限ですからね。だから必要な部分だけに情報を絞るのも思いやりです。気になるけど対応できないなんて悔しさに思い患わせなくて済みますからね」
そうなのだろうか。
穏やかな口調で言われてしまうと、正しいように聞こえてしまう。
「今日はどうして呼びました?」
突然話を変えられて、ベレスは蓋を締めた木箱をずらして、部屋の端に寄せていた丸テーブルを指差した。お茶でもどうかなと思って。シルヴァンはああ、と軽く頷いてベレスが開けた場所にテーブルを移す。
ありがとう。どういたしまして。軽い感謝を述べたベレスは、窓際に用意していた茶器のところに足を運んで、なにか手伝いますかと伺うシルヴァンに客用の椅子を勧めた。
厚い布で覆った薬缶から茶葉を抱く陶器へと、滔々と湯を流し入れると、くるくると回る葉がやがて笑顔に咲いて、馥郁たる透明な香りがあたりに広がる。
温かみがあって、すっきりとして、どこか少し甘みもあって。ベレスが紅茶を入れるようになったのは修道院に来てからのことではあったが、いまではすっかり陶器の蓋を開くこの時間が楽しみになっていた。
そうだ、今日は特別に。
「できました?」
うん、と返そうとして隣を見ると、客用椅子に座っているはずのシルヴァンが興味深そうに立っていた。どうしたの。質問したが彼は答えず、ただベレスが気まぐれに別の棚から取り出そうとした刻み硝子の瓶を眺めて、そして彼女が窓際に戻って抜いたその丸みのある蓋を手に取る。
野生動物が縄張りを確かめているような静けさで、硝子の裏に貼り付けられたコルク樫を見ている彼に、シルヴァン、とベレスがもう一度名前を呼べば、彼はそこで初めてベレスが彼に関心を向けたことに気づいたように、風味づけですかと軽く笑った。
「この前、ハンネマンとお茶をしたときに貰ったんだ。お酒に煮詰めたぶどうを加えたものとかで、すこし舐めるととても美味しい」
ひとたらしすれば華やかな香りが広がるとっておき。学生に隠れて楽しむようにと渡されたものだが、後はもう眠るだけの時間ではある。すこしおすそ分けしても罪にはならないんじゃないだろうか。
ベレスが声を潜めて説明すると、彼ははい、はいと曖昧に相槌を何度か打って、でも学生には秘密とのことなら遠慮しておくと柔らかく断った。
珍しく窮屈なことを言うものだ。なにか変だなとベレスが首を傾げながら温めたカップに紅茶を注ぐと、シルヴァンは丸テーブルにそれを運んだ。ベレスは硝子瓶を手にその背中を追おうとしたが、まあ自分だけいい匂いを味わっているのも気の毒だろうともう一度それを戸棚にしまった。
自身は書き物机の椅子に座って、ベレスは紅茶のカップを持ち上げ。
「それで今日は何をしようか。お付き合いという面でいうと夜に相手を招き入れるのはそれらしいと思ったのだけど、私の部屋には遊技盤があるわけでもないから、お茶くらいしかすることがない」
「なるほど。いきなりベッドにって話じゃあないんですね」
どうしてそうなるの。
ベレスが視線を上げると、彼はだってそうでしょうと片眉を上げて薄く笑った。
「一応とは言え恋人関係になった相手から夜にと伝言を残されて、指定時刻は入浴後。場所は部屋。考えるなってのが無理ですよ」
「たまたまだよ。今日は君の風呂の割り当てが早い時間だったろう。昨日は夕食の鐘で中断したようなものだったから、もうすこしのんびりできた方が良いと思ったんだ」
「そういう配慮はできて、どうして他に気が回らないんですかねえ……」
自分は一番最後だからゆっくりできるよと保証するベレスに、ため息をついたシルヴァンの手が、やっと紅茶に伸ばされる。
カップを持ち上げる彼の手首は柔らかく、ことりとも音を立てない。温かな水色を彼がじっと見つめる様子や、香りに目を細める姿になんとなく満足して、ベレスはそれを黙って見ていた。安物の茶器や葉にそこまで気を使ってもらうこともないのだけれど、丁寧に味わってもらえるのはなんだか嬉しい。
「そういえば、浴室帰りでも私服には変えないの」
ベレスがいつもの着こなしの制服を指差すと、彼は眉間の皺を深くする。
「あんたの部屋にくるのに私服だったら、かっこうの話のネタじゃないですか。これでも気を使ってるんです」
「せっかくすっきりしたのにもったいないなと」
「いやあ、あんたがややこしいこと言うんで新しいのに替えて来ましたが? このまま寝ても大丈夫ですよ、せんせ」
「……それもまた、なんと言うかもったいないね。わるかった」
士官学校の生徒の衣服はいつも糊が効いている。特に洒落者であるシルヴァンのそれはいつだって誇り高くぴんと輝いていて、もしそれを自分のために使わせたのだったら申し訳ないことだった。
今度からはちゃんと考えよう。ベレスは謝罪がてら籠盛りの茶菓子を彼に押しやる。
猫が飼い主に虫を持ち込んだときのような仕草に、そういうの要求しちゃいないんですがと半眼になろうとしていたシルヴァンは、まあせっかくなのでと一枚それを持ち上げる。
「へえ、珍しいですね。ファーガスの伝統菓子とはまた。昔から食べ慣れちゃいるもんですが、こう久しぶりだとそれも乙です」
思わずといった風に饒舌にシルヴァンが語ったところでは、寒冷な気候による乾燥を利用して、蝋燭の火にかざすと透けるくらいに薄く焼かれたそれはとてももろくて、本来長旅に耐えるものではないという。それがこうしてくるくると棒状に巻かれて初めて箱詰めにもできるそうだが、それができる職人も希少であるとか。
「いやあ、珍しいものを見ました。先生どこから持ってきたんです?」
「うん。これはフェリクスが例の贈り物の一環としてくれたものでね。どうも彼の実家が皆に配れと送ってきたらしい」
「は?」
シルヴァンのよく回っていた口がはくりと動く。ところがベレスは咀嚼を終えたそれをもう一本と持ち上げることに忙しかった。紅茶を挟んでぱくりとされるここまで長旅に耐えてきた薄焼きの菓子は、あっけなくベレスの口の中でかしゃんとほどける。
「それでね。とはいえ彼はあの調子だろう。教室に置いても湿気てしまうし、この脆さでは訓練場に置いても砕けてしまう。そこにちょうど私の話があったから、この際兵糧だと思ってお前が配れと言って箱ごとくれた。それで、一応まずは食べ慣れているだろう君にと……シルヴァン?」
「……せんせ。ちょっとそこまでにしておきましょうか」
食べかすを払おうと口元に近づけたベレスの右手を、シルヴァンの左手が絡め取っていた。
彼は突然のことに見返すことしかできないベレスに視線を流して、ねえせんせ、そろそろ慣らし期間は終わりじゃないですかと、手の甲の方から差し入れた五指で彼女の手のひらを磔に、自らの声色と笑顔から明るさを放棄した。
「俺結構ここ数日頑張ってたと思うんですが、あんたはどうです? あんた俺に恋人としての扱いをしろ、大事にしろって言いましたけど、いざそうされたらちゃんと応えるだけの覚悟はしてくれましたかねえ?」
他人の目に映るシルヴァンはとても管理されている。それは彼がいかにも巧みに声色や笑顔を操ってみせることから承知していた。しかしここまで鼓膜がひりひりするような圧力は体験したことがなかった。
彼の頭は聡いから、憤りのままに万一そうして、それが誤解によるものであれば取り返しがつかなくなることを知っているのだろう。だからいつも初夏の風のような明るい声をして。
はちみつの溶け落ちた巣箱のように食えない表情をした薄茶色の双眸に、ベレスはふいに昼間に見たもう一つの薄茶色を思い出す。やはり幼馴染と言うべきか、ふたつのそれはこうしてみると印象が近い。どちらも青々とした氷雪に棲む二つの狼眼。
ベレスはひやりとするそれを前に臨んで、
「そもそも君が付き合ってる相手は大事にすると言ったから言っただけだよ。でないと評価なんかできないだろう何を言ってるの」
「いやまったくそうなんですけど!」
「君が努力している間に私が何をしてたかにしても、細かいあれこれでいちいち点数をつけるのをやめたよ。それに君と過ごすためのルールも作った。そのあたりに何か不備があったら言ってくれれば対応したい」
「ええはいそうです。そのとおりです。いやもうほんと分かっちゃいるんですがね……!」
やりづらい。まつ毛の箒で文句のことごとくを掃き出していくベレスにシルヴァンの喉から漏れた嘆きが聞こえた。しかしそれで終わる気はないらしく、再び上げられた彼の顔には、もうそのまま言ってしまえと言わんばかりの自暴自棄さが宿って、じゃあ先生聞きますがと、掴んだままの手を握り直して問いかけた。
「一般的な話として考えてください。恋人との逢引中に、他の男からもらった贈り物のことを延々と話すのっておかしくないです?」
うん?
ベレスの眉がそっと寄る。その視線は一度慎重にシルヴァンの鼻先に向かって、つぎに山盛りの菓子籠に移った。
「……それはおかしい」
「でしょう」
疲れ果てた様子でシルヴァンは肯く。
つまり自分もまた恋人らしくないことに文句を言われているのだ。ベレスはやっと訴えの本質を察したが、容易に納得することも躊躇われた。本来の自分の役割は、女性に向けるシルヴァンの態度を評価するだけのものだったはずだ。
「いやまあ、あんたが釣った魚に餌をやらない主義なら諦めますけど……あんたそういうタイプですかね?」
「こんな派手な魚を釣った覚えはない」
「釣れたんですよ。そういう前提にしないとこれ以上話進まなくないです?」
シルヴァンがそう諭す。君は釣られた扱いでいいのと、そんな問いかけがベレスの口を衝いたが、彼はべつに構いやしませんとその困惑を退けた。
そうだ。彼は何らかの目的で自分と関係を持っている。それに対して自分はどうだ。経緯はどうあれ彼のことを知りたいと申し出を承知しておいて、ただ遠くから見せてもらうのを待つだけか。
それはいささか虫が良すぎる。剣にしても何かを習得するには、まずは自分からも門を叩かなければいけない。
「……分かった。今後はそのあたりにも留意する」
ベレスがそう結論づけると、シルヴァンの指関節が囚える角度を深くした。
「誰かと恋仲になったことなんてないからできるかは分からないけど、間違っていても助けて欲しい……すごい顔してるけどどうしたの」
「いやあちょっと……余計なことを想像しまして」
シルヴァンの顔が伏せられて、その息の下からへえ、はあと詠嘆がぼろぼろ落ちる。ベレスの右手は掴まれたまま、彼の手のひらと接触する甲がふやけたようにひりひりしている。それだけじゃない。まるで全身が感覚器になったみたいに、ベレスの耳は多くの音を集めて回る。肌はそこにある熱を観察している。
どうすればいい。いまなら何一つ見落とすことはないだろうしびれるような空気の中で、窮した彼女は次に発する言葉を撚った。
「――そう言うと意中の相手は喜ぶと」
「一体誰から聞くんですかねえそういうの⁉」
「ずっと前だけど、ジェラルトがいないときに預かってくれていた宿の二階のお姉さんたちに」
「子供に仕込んだらだめなやつじゃないですか!」
「シルヴァン」
「はい」
「私は何をすればいい?」
戯れの分水嶺を過ぎたことは理解していた。しかしベレスの結論は山の頂から落とされた雪玉のように現実の斜面を滑り出す。
なにをどう決めようと恋人らしい行動など分からない。けれどそれがふたりですることならば、一人で決めるものではなくて。
問いかけるベレス鼻先に、その言葉はかけられた。
「ベッド、行きません?」
とたんに目の前に膨らんでいた虹色の泡がぱちんとはじけて、眩んでいた思考が雲散霧消した。
逃すまいとするように握り込まれた右手首が痛みを発する。どうですと微笑む男は思わず逆の手で机の足を掴んでいたベレスに気づいているはずなのに、息を弾ませる獲物の様子を観察している。
ベレスは靴底に力を込めた。
「……それで?」
シルヴァンの眉が不快に寄った。
「一応誓っておきますが靴を脱ぐようなところまでははまだしませんよ。あんたが流されてくれるってなら別ですが――」
「分かった」
「となると、今日のところの目標は先日失敗した『隣に座る』くらいですかねえ」
「意外と甘い」
「あんた一応知識だけはありそうですけど、最初言った通り慣れちゃないでしょう。ですから少しずつですね」
「どこまでするの」
「全部……ですかねえ。あんたが許す限りはですが」
分かった。
同意を述べているはずなのに、さっきまで二人の間に存在したせっせと作り上げていたはずの渡し橋に戻しようもない亀裂を広げているようだった。
シルヴァンの提案は予想通りの言葉であった。けれどそうして欲しくもない言葉でもあった。彼は女性に対してだらしがなくて、到底誠意があるとは言えない。そんな風評は最初から知っているのだから、ここでそんなふうに認識をなぞらされるのはいまさら許しがたかった。
だからベレスは全てに頷く。
それは分かった。その次も問題ない。あとは何を言ってくる。あたかも牽制のように小刻みに出される条件をすべて飲んでみたなら、いつかはまいったと音を上げてくれるのではないかと思って。
だって、たんに身体の関係を求めるだけなら、どうして自分を知ってから評価しろなどと言って来たの。
そうして睨み合って、出せる手札をすべてばらまけば、ベレスにできることはそれだけだった。これ以上を追ってどうなる。からっぽの手の内に心は収束を臨んでいるのに、言葉は自然と溢れて落ちる。
「……内面の理解を助けるのは対話だよ。触れ合うことだけが親密さとは思わない」
「あんた言葉より行動って言いませんでした?」
「対話も行動の一種だ。傭兵なら相手の剣の鋭さだけを信じることもあるけど、それだけで背中を預けようと考えるかと言われればそうではない。そのなかで対話を避け続けようとする相手が信用に足るか。違うだろう」
剣は嘘をつかないとは武を嗜むものには一般的な言い回しだが、最後に背中を預けられるかを決めるのはそこに語られる信念だった。どんなことに喜んで、どんなことに悲しむのか。だからベレスはジェラルトの後ろから人の話を聞くのが習い性となって、それはじきに単純な興味となっていた。
シルヴァンは苦虫を噛み潰すような顔で、頑固ですかあんたはと大きく呼気を吐き出した。
「触れ合いもまた対話ですよ。近くにいるほど相手の考えがよく分かる……。例えばそうだな、あんたこうやって何人もお茶に招いてますよね。それとお付き合いしている状態ってどう違います? 対話はしている。笑顔も飛び出す。さて、違うのはどこでしょう」
一体どちらが教師であるのか。そのくらい穏やかな口調で彼はベレスに問いかけた。
「分からない」
「早いです。もう少し考えてみましょう。そうですね、息を吸って、吐いて――ええ。少しは落ち着いてきましたか?」
ゆるゆるとした語り口はとても問題発言を投げ込んだ張本人とは思えないほどに堂に入る。逃げる敵兵を追撃するように上体を前に傾けていたベレスは、いまここが自分の部屋で、目の前にはすっかり冷めてしまった紅茶があるのだとやっとのことで思い出す。
今日は何をしたかったのだ。
徒労感に視線を落とした。こんなことならここ数日の記憶をいっそすべて消してしまいたいと思ったが、かろうじて頭に残る、彼は自分の生徒であるという自覚のみでベレスは言葉を紡ぐ。
「感情ががあるか、ないか?」
「それはありますね。感情があるとどうなりますか?」
「……。どうかな。分からない」
いまベレスの胸の中にあるのは教師としての責任感だけ。ところが導かなければと強く思うそれはいまさら、硬すぎる石にかじりつく以外の何の役にも立ってくれない。
もしも愛情なりを彼に持っていたなら、こんな風に対決することもなかったのだろうか。
分からない。たとえそこに答えがあると教えられてもベレスにはたどり着ける気がしなかった。こんなに分かりたいと思っているのに、どうやったって分からない。
むりだ。とかぶりを振ると、シルヴァンの細い吐息が聞こえた気がした。いつもだったらそれがどうしたと問うところだが、もうベレスは口を開く気が起きなくて、もう一度首を横にふる。失望したろう。ベレスが言うと、低い呻きに鼓膜が震えた。そうか、あんたそういう感じでしたかと発される言葉には、もう誰もいない雪原で落とし物を拾おうとするような、妙に真摯な重みがあった。
「きみがわからない」
自分の口がひとりでにそう言葉を吐き出していくのを、ベレスはひとごとのように聞いていた。その耳はやけに熱くて、自分以外が発する音が聞こえないほどにごうごうと鳴って収まらなったから、実際は悲鳴じみた声を上げていたのにも気づかずに。
そこに。
「せんせ」
繋がれたままだった手に、もうひとつの温もりが添う。いままでは甲の上から動きを制限されて、もがくばかりだったベレスの手の内にひたりと収まった彼の逆の手のひらは、丈夫そうな下に温かさを持っていた。
そこにさっき望まれたような欲は感じられなくて、ただ与えられた温もりに、ベレスの指がまた戸惑いに宙を掻く。
もうやめたいと思っていたのに、この触れ方は嫌ではない。
嫌ではないのがとても困った。
「これも意味がありません?」
ため息と吐息のまんなかくらいの押しの強さで問われる。
何も感じなかったわけじゃない。寒空を通り抜けたあと、手先を暖炉にあてたときのようにじんと広がる肌の熱さは、腕全体から肩へと抜けて、そのまま倒れ込みたくなるほどの眠たさを呼んでいた。
ここは安全。危険はない。問われるまでもなくその温もりは一呼吸ごとに言葉を発していたけれど。ベレスの息は雛のように震える。触れ合いも対話の一つで、それもまた彼の内を知る手段と納得してしまったら。
「せんせ?」
呼ばれて、ベレスは顔をそちらに向けた。
「……いま鏡を見ろなんて言われたら危ない。たぶんうっかり腕を捻じ折る」
「捻じ折る⁉」
きっと見られない顔になっている。
閉ざそうとして閉ざしきれない、深く切りつけられた筋跡のようにぱっくり口を開こうとするベレスの唇。眠たくて重く垂れ込めようと欲するまぶた。自由な方の指は無意識に紅茶カップの耳を持ち上げて、かちんと置くのを繰り返している。
留め置かれていたシルヴァンの喉が上下に動いた。
彼は振り払われずにいた両手を離して、右手をベレスに伸ばす。飾りを外した胸元の前で止まる今度のそれは、どこに強引に触れようとするものでなくて、咲きかけの花を支えるように上に向けられた手のひらは、これを取って欲しいがと願いを相手に預けるような。
たぶん、こういうところが彼の好かれる所以なのだろう。
ふとベレスは小指の根本に目を止めた。皮の戻らない小さな潰瘍。人差し指の中頃に同じ痕は見られず、中指にはすこしある。槍使い特有の手豆だが、じきにそれも皮が厚くなって消えるだろう。いつになるかまでは知らないが、真摯に鍛錬を重ねるならそう遠い話ではない。
発展途上の手のひらに指先を置いて二点進める。浅い小指球のふくらみと、硬い母子球のいただきと。槍の柄を握られるように素直にその間に落ち込むのはできそうにもないけれど。
ふすんと鼻息の抜ける響きとともに、ベレスは片手をそこに預けた。そしてどう出ると相手を見ると、
「さて。ご納得いただけたみたいですし今日の目標でも達成しときますか。覚悟は良いです、せーんせ?」
「なに――」
ベレスが我に返ったときには、落とされた尻の重みに寝台が抗議のきしみを上げていた。
ベレスの手が完全に預け切られたと見るなり、客用椅子を離れたシルヴァンがその手を引いて、舞踏のリードでもするように彼女を執務机からももぎ離していたのだ。
一歩、二歩とたたらを踏んで、ぽすんと落下したところで、いきなり振り回された事実に抗議を試みる。しかし油断を見せたベレスをあっという間にシーツの上に据えてみせたシルヴァンは、放たれた獣のごとくに獲物を貪ろうとするでもなくて、毛並みの良さを見せつけるように行儀よく彼女の領域の外にいる。
「ちょ、ちょっと待つんだシルヴァン。君は何をしようとしているの」
「だから今日の目標です。隣同士に座ってふたり寄り添って言葉を交わす。どちらの主張も通る一挙両得の策だと思いません?」
ベレスは思わず尻で後ろににじった。つまりこの隣に来ようというのか。汚れたブーツの踵が適当にかけていたシーツの垂れ下がった裾に当たって、繋がれたままの腕がぴんと張る。
「前回は先生に近づいてもらおうとしたのが敗因だったと思うんですよね。ですから今回は俺から行こうかと。腕一本分の距離から少しずつ詰めていきますんで心の準備をお願いします。はい先生逃げないでもらえます?」
「いや待っ……きみ本当はもっと穏当にできるんじゃないの」
いかにも軽い言葉で煙に巻くとか。なんとなくのうちに流していくとか。とにかく相手に警戒されないうちに事を収めるのが彼の十八番ではなかったか。
「あんた俺が適当な態度取るとえらい警戒しますよね?」
「適当でなくても警戒する」
「ははあ。そのくらい集中して貰えるのは光栄です」
腕一本の距離など守りにならない。戦場であればその二倍、三倍を一足飛びに踏破するもので、それを手を触れ合ったままゆっくり詰めようなどと聞かされてみれば、もしや辱めが目的ではないかと緊張感に眦がとがる。
かといって、彼の風聞から想像されるような不誠実さ――勝手にひとの寝台に乗り込んで、なし崩しに手を引いてくるようなものでもなくて、中途半端だ、とベレスは山道でたるんだ綱を引いている気分で言葉を返せず。
「やめておきます?」
そこにかろうじて手応えを残していた綱の端がぽとんと落とされた。
彼はいつも提案だけして、あとは相手に任せて終わる。もしも相手が拒絶をしたならそれまで。本人がそう言っていたように二度と持ち出すまい。今回も。
強要はされていない。だのにベレスは逃げ道を塞がれたような気分になっていた。彼女の方が強い権利を持っているから。前回はベレスが拒絶を明言しなかったことで中断が見送られたが、今回は退けばそれまで。僅かにでもこの先を望んでいるなら逃げ道はない。
教師として生徒の素行を確かめる絶好の機会と見るべきか。それとも――たんに、好奇心の結ぶ果てとして。
「……できれば君の好きにしてほしい」
絞り出すようにベレスは言った。
「はい……?」
「できれば君の」
「いや待ってください先生ちょっと」
素っ頓狂な裏声が高く上がった。強敵に剣折れ矢尽き、最後に残った回復薬の瓶を握りしめるような面持ちで発されたベレスの言葉に、シルヴァンの上体が横から飛び出てきた馬車にぶちあてられたように虚空を泳ぐ。
「だからこういうのは私はわからないから、いちいち様子を窺わなくていい。確認もいい。君の好きにしてくれて構わない」
「いやいやいや、あんた何言ってるか分かってます」
「いざとなればなんとかなる」
「どうせ腕っぷしで先生に勝てる気しませんから構いませんがね⁉」
すっかり殊勝に沈んだベレスは、沈みきった底にでんと腰を据える構えで、あとは頼んだと重量級の問題をシルヴァンに丸投げた。
まさか上級者が訓練場の新兵を相手に喧嘩をふっかけるようなこともするまいし。つぶやくと、肩を低く落としていたシルヴァンはいかにも絶望的なため息を抱えて、いつものあんたに聞かせてやりたい台詞ですねと、辛抱強くその場に留めていた重心を変えた。
どうしてこうなったのかはもう忘れたけれど、とベレスはゆっくりと、しかし確実に位置を変える士官学校の靴先を見ていた。
たぶん、彼本来のやり方は違ったはずなのだ。例えばベレスが椅子に座っている間に勝手に寝台に座ってしまって。はい先生こっち来てくださいなどと無邪気に言って。さっきのように思い切り腕を引いてみるとか。ベレスはおそらくそれに反感を買っただろうが、得意の話術で適当に煙に巻いて、こちらを納得させることもおそらくできる。そのくらいには、この生徒の口車を評価していた。
なのに彼はそれを選ばなかった。それどころか、思い返せば彼女が前のめりになるたびにいかにも不誠実な言葉を叩いて。思い直せと言わんばかりの、いかにも拒絶を求めるようなその動き。
わからないな。きしむ床音を聞きながら、ベレスは思考を放棄した。
想像は想像でしかなくて、今日はどの想像も正しくなかった。ここまでに得てきた対話の量では、彼はまだ理解できない。
伏せていた視界に学生服の膝が映る。踵の高い靴を使うベレスの、揃えた膝と同じくらいか。繋がれたままの手から上に目線を上げると、わずかにこちらに傾ぐ体軀は随分と大きいように思えて、知らず、握り込んだシーツに皺が寄る。
「座る?」
唇だけが部屋の主の役目を果たした。それが他人事のように切り離されたベレスの頭は無風を気取って、随分と静かだな、と通る人もなくなった部屋の外の音を聞く。
風蕭々として、夜茫々として。
遠く流れる歌を聞くように言承けを待っていると、
「……実はですね、怖がらせてやりたいって気持ちがすこしありました」
声があまりに密やかだったから、ベレスは大修道院奥にあると聞く薔薇蔦の門の前に立っているような気持ちになって真上に咲く赤毛を見上げる。
「どうしてでしょうねえ。あいつらがあんたのために頭を捻って贈り物をしてきたってのを聞いたときから、なんだかそんな感じでしたが」
ベレスはわずかに思考を沈める。
「君に黙って対策を決めてしまったのはよくなかった?」
「いや……それは問題ないです」
ただ、と続けられる気配を感じると、ベレスは頷いて自分の右横を軽く叩いた。
座って。今度は明確に響いた声にシルヴァンの両目が開く。
言葉もなく二呼吸ほどの時間が過ぎて、ぎしりと軋んだ寝台が二人分の体重を乗せて黙する。繋いだ手もそのままに、ただ右と左ではどうにもねじれてしまうから、膝と膝とは触れるくらいに、座る角度は浅く斜めに。
体温を感じるほどの距離に近いな、とベレスはその時点で思って。しかしここは慎重に聞く必要があるようだと気を取り直して、問いかけようとして。続きを促そうとふだんは頭ひとつ分差のある高さを背を反らして見上げて驚く。
ちかい、ともう一度ベレスは思った。
そこには精彩なひとのかたちがあった。
まつ毛一本の動きすら際立つ圧倒的な存在感。身じろげば二の腕が当たりかねない距離は、夜降るなかでもすべてを暴く。ベレスのことを見下ろして、気まずく思っているように薄く開く唇であったり、言葉を選ぶようにその内側を押しやる舌のなまめかしい動きであったり。瞳に結ばれる像があまりに鮮明で、ベレスは驚きとともに低く下がっていくのどの輪郭を見ていた。
「……。実際うまくやったもんだとは思いますよ。あとは週末の演習ででもあんたが鏡を使ってみせればみんな納得して噂も止むでしょうしね」
シルヴァンは一度言葉を切って、だから問題はないんです。そこに関してはと、動かないベレスの視線を受け止めきれないとでも言うように頭を振った。
「他になにかがあったの」
「なくもないです。俺があんたに贈った気持ちも、あいつらと同じになっちまったかななんてガキみたいな拗ね方です。あんたがそんなふうに思ってるって信じてるわけじゃあありませんがね」
「……そう思わせたのは悪かった」
「いえ。でもまあ――だからといって、俺のために無理をしようとするあんたも嫌なんだよなあ俺って……ああ、わかりませんよね、こんなこと言われても」
わからない。けど、とベレスは視線を落として繋がれた右手に移す。
彼女は彼が鏡を贈ってくれた理由が、他の生徒たちに伝えたほどに単純な――彼女がねだったからそれに応えた――ものではないと無論理解していた。実際のところは表情に悩む彼女への手助けであることも。
申し訳ないなと思った。彼女は事態を収集するべく立ち回っただけだが、それには彼への誠実さが欠けていた。彼に何の相談もないままに切り取った事実を喧伝し、それに砂をかけていたことも。
この関係はただの戯れ。それは事実でありはしたけど、数え忘れてはいけない真もあったのだ。
「シル――」
呼びかけようとしたとたん、とんとん、と繋がれた甲に指が置かれた。
顔を上げたベレスの前で、シルヴァンの手はベレスのそれを離れて、代わりに強く寄せられていた彼女の眉間に触れる。
「……なーんて。気づいてました先生? 俺もうずっとさっきからあんたの横にいますが」
一瞬何を言われているのかわからなかった。ベレスが絶句するのに合わせて、シルヴァンはさっと両手を挙げる。その顔は、
「いやあ好きにしろと言われたもんで、俺なりに考えた先生の攻略法を試してみました。前からあんた悩みごと聞くときはやたら警戒が解けるなあとは思ってましたが、まさかここまで許すとは……悪いのに騙されないよう気をつけてくださいね?」
で、やっと目標達成しましたが、どうでした。やってみてよかったーなんてありませんかね。
何もなかったかのように続けられる問いかけに、ベレスは前のめりに彼を見上げていた自分の唇がぶるりと瘧のように震えるのを感じた。吐き出す息は熱く、細かく途切れる。
君は何を言っている。近くにくると受ける情報量はたしかにふえた。けど。シルヴァンはベレスの唇がこぼすそんな単語をいくつか拾って、うんうんと頷いていく。
「でしょう? ほらやっぱり触れ合う距離感も結構大事……あれ、せんせ? なんです毛布ひっぱって……いやそんな押さないでくれます⁉」
「寝る」
シルヴァンの脇腹を押して寝台の端に押しやって、空いたそこにベレスはばたんと転がった。次いで蹴り出したブーツが宙を舞うのにうわ先生ちょっとと狼狽の声が広がるが、構うものかと胸に毛布を抱えて目を閉じる。
一体どちらが覚悟を決めてないのだ。ベレスは思考を濁らせるものを振り払うように肩を大きくそびやかし、ついでにその勢いで寝返って、押しやった腰の後ろに額をつける。
「せんせ……?」
戸惑う声には答えず無視した。
ところがたとえ両目を閉じていようと、この距離では余計なものを拾ってしまう。やがて選びぬかれたようないつもの声がベレスのもとに降ってきた。
「あの……膝枕とかいります?」
君がそうしたいならすればいい。ふい、と覗き込まれた気配の逆に首を逸した。
「……それとも帰ったほうがいいですか?」
きしむ寝台の小さな音。額に当たる腰の位置が爪の半分ほどだけ動く。
――これでは蝋燭の灯がとても眩しい。
ベレスが肩を丸めて額の位置をもう一度定め直すと、身体の一部の自由を奪われたままとなったシルヴァンは深く深く息を吐き出し、毛布から出たままの肩にそれを掛け直す。
「明日はどうしましょうかねえ」
呟く彼に薄くまぶたを上げる。本でも読むならそのへんにあると机を示せば、だからそういうんじゃなくてですねと、遠く物思う声で彼は返した。