しりたいふたり、するふたり - 三日目 わからないものがある。
それを知るためならば、多少の逸脱くらいは。
3rd Day - Cuddle up to me
授業を終えたベレスはいつも資料室を訪れる。
それは彼女が教職に就いたときからの習いで、明日の準備をするための道のりだ。しかし、
「せーんせ。今日のぶん、させてくれません?」
まさかそれから数節たった後には、その行く手に誰かが両手を広げて待っていて、ベレスもまたそれを呆れた気持ちでそれを見返すようになっているなんて、全く想像していなかった。
「べつにかまわないけど」
「やった。それじゃ遠慮なく」
ふわりと空気が波のように押し寄せて、それに抗うように足を床に縫い付けているうちに温もりが頬に当たる。物干しにはためくシーツに絡め取られたようなさらさらとした抱擁の向こうから、せんせ、と彼女を呼ぶシルヴァンの呼吸が聞こえる。
嬉しそうに抱き寄せてくる彼とは真逆に、けどと反論含みで合意したベレスは、呼びかけに応えず、ぶらりと両手を降ろしたまま動かない。動く気もなかった。彼女はつい二、三節前に、彼から「殺してやりたい」などと言われたことを忘れてはいない。
というか、忘れたように行動できる方がどうにかしている。
まあいいかという、並々ならぬぞんざいさと十二分に身につけた腕っぷしを根拠にそれを許容しているベレスであったが、本来であれば、そんな感情を向けてくる相手に接触を許すべきではないと理解はしていた。
実際、突き放すように憎しみを伝えられた後は、しばらくは接触を避けようと考えていた。
しかしそんな彼女の決意も虚しく、あまりにも授業への出席以外での彼の音沙汰がなくなったため、その変化の大きさに、さすがにこれは教師としても放ってはおけないと動かざるを得なかった。
すべての仕事を終えた週末の夜。見上げた自分の寮の部屋の真上に、揺れる灯りと人影が見えるのを不思議に思ったのを覚えている。
夏虫が合唱祭に饗する中で、部屋の戸口に彼女を迎えたシルヴァンは、顔色を失って、何か用ですかと早口に言った。
刺客でも目の当たりにしたのかという牽制ぶりに、ベレスがただ大丈夫かと思って様子見をしに来たのだと訥々と告げると、彼はひくりと喉をふるわせた。そして憎らしそうな目を向けたかと思うと、くつくつと沈み込むように横隔膜を歪ませて。やがて低くつむじを見せていた頭が上がったときには、今度はどこか寂しげに、
「お付き合いしている相手との再会には抱擁が必要かと」と。行方不明になっていた放浪猫に向けるような声色でベレスを両手で抱きしめて。それだけ。
以降、彼がベレスに抱いていた憤りや、それに任せた行動についての説明はなく、いまのような態度で接されている。
――誠意とは何だろう。
彼自身から彼の監査を依頼されているベレスは、その後もこうして抱擁を受け入れているが、彼の過去の無茶苦茶を、そういうものがあったと承知しこそすれ、許してはいない。
だからこんな風に穏やかに首筋の匂いを嗅ぐたびに、不可解が頭を満たすのだ。
互いの距離が指の一本ぶんを割り込んで、軽く頬を寄せられて。直接胸に響くゆったりとした呼気の閑やかさは後ろめたさを感じない。
貴族の子弟は己の放った悪意など意に介さずともいいものなのだろうか。
そう考えることもある。たんに放蕩に責任を持たなくてもいいだけなのかと。けれどそれにしてはおかしなことに、何度抱擁を重ねようとも彼はそれ以上を求めてもこない。
一日に一度、頬の香りを吸って別れる。
そんな関係をなんと言うのかベレスは知らない。
まあ、たぶん飽きたのだろう。
そんな風に納得していた。
彼はあれで煮え切らない性格をしているようだったから、終わりを宣言するのも面倒だと思ったのかもしれない。それで、相手が何も言わないのをいいことに、なんとなく触れられる関係を維持している。
あり得ると言えばあり得る話だ。以前遭遇した別れ話から伺う限り、彼は複数の女性と同時に交際をしていたこともあったようだし。
もしかしたら、まさにいま、この瞬間にも、どこかで彼の不在に胸を焦がしている女性がいるかもしれない。
いつか聞いた覚えのある醜聞の登場人物の片方が自分になっている。そんな想像はベレスを憂鬱にさせた。それは嫌だな、と。すっかり逢引の定位置になった書棚の陰で、つま先立ちに相手の肩に顎を沈める。
自分は別に構わない。自分は彼に頼まれて様子を見ているだけで、会わなくたって全然平気。今日でも、明日でも、明後日でも、金輪際二人の間になにがあろうと、卒業まで教師として指導できるものなら問題ない。
だから、嫌だと思うのは別の話だ。
もし誠意があるならば。あれほど主張したものが本当にあるなら。どこかで心痛める誰かのために、自分から終わりにしてくれないか。
「せんせ?」
無意識に落ちた嘆息に、こめかみの髪がさらりと揺れた。シルヴァンの上体が離れて、糖蜜の海を泳ぐようにゆっくりと、薄茶の瞳が向けられる。気遣うようなそれは触れる身体と同じ温度をしていて、温かみのある彼の人柄の一端を見たような気になれるのだけど。
「明日の演習は早いから、遅れないようにね」
言って、ベレスは彼から離れて隣の書棚に向けて歩き出す。
――もしそこに誠意があるならば。自分で終わりを告げる日が来るはず。
その日を待って、今日もベレスは何も言わない。
あくる日、青獅子学級の面々は勢揃いで北に向かっていた。
演習という名の野党の討伐依頼。この手の依頼にしては珍しく全員での討伐を終えた生徒たちは、依頼者からそれぞれ報酬を受け取った後、近くの空き地に野営地を立てた。それが終わった後は、せっかくここまで来たのだからと語るベレスに従い、三々五々に森林浴を味わって。
川で戯れる水の音。村の雑貨屋を覗こうかと語り合う笑い声。
晩夏の木漏れ日の降るなかでの、互いを称える健やかな交流。
ベレスはそれを聞きながら、ひとり慎重に野営地の周囲に鳴子を仕掛けていた。
二本の縄に括った板に、小さな球を取り付けては延ばす。時折通り掛かる生徒たちが彼女の作業を覗き込んでは手伝いを申し出るので、手伝わせたりもしてみるが、基本的には自由にして欲しいと伝える。鳴子は今日の夜間演習の小道具も兼ねていて、事前に詳細を知られてしまえば緊張感が薄れてしまうから。
生徒たちには通達していないが、今日はこのあと、これを使って一騒動を起こすつもりだった。
戦闘を終えた疲労の中で眠りについたところからの撤退演習。大きな音を立てるだけの罠で深夜に生徒たちを叩き起こしたのちに、敵襲を受けたと仮定してガルグ=マクまで休み無しに帰投する。
いくつかある確認地点まで規定の時間内に走りきれなかったらそこで脱落。疲労困憊・満腹状態からの不眠不休で行われる暗夜訓練に果たして何人が耐えうるか。
なおせっかくの大演習なのでセイロス騎士団から追討役を出してもらっている。暗闇からのシャミアの追い立てに大変期待だ。
――脱落候補は十余人くらいかな。
厳しめの見積もりだが、初めて体験したときベレスは完走できずに吐いた。そのくらいの覚悟は必要だろう。
作業を続けるベレスの耳に、唯一さわりだけを聞かされているディミトリの『今日は演習として来ている。一日羽目を外しすぎないようにな』という生真面目な制止が聞こえてくる。このあと彼とその未来の腹心たちがどんな手腕を発揮するのか今からとても楽しみだ。
あらかた罠を仕掛け終えた後は荷物を整理する。水よし、武器よし、軽食よし。入念に服で巻いたフェリクスのお菓子も割れてはなさそう。
後は川で疲れた足を冷やして、一寝入りでも。
川べりの大きな石に座って、ブーツをぽいぽいと投げ捨てて冷たい川に足を浸すと、ここまで身体を取り巻いていた緊張がさらわれていくようだった。
そういえば最近は大修道院のなかにずっといるから、こんなふうにせせらぎの音を聞いたり、葉擦れや枝の青々とした香りに包まれることもなかった。
あるのは大聖堂に揺れる振り香炉の乳香や、香草園に満ちるパセリとセージとローズマリーとタイムの香り。それから人工的につけられた紅茶の涼しい香りと、すれちがいざまに馨る、誰かの香油の。
肺の底に残るその記憶がありもしない香りを蘇らせて、ほそく息を吐き出す。
毎朝起きて、寝る場所が変わって。吸う空気が変わって。ベレスの内側の記憶はすっかり変わってしまった。
自分を見る目にしても、恐怖から尊敬へ。敬愛へ。向けられる表情だって。
そのひとつひとつを思うと、いまこうして屋外にいることを珍しいと思う自分はあの頃と同じだと言えるのかと思う。今の自分は、傭兵と言うよりただの教師で、案外それも悪くはなかった。
うん。このままもう少し。
だが、そのとき彼女を呼ぶ生徒の声がした。ベレスはあたりをきょときょとと見回して、その主を緑の葉の影に見出す。イングリット。
「どうしたの」
「すみません先生。シルヴァンの居場所をご存知ないでしょうか」
「シルヴァンがいない?」
幼馴染組の長兄が行方をくらましたのを報告した彼女は、静かな湖の色をした瞳を憂いに沈めてこくりと頷く。
ベレスは思わず腰を浮かすが、空はまだ青い日差しを抱いている。いま休まずやんちゃをしているとこの後の演習で泣きを見るだろうが、彼が行けそうな場所は近くの村くらいしかない。
ちらと行ってみようぜとする生徒たちの会話を思い出す。けれどあの村には盛り場のたぐいはなかったはずで、そう心配することもなさそうだ。
「そのうち戻ってくるんじゃないかな」
他にも見えない子がいるでしょう。そう諭すと、イングリットは両手で頬を覆ってはあとため息をつく。
「そうですよね……すみません。最近やけに真面目でしたので。気味が悪くて」
たいそう辛辣な評価であったが、その気持ちはよくわかる。
ベレスへの態度を改めた後もシルヴァンの行動はきれいなものなのだ。
訓練態度も真面目だし、朝も授業の準備を始める前から教室で自習をしている。夜くらいは遊びに行っているだろうと寮を見上げても、毎日明かりが灯っている。
日々抱擁を受けてはいても、それ以上の時間は求められず、だから必然的に会話もなくて。もし彼の中でなにがあってもベレスには分からなかった。
「もしや替え玉でもいるのかと思ってね、門番に出入りの確認をしたこともあるんだけど、特に気になる証言はなかったよ」
「そうですか……コナン塔のこともありますし、思いつめていなければいいのですが」
そうだね、とベレスは頷く。
コナン塔で彼の兄を討った時期と、彼からの暴言を受けた時期はほぼ一致している。そのあたりになにか切っ掛けがあったことは疑いない。
けれど、それ以上はわからない。
「もし彼が何か隠し立てしようとするなら、私には分からないようにするだろうと思う。本当におかしいと思ったら、すぐに報せて」
違和感を察知できるのは昔馴染みの特権だとイングリットに言うと、彼女はそのせいで苦労もさせられているわけですがと苦笑する。
「普段から心配させられると癖になる」
「ええ。何がなくても心配になりますから。最近は本当に彼への苦情が私のところに来ることもなくなって……先生?」
「あ、いや……女性問題もなくなっているの?」
まぶたが勝手に二度瞬いていた。イングリットに届く苦情は女性からのものがほとんどのはずだから、それでは、公私ともに素行が良いということになってしまう。
――むしろそこは、聞こえないだけで増えていると思っていたのだけど。
「それは……うん。不気味だね」
「そうですね……」
さっきまでベレスの気分を洗ってくれていた透明な川はいつのまにか、無意識にかき混ぜられて濁っていた。指の間をすり抜けていく水は惑わせるようにふわふわと薄茶色を漂わせていて、これ以上はやめようと水から足を引き上げる。
石の上に足を揃えて置く、そんなベレスにイングリットは不思議そうな目を向けていたが、その手が突然、はっと音がするほどに勢いよく胸の前に跳ね上がる。
先生。彼女は石に膝をつく。白い手がベレスの両手をぎゅっと包んだ。
「もし彼のことで何かありましたらすぐにおっしゃってくださいね。直接問いかけづらいことがあれば私達が追求しますので」
透き通る肌は薔薇で色を付けたように瑞々しい。それを見てしまえばさすがのベレスも、彼女が兄貴分と教師に言えない関係を見たのが分かる。
そういえば結局彼との噂を否定する機会もなかった。すでに取り返しのつかないところまで勘違いを受けているような気もしたが、否定の言葉を舌に上らせる。
彼と私は、特段、何も。
一言ずつ区切りをつけて、ことさらに強調をしようとして。
「――へえ、ここに出たかあ……あれせんせ、何してるんです」
「へ」
向こう岸の森の奥ががさごそと鳴って、件のシルヴァンが現れた。
彼が道を作ったその後からは、大きな瞳を左右に振って手元の羊皮紙と見比べるアッシュが歩き出てきた。
珍しい組み合わせだ。ベレスとイングリットとがじっと二人を見ていると、彼らは浅瀬を見つけては岸を渡ってやってきた。
「何してたの」
「あんたこそ何て……いや何でもないです。ええとですね。どうもうちの大将が朝っからピリピリしてるもんで、これは何かあるなあと思いまして。アッシュを誘ってあちこち見てきたんです」
「はい。本陣に先生が置いていってくださった地図がありましたから、念の為ですね」
「余計だったかも知れませんけどね。まあ、俺たちが動いてりゃ、あの人もちょっとは安心するでしょ」
ベレスはイングリットと目を見交わす。
「真面目にやってた」
「そうですね……」
「なんですそれ。俺が真面目にやっちゃだめですか⁉」
シルヴァンは上体を反らして腰に手をやる。
「あ、いや。茶化して悪かった。それで何か成果はあった?」
シルヴァンとアッシュは横目で視線を交わし、頷いたアッシュが進み出る。
「……こんなものが」
ベレスは立ち上がって、彼が差し出した袋を受け取る。
そっと開いたそこには、絡み合う糸の束。
「どこにあった?」
「ええと……」
と、アッシュはきょときょとと視線をさまよわせて、あ、と思い直したように手元の地図を持ち直す。「このあたりです」と順に指差していく動きによどみはない。
「二人で見つけた?」
「そうですね……高い場所はシルヴァンが、低い場所や隠れた場所は僕が見ました」
指し示される場所が六点を超えたころ、ベレスはよしと頷く。
「うん。合格だ。これは私が仕掛けたものだよ」
「先生が?」
「そう。これは『任務完了、帰投せよ』の意味になる。ジェラルト傭兵団での形になるけど」
結束の強い傭兵団が使う糸言葉。言葉を発せない状況下での意思疎通に使うため、結い方はもちろん色や素材で意味が異なる。
「へえ。先生が仕掛けたのも意味も分かりましたが、なんでまたこんなことを?」
「安全を確保したあとにも周囲を警戒できるか試した」
「自由時間とか言っといてそういう隠し試験やりますか」
「まあ……うん。指導するにも資質を見るのは重要だから……ともかく二人ともよくやった。きっといい斥候になれる」
これはまた後で仕掛け直しておこう。集められた糸や鳴音罠をひとつひとつ懐に収めていく。
あれ、と作った覚えのない結びに首を傾げる。ぐしゃぐしゃで意味が取れない。こんなものを作っただろうか。
「……ああ、そういうことなら、向こうの山裾にいたアロイス殿もそんな感じですかねえ」
「見つけたの」
「ええ。もしかして殿下が落ち着かないのに関係あります?」
「……後の楽しみにしてほしい」
しっかりと機密を敷いたはずの最終演習の隠し玉を見破られた。むうと唇の内側に空気を溜めた。セイロス騎士団ただ生徒たちを追い立てるだけの役割だから、最終的には体力勝負なので知られたところで問題ない。でも、もう少しわくわくしていたかった。
「思ったよりやる」
「怒らないでくださいよ……。まあほら、殿下については長い付き合いですからね。多少の変化は分かります。でもってアロイスさんは……鎧、めっちゃくちゃ目立つし声大きいんだよなあ」
あれ見て鎧は黒だなって思ったよな。そうシルヴァンに同意を求められたアッシュは苦笑して、でもセイロス騎士団の鎧は示威の意味もありますからとフォローを入れる。その通りだ。シャミアの手勢のみに頼むべきだった。
そっと口の中の空気を吐き出す。自分としては不満もあるが、頼もしくて何よりだ。手帳を取り出して記録に留める。
「指摘については次回以降の検討課題とするよ。あと、一応セイロス騎士団については秘密にしてほしい」
「了解です……と、悪かったなイングリット。お前も先生に用があったんだろ?」
「大丈夫よ。用事は済んだから」
報告を受ける間距離を取っていた彼女は、すまし顔でだから大丈夫と微笑んだ。
泰然としたその姿は、さっき彼について不安だとまつ毛を震わせていた人物と同じとも思えない。書き割りの裏と表を見たような気持ちで、ベレスはそれに合わせる。
「とある生徒について相談を受けていたんだ。でももう終わったよ」
「へえ……とある生徒ねえ。はっはあ。こんな演習の日に相談するってことは吊り橋効果の色恋沙汰とか?」
「あのねシルヴァン、あなたじゃないんだから」
「あっはっは。そりゃそうだ……ああ、じゃあ先生。その期待に答えるってわけでもありませんが、俺の相談にも乗ってもらえます? いますぐお知らせしたいことがありまして」
「お知らせ? すぐに?」
「ええ。いますぐ。できるなら二人で」
意味ありげな言葉に、ベレスは口をつぐんで他の二人を見る。
「ああいや、そういう話じゃないです。単にですね……」
「いいよ。わかった」
逡巡も長くなれば不自然であるし、教師としては相談と言われたものを断るのも難しい。いざとなれば川に落とせると腹を括って、じゃあシルヴァンの話を聞いているとイングリットとアッシュに告げる。
二人がそろって離れていくのを見送って、ベレスはまた元の位置に戻って、座っていた石の隣を叩く。日当たりが良くてほかほかと温かい、実にいい石。
「森の中を通ってきたのなら冷えているだろう。座って」
「ああ、はい。そうですねえ……」
「……急ぎじゃないの?」
シルヴァンはまだ二人を見送ったまま、離れた場所に立っていて、なんとも言えない顔でこちらを見ている。
ほら、ともう一度隣を叩くと、呼吸のたびにゆるりと揺れていた肩が止まって、落ち着かないように腿を擦っていた手が額に当てられた。
それを首を傾げて見上げていると、彼は何か言葉に迷っているようにこちらを睨んだ。うつむき気味の赤毛の間にはしかめられた目尻がある。
機嫌は悪くはなさそうなのだけど。
影の落ちた薄茶の目。何かを訴えてくるそれを覗きあげていると、水音に満ちていた周囲がしんと静かになっていくような気がした。
――期待に答えると言っていたけど。
彼の一言一句から推測を重ねるのは間違いのもととは分かっていた。彼は言葉をよく操って、だいたい数歩間合いを外して返してくるから。
でも、よくよく思い返せばぜんぶがぜんぶ嘘ではなくて。
考えるうちに、夜の蝋燭の火を覗き込んでいるような気分になった。そこ以外がすべて真っ黒に塗りつぶされて行ってしまう、あの感覚。この陽気のなかにあっていいものではない。
川面の輝きに視線を移す。とらえどころのない光の網の隙間に、流れに逆らう魚が必死に尾を振っていた。
放り出した両方のかかとが、汗じみのように水を岩肌に広げていく。
陽にあたる肌がじりじりと熱い。
やがて、静かな嘆息が鼓膜をふるわせた。ええとですね先生。彼は何度もためらってから。
「そのえっろい足しまってくれません?」
「君が何を言ってるのか分からない」
シルヴァンは頭を抱えたまま、ベレスの足元を指差す。
「だから足ですよ足! そんなん放り出されてると目のやり場に困るんですって! さっきあんたが無防備にぺたぺた近づいてきたとき、アッシュの目が泳ぎまくってたの分かってます? いや分かっちゃいなかったとは思ってますが、こっちの気が気じゃなかったですよ!」
「なんで」
「だから足ですよ! それ!」
「あし」
ベレスはまだしっとり冷たい脚に両手で触れた。
黒い編み靴下に包まれたそれは、べつに素肌を晒しているわけでもなくいつも通りだ。多少川遊びをして水が染みてはいるものの、この陽気ならすぐに乾く。
「君が何を言いたいのかはわからないけど、少なくとも何か問題だと言われているのはわかったよ。アッシュはたしかに落ち着きがなかったけど、あれは罠があったから警戒していたんじゃないの」
「イングリットだって顔真っ赤にしてたじゃないですか、勘弁してくださいよ」
「……だとしても、君は露出を歓迎する方だと思っていたけど」
いつも肌が見える子の方を見ている。その指摘にシルヴァンは一度眉を上げて、すぐに気まずそうに顔をしかめて両手を動かす。
「胸や腰はいいんですよ。あのへんは女性の魅力の塊みたいなもんですからね。存分に見せてくれても問題ないです。でも足はだめです。足は」
「違いがわからない」
だいたい蒸し風呂ではみんな皮編みの靴を履いているじゃないか。あれは靴としてはすかすかだし、半分くらいしか足首を覆えていないはずだが。
「いやだから……靴を履いていればいいと言いますか」
「なんで」
「だから靴を脱ぐのがどんなときかって話ですよ! 俺はこの前見ちまってるんでもう諦めますけど、他の連中はそうじゃありませんから!」
口早に聞かされたのは、ふつう女性は親密な関係になった相手の前以外では靴を脱がない。街の靴屋であっても試着もしないという話。
「いや、もちろん分かりますけどね。ちゃんと戦うには試し履きが必要で、でも傭兵のあんたがそんなこととのために商人を呼びつけやしないってのは。でも士官学校に入るような育ちのいいお坊ちゃんたちは慣れてもいませんし、そんな連中の前にあんたみたいのがいた日には……」
「君みたいに困る?」
「いやもう、自分でもびっくりするくらいに動揺しましたね!」
だから隠してくださいほら早く。そう言って、シルヴァンはその辺りに転がっていた靴を揃えてベレスに渡す。でもまだ乾いてないよとベレスが言えば、自分の物入れから畳まれたハンカチを取り出してベレスの手に押し付けた。
「使ってください。多少水を吸わせれば早く乾くと思います」
急く気持ちを隠しもせずに、シルヴァンはそれじゃあと立ち上がる。
それだけか。ベレスは肩透かしを食った気分で、嵐のように去ろうとする彼に不満を覚えた。
言うだけ言って。自分のほうは何を言われるかわからなくて、とても緊張させられたのに。
シルヴァン。とっさに学生服の袖を引いていた。
「また私のところに君の持ち物が増えるけど、いいの」
ベレスは言った。
あれだけ手早く渡された物。すぐに答えが返されるものと思っていたが、彼は一度は吸った息を短く吐いて、また吸って。
「気になるようなら刺繍糸をほどいてください」
捨てろとも返せとも言わず、シルヴァンはそれだけ告げて水辺を離れた。
残されたベレスは驚きに離した袖が残した香油の匂いに、はしはしとまぶたを動かしていたが、
「……お針子の仕事を粗末にするのは、よくない」
と、逃げ帰る彼の首から上と同じような色をした刺繍を見下ろした。
結局、なめらかに織られた絹地のそれは使わなかった。
拭うのが水だけだとは分かっていたが、石の上を歩いて砂も噛んでいた足の裏を拭うのはどうもできかねて、懐にしまい込んでは陽の下で両足をじっくり乾かしていた。
あるいは、それは意地だったろうか。
端的に言えばシルヴァンの言い分はおかしい。
彼の周りではどうあれ、彼女の行いはベレスの周りでは普通だ。アッシュだって何もベレスのことで浮足立っていたわけではなかったろうし、イングリットにしても、赤面したのは彼が来る前の話が原因だ。
だから指摘は完全な見当違い。従う理由は何もない。
そんな思いを抱きながら、ベレスは乾いた足をしっかり編み上げ靴の中に包んで、日にあたって疲労した身体を自分用の天幕に横たえる。
仮眠をしようと思ったのだ。今夜は演習で長丁場になると分かっていたから。
ところが、丸めた荷物を枕にして、上着を腹にかけてまぶたを落としても、ベレスの眠気は一向にやってこなかった。神経がささくれて、余計な思考が頭をめぐる。
彼に悪気がないのは分かっているのだ。似たような話は過去にも何度かあったから。でもそのときは、依頼人の顔を立ててその場限りに頷くくらいのことはした。そのくらい、気にしなくてもいいことだった。
ベレスはまんじりともせずに閉じていた瞳を天井に向ける。
「……だめだ。やっぱりおかしい」
おかしいのは彼の言い分ばかりではなかった。なんら気にする必要のない話であるのに、どうしてと不満を覚えてしまった自分も。
言葉にならない衝動が腹に溜まって気分が悪い。
――肩透かし。
自分は何を期待していた。
「敵襲!」
沈黙を切り裂いた声にベレスは跳ね起きた。
幕の隙間からは剣戟の音と生徒の怒号。天幕の後ろの鳴子がカラコロと鳴る。
ずいぶん早い。ベレスは荷物を掴んで天幕の布に手をかける。セイロス騎士団に伝えていた演習の開始時間は夕食の後。食事の時間は遠くからでも炊事の火で分かるはずだから、こんなに時間がずれることもないはずだった。
せっかくの食事の準備が台無しだ。そう思ってから、もしやシャミアあたりが満腹での撤退戦などぬるいと言い出した可能性が頭を過ぎった。だがそれもあるまい。酒の席の彼女がいかにも叩きそうな軽口ではあるものの、傭兵が連絡もなく戦場に関わる話を違えることはない。
では、何が。
天幕の入り口の垂れ布を跳ね上げて転がり出た直後、振るわれた剣を払って土にそれを叩きのめした。
見覚えのない装束。見覚えのない顔。
黄昏時を迎えた森は、木陰のひとつひとつに黒衣を宿す凶相に変わっていた。
「先生!」
「よかったディミトリ、状況はどう」
目も眩む黄金の光の中から飛び出してきたのは、鮮やかな青を肩に佩いた級長。ベレスを視界に収めた彼は、まずはほっと表情を和らげる。
「小部隊ごとに人数の確認中だ。完了し次第俺に報告し、撤退命令を待つようにと伝達してある。それでいいか?」
「初動については問題ない。けど、念の為もう少し状況を確認したい。私が天幕に入っている間に異常はなかった?」
「異常? 聞いていた話と違うと感じたところでいいか?」
「あれば聞かせて。それによっては私が指揮を執る」
ディミトリによると、日が傾き始めた頃に一度斥候らしき人影の報告があったという。ディミトリはその調査を何人かの生徒に指示したが、あらかじめベレスから演習の話を聞いていたこともあり、またシルヴァンからもセイロス騎士団発見の報を受けていたため、演習の一環だろうと判断していたと。
シルヴァンは報告したのか。一瞬、考え込んだベレスをディミトリが覗き込む。
いや、特に問題はないとそれに答える。一応秘密だとは言ったけれど、なにか知っていそうなディミトリに報告が行くのは本来の指揮系統的にも筋である。
けど、と奥歯を噛んだ。
「正直に言うよ。私もどこのものとも知れない暗号の存在を確認していた。そして今夜の演習についてセイロス騎士団からの事前変更連絡はなし。以上から、現在の戦闘は演習ではないと考える」
「すると先生、これは」
「正真正銘の敵襲だ。すまない、中途半端に報せておくべきじゃなかった」
詳しい時間に仮想敵の詳細。それらの情報が欠け落ちたことで、警戒すべき情報への違和感を得られなかった。いくら士官学校の授業の一環とはいえ、油断と隙を作ってはならなかったのだ。
そういうものもあるかもしれないと思わせた。
自らの甘い判断が引き起こしたそれにベレスは苦いものを感じたが、すぐに自らの足元に転がした襲撃者の身体を確かめ、周囲の音に意識を戻す。
「筋肉の付き方からして、正規の訓練を受けたものではなさそうだ。有利なはずの奇襲で制圧しきれていないし、敵の練度は低いかな」
先生? 困惑する氷雪の青にベレスは言った。
「実戦だディミトリ。これから君は全員を率いてガルグ=マクに向かって撤退。殿は私が担当しよう。それから今のうちにセイロス騎士団に送る別働隊を何人か選んで。向こうも異常に気づいていると思うけど、そこをうまいこと挟撃の形にしてみなさい」
ディミトリの眉が軽く寄せられ、すぐに上がった。
「課題が増えたな先生。わかった、言う通りにやってみよう」
四半刻も経たないうちに、ディミトリは生徒たちをまとめ上げてガルグ=マクへと移動を始めた。
正確には、そう思わせるように隊列を二つに組んだ。
一つは松明を手に森の端を行く重装歩兵の隊列。もう一つはすこし離れた位置から周囲を警戒する分散隊列。前者はドゥドゥーとディミトリが、後者はフェリクスとイングリットが主に指揮を取っている。
たとえ自由時間を弛んだ気持ちで遊んでいようが、一度態勢さえ整えてしまえばそこは士官学校の生徒たちである。抗戦自体には問題なく、そして本隊への追撃を払うベレスの奮闘もあって――そしてまた、いつのまにか別働隊をイングリットに任せて、彼女の死角を補うようにやってきていたフェリクスの尽力もあって、撤退は順調に進んでいた。
「猪も来たがっていたのだがな」
「ディミトリには前を引っ張ってもらわないと困るよ。目端の利くアッシュは騎士団側に行ってしまったし、ふいの伏兵にはあの子でないと対処ができない」
「あいつに一番槍を任せようというのも本人かお前くらいだがな。まあ、もうひとり先頭で立ち回れそうな奴も不在だからな。猪を頭から離れさせるわけにはいかん」
「その通りだ。さて攻撃が止んできた。もう一波あるかもしれないけど、私は一度離れて様子を見てくる。何かあれば食らいつこうとしたところを横から叩く。それまで一人で大丈夫?」
「フン。こんな連中に遅れを取るか!」
りん、と剣を鞘に収めたのを合図に草むらに飛び込む。駆け通しの膝には疲労があるが、水筒で唇を湿らせるだけで高台まで駆け上る。
途中で伝令役の生徒を一人捕まえ、共に草いきれに息を弾ませながら森林地帯を眺め下ろすと、夕暮れを過ぎ去った紫が辺りを暗く染めるなか、生徒たちの持つ松明の明かりがぞろぞろと山並みを連なって流れている。
目立つのは問題ない。まばゆい松明は集団で慣れぬ山道を走破するのは危険と思い、囮も兼ねて持たせたものだ。防御の要であるメルセデス、遠隔への先制要員であるアネットも負傷した様子はない。
ここまでは大きな怪我を負った者もなく順調。この先は森が切れるが、それまでにセイロス騎士団と合流できればいい――相手が単なる賊のたぐいであれば。
不安はあった。ここにきても相手の正体はわからぬまま。武装や身体能力から正規兵ではないだろうと睨んでいたが、それにしては重ねられる波状攻撃は連携に慣れ過ぎているきらいもあった。なにか手がかりがあるかと高台まで来たが、暮れなずむ空に視界は儚い。ぼうと瞬く火の気配だけが動きを示す。
「ん……」
より高いところへとよじ登ろうと木にかけた腕に振動を感じた。
広大な森の向こうから、森林地帯を迂回するようにやってくる一団がある。銀の鎧もまばゆい重歩兵、そして一騎の竜装兵。一団の情報を伝達し合うようにその中を駆ける二騎の馬。身軽な士官服。アッシュとシルヴァン。
来たか。ベレスはぴゅうと指笛を吹いて木の根元に待つ伝令役に指示を送る。すぐに身を翻すそれを見送って、懐に手を突っ込み、
「っは――!」
真鍮と銀の鏡を高らかに投げ上げる。美しく磨き上げられたそれは地平線から伸びる太陽の手の助けを借りて、運命を分けるコインのようにまばゆく光った。
伝令を走らせたからには最低限情報はディミトリに伝わるだろうが、セイロス騎士団が派手に姿を見せたからには、合図もまた派手な方がいい。騎士団が動いた――そう分かりやすく見せたほうが有効と判断しただろう二人に合わせる。
夜を泳ぐ海月の刺胞のように連なっていた松明がざわりと揺れる。
さあ出番だディミトリ。あとは手助けに徹しよう。落ちてきた鏡を胸に突っ込んで、戦場の端々へと視界を広げる。と、見下ろしたその先で。
「なに……」
ちか、ちか、ちか、ちか、と。暗い森の中に星が広がっていく。
ベレスの足元から拡散していくそれは王の凱旋を迎える歓声のよう。
手明かりの覆いを外した炎による光ではない。さっき天に投げ上げた光とそっくり同じ色。
――ただの野党の類ではない。
厳しく見下ろす視線の先で、誰に捧げられたものとも知れぬ森に散った星々は、鬨の声と悲鳴とに沈んでいった。
数刻後、合流地点に張られた天幕から抜け出したベレスは、あちこちにある焚き火のひとつひとつを覗いて回っていた。
一日に二度の実戦を経験した後のこと、くじ引きで決めた見張り以外はみな泥のように眠っている。
だが、一箇所だけ、眠る権利を放棄している炎があった。
ベレスは木々の間をすり抜けて、途中、うとうとしている見張りの後頭部を叩きながら、天幕から離れたそこへと向かう。
「シルヴァン」
ぱきん、とわざと踏んだ枯れ枝の音に、じっと火の燃えさしを見ていた横顔が上がった。
「さっき聴取が終わった。君の言っていたとおりコナン塔の残党だったよ」
「そうですか。どっかで見た顔があったと思ったんですよね」
「夏に私達に制圧されてから、ちりじりに辺りを荒らしていたらしい。今回は対抗関係にあった別の盗賊団の討伐の噂を聞いて、その後なら私達が油断しているんじゃないかと足りない武具の補給を目的としていたそうだ。……誰が情報を流したのか追求する向きもあったけど、今日の出陣自体はみんな知っていたことだから、特に詳しくは詮議しないことになった」
もちろん君にも。念の為とベレスが付け加えると、シルヴァンはふはっと息を吐く。
「まったく、終わった後でも足を引っ張ってくれるんですからねえ。あの人は」
いつもと変わらぬ声で、片膝で頬杖をつく。この調子だと他の領地にも迷惑をかけていそうだなとか、下げる頭がいくつあっても足りやしませんとか、軽く言う。
同意するでもなくベレスはそのねじれまわったつむじを見下ろした。
この子に、さっき見た星屑を伝えたものか。
盗賊の身の丈に合わないまばゆい鏡は、彼らの元頭領が合図のために与えたものだった。コナン塔は周りが岩と砂ばかりだから遠くまでよく見える。すぐに警戒態勢に入れるのが利点だが、そればかりでも疲労が大きい。だから仲間のうちで合図を決めた。用意がなければ真似ることの難しい、光の符牒。
そしてベレスが投げ上げた光の軌跡が、たまたまその一つによく似ていたということだった。物見の塔に取り付けられた、お前は味方かと問う二面鏡の風見鶏。
美しくさざめき、呼応する光の波を思い出す。掃き溜まりに集うならず者たちの一団ではあったが、彼らの絆は強かったのだろう――きっと。
聞かせてやりたい気持ちはあった。でもそれを今のシルヴァンに、この裏切られた顔をしている弟にそのまま伝えるのは難しいようにも思った。
隠し事はせず、ぜんぶ話してやりたいとは思うのだけれど。
ベレスはじっと考え込んで、喉をこくりと動かす。ならばせめてと、できるだけ何気なく聞こえるように、
「イングリットが心配していたよ」
「そうですか」
「実は昼に相談された相手も君のことでね。最近真面目すぎてどうも様子がおかしい、何か知らないかと聞かれた」
「ははあ、信用ないですからねえ俺」
シルヴァンの肩がおどけて上がる。
いままでのベレスなら、そうだね、普段の行いだとでも言って話を打ち切っていただろう。そのくらい茶化しても、聡い彼なら、ベレスがどう呼びかけたらいいか分からずに、幾重にも薄皮をかけることになった言葉の意図も、持ち帰った後に丁寧に剥がして味わってくれると思っていたから。
でも今日は、きっとそんな余裕もない。
膝を折って、こっちを向こうともしないその前にしゃがみ込む。
「私も心配している」
ずっと眠たげだったシルヴァンの目がベレスを捉える。ぐねりと歪む片眉。拒絶の気配に、背けそうになる顔を懸命に留めて口を開く。
「君が最近、おとなしいから」
声は、握り潰したような音がした。
「あんまり真面目にやっているから。私の手を煩わせてこないから。君がそんなのになったのはコナン塔の一件からで、だから今回も同じだろうかと。……でも、今回は君の素行に直すところがないから、どうなってしまうのか、わからなくて」
「俺そんなに問題児でしたかねえ……それに、なにも兄貴のことばかりじゃないですよ」
「わかるはずもない。だって君、肝心なところは何も言わないじゃないか」
女性問題がなくなっていることだって知らなかった。
なにも聞いていないから、いつもの行動に当てはめた。
そんなこともあるだろうなんて、聞いてみなければわからないのに。
ベレス自身だってそうだ。何かと理由をつけて、一線を引いて、それでどうしてなんて当たり前すぎた。彼女はまだ自分のことを何も言っていない。
「……話をしよう」
知りたいなら。知られたいなら。大きく息を吐きだして、言葉をつまらせるベレスをシルヴァンはじっと見て、勢いを殺すように首を横に振る。
「説教なら、今は勘弁してください。その手の話をしたいなら、次の週末のどこかにしましょうか」
赤毛の下から漏れた息遣いは、憤りを吐き出すように短い。
思い切って叩いた扉の内側からうるさいとばかりにどんと強く叩き返された気がして――実際にそうなのだろうが――ベレスはしゃがみこんだ自分の靴の先を見る。
説教。話がしたい。ちがう。いま言いたいのはそんな話じゃなくて。
でも、そう思われてしまうのは、自分の今までがそうだったから。
ぶるりと頭を振って、もう一度顔を上げる。と、ベレスの睨み上げるように引き締められた決然としたまなざしが、ほどけるように強さを失った。
「シルヴァン?」
「なんです」
斜に構えられた顎の線。向けられる目の奥には、彼女が想像していたように、焚き火をそのまま移したような、ひとを焦がさんばかりに煮え立つものがある。だのに、その目元は諦めを悟るように弱々しく弛められて、結ばれた口元は笑みすら湛える。
それでも、片手はもう一方の手を掴んで、そこにぐしゃりとした皺を寄せていて。それはまるでもがくようで。
唇は、するりと思っていた言葉を吐き出していた。
「今日の君を、私が知りたい」
いつでも立てる姿勢だった膝を落として、視線を合わせて、両手を差し出す。
その先に鋭い剣でも見るように、シルヴァンはベレスの手から逃れるように上体をのけぞらせて、開かれた両手の平を自分の鼻先越しに見る。
いや、せんせ。
戸惑う音が耳朶を打つ。怖がらせている。ベレスは両手を降ろして、かわりに身体を前に傾がせる。
「……今日の分は? 君からは良くて、私にはさせてくれないの」
ずるい。見上げるようにそう言えば、彼は耐えきれないと言わんばかりに目を閉じて。ああ、とざらついた声を上げてから、そろそろと近づいてきたベレスに顔をしかめて。
「いやまさか……あんたから来てくれる日が、こんなかたちでになるとは……」
なんとも情けないもんですね。
と、口惜しさを滲ませる口元を横目に、ベレスはシルヴァンの肩口に顎を置く。
すぐそばにまできた耳と頬とに、針の穴を探るようだった緊張感がどっと離れる。
はなしをしよう。もう一度囁くが、シルヴァンは答えない。その代わり、引き寄せられた腰と背がいつもより強い腕の力を拾う。
ベレスの脱力した腕ではうまく抱擁の形を作ることができなかったけれど、擦り寄るように合わせた頬や首筋が、止まり気味の呼吸であるとか、しゅんしゅんとめぐる血の音だとかを、長く拾い合っていた。