猗窩煉󠄁 風鈴はまだ一度も音をあげていない。
蝉の音はというと、じわじわと絶え間なく聞こえてくる。
まるで、日光で焼かれたアスファルトが鳴いているように。
この部屋唯一の冷房機器である扇風機から、生温い風が送り出されると自分の背を撫で、次に隣に座るクラスメイトの背中を撫でて行った。
*
「進学クラスだと、課題の量も多いのか。」
「量は同じじゃないか?」
「質が?」
「そう、たぶん。」
狭い机の上に広げた教本とノート、筆記用具。
水出しの緑茶のポットと、氷を目いっぱい浮かばせたグラスが二つ。
座布団に座り夏の暑さに汗を浮かばせる自分たちと同じように、大人しくコースターの上に鎮座して汗をかくグラス。
ノートが濡らされてしまわないように少しだけ手元から離すと、風がなく寡黙を貫く風鈴の代わりに揺れた氷が清涼な音を鳴らした。
「この部屋、暑いな。」
「…んう、」
「寝苦しくないのか?」
「たしかに…、西日がきつくて…。」
「西向きか、夏はキツいな。」
「ん…、…ちょっと待て、計算してる。」
「流石の優等生も、話しながら計算なんて器用な真似は出来ないか。」
素山は暑さに滅法弱く、なによりも夏の陽の脳天に突き刺さるような鋭さを嫌った。
蒸し暑い日本の気候にも嫌気がさすが、陽の光に焼かれることの方が最も耐え難いと、衣替えの後も長袖のワイシャツのまま、登下校時には深々と被ったキャップで日光対策をするほどに。この日は珍しく半袖シャツであったが、下には抜かりなく長袖のインナーを着込んでいる。いくら通気性がよく、冷感素材といえど、夏に重ね着をするという事が煉獄には信じられなかった。
過剰と言ってもいいほど普段から日差しを避ける素山の肌は白く、彼を見るときに感じる不思議な眩さはきっとその白い肌が光りを反射させているからなのだろう、と右手はしっかりと計算式を書き写しながら頭の片隅では左隣に座る素山の気配にリソースを奪われた煉獄が、盗み見るように視線を向ける。
成績の芳しくない英語の長文に取り組んでいるせいか、それともただ暑さのせいか、溜め息のような細く長い息を吐く素山の表情は悩まし気に歪められ、陽光を知らない肌が薄っすらと水気を帯びている。短く切り揃えられたこめかみに汗が浮かんでいて、輪郭をたどるようにか細い筋を作って雫が落ちた。
「…うまいんだよ。」
「えっ?」
「え?」
「すまない、聞いてなかった。」
「おいおい。」
「何がうまいって?」
「カルピス。」
「カルピスはうまいな。」
「恋雪が作るカルピスが妙にうまいんだ。」
「へえ。」
「二回も言わせてその反応かよ。」
まさか、お前の肌を滑り落ちていく汗を見ていた、などと言えるわけもなく間の抜けた声で返答をする。他愛もない会話、普段通りの素山の態度に居た堪れない気持ちを抱くと自分の心音が早鐘を打って耳の中まで響いているような錯覚に見舞われる。カルピスの味なんて、想像もできない。その一方で、今素山の頬を舐ったらきっと塩辛い思いをするんだろうな、という想像だけは舌の根に明確な味が広がるくらいにクリアーに思い描くことが出来た。
耳の先まで熱くなっているような感覚に、それ以上視線を向けている事が出来ず気を紛らわせる為に問題集を捲る。じっと、動かずにノートの上に置かれていた手を離すと汗ばんだ肌に紙面が引っ付いて持ちあがった。
「なあ、扇風機って温い空気を混ぜてるみたいじゃないか?」
「ミキサーみたいに?」
「そう。」
「そうかなあ。」
誰よりも早く夏服に衣替えを果たしていた煉獄の半袖シャツは、いつものりが効いているようにぱりっと張りがあり、暑がりを自称しているというのにボタンは校則で許された一番上の一つまでしか外していなかった。
素山の悪戯で細やかな水飛沫を受けてじゃれ合うと、ただ素山を見て燻ぶられていた体温を越えて肌に纏わりつくような暑さに息を吐く。校内では外す事のなかったシャツのボタンに指をかけ、素山にならって二つ目、三つ目まで寛げる。アイロンを利かせて隅まで皺ひとつない襟を掴むと空気を混ぜるようにシャツの中へ風を送り込む。汗ばんだ肌には温い風を混ぜっ返すだけでも心地よく、ミキサーもないよりはあった方が良いだろうと負け惜しみのような言葉を返す。
「暑いな。」
「言うな言うな、余計に暑くなる。」
「あー、涼しいなァ!」
「嘘もよくないぞ。」
素山が水滴を纏わせたコップに手を伸ばす。口元まで運ぶ間に、綴りを誤った英単語を何度も書き直して頭に叩き込もうと試行錯誤した紙面の上に、ぱたぱたと雨粒のように雫が落ちる。水溶性の赤ペンで書かれた英単語とラインマーカーが滲んで広がっていく。罫線を無視した堂々とした筆跡がぼやけていくのを、勿体ないと残念に思うのは書いた本人よりも隣でそれを見届けた煉獄だけで、グラスの縁に唇を付けて傾けれると角度が変わって新たな水滴がノートに模様を広げていく事も持ち主自身は全く気にしていなかった。
昨晩から冷蔵庫で冷やされていた水出しの緑茶は、その風味をしっかりと届ける事が叶ったのか怪しいほど、水分に飢えた素山の喉を通り過ぎていく。顎を上げてグラスを傾ける動きに合わせて溶けかけた氷がからからと音を立て、薄い唇の上に落ちる。緩やかに突き出た喉仏が白く柔らかな喉を動かす様から目が離せない。
室温よりも熱いくらいの視線に気が付いた素山が、グラスの水滴で濡れた指先を弾いて煉獄の顔に水飛沫をかける。顔へ霧吹きで噴霧されたような細かな水滴を受けた煉獄が、素山よりもずっと熱くい手で、悪戯っこの手首を掴むと「ごめんごめん。」と軽い調子の謝罪が帰って来て、細やかな子供の戯れに幕が引かれる。
*
勢い任せに掴んで来た煉獄の手は、自分の体温よりもずっと熱く剣だこのせいで硬くなった手の平の皮膚とその奥に潜んだ太い骨までもありありと感じられた。想像よりも生々しくそこに在る煉獄杏寿郎という存在を体感すると、自分もこいつもここで生きているのだと強く、強く思い知った。
汗のせいか、直前に手にしたグラスのせいか、水気を帯びてしっとりと湿った手の平で煉獄の手指を掴む。陽光を避けて生活する自分と違い、さんさんと照った太陽の下でも活発に運動や遊びに興じる友人の手は健康的に肌の色を深めている。人よりも多く浴びた日光を蓄えて、燃えるような熱さを保っているのだろうか。
「杏寿郎。」
「もう怒ってないよ。」
「そんな事じゃない。」
「……。」
「杏寿郎。」
掴まえた右手の手指を撫でる。手の内へ親指を滑らせて、剣だこのある指の付け根を擦る。よく鍛錬をしている証しだ、来る日も来る日も道場で技巧を磨く、武人の手だった。労うつもりで厚い皮膚を何度か撫でてから、骨太の指の合間へ縫うように指先を差し入れる。
お互いに薄っすらと汗を握った手の平を重ね合わせて、色んな熱を孕ませて名前を呼ぶ。煉獄の体温が手の平を伝って伝染したように、全身が熱を上げて沸騰しそうな心地になって、見詰める視線からも熱が伝えられるような気さえする。手指の先からも早鐘を打つ鼓動の脈拍を感じながら、もう一度その名前を口にすると、顎を引くように浅く浅く頷いた姿に堪え切れずに喉を鳴らして唾を飲み込む。
*
「ちょっと、涼しくなってきた気がする。」
「そうかな。」
「まだ暑いか?」
「もう暫く熱そうだ。」
高校入学を切っ掛けに、使っていない二階の客間が自分の部屋になった。
物心ついてから今まで過ごしてきた、弟と共有の子ども部屋を卒業すると、実際広くなった二畳分よりもずっと世界が広がった心地を覚えてその後にほんの少しだけ寂しさを感じた。
二畳分広がった世界で、ほんの少しだけ大人になった。