木犀花 街へ出る途中、金木犀が香る季節になった。匂いはすれども姿は見えなくて、しばし辺りを見回す。木造建ての家の庭に立派な木を見つけて、いつもとは違う道順を行く。
まだ咲き始めの花はそれでもいくつか身を落としていて、革靴で踏まないようにゆっくり歩いた。
「おっ、カラ松おけーりー。今日のフリーハグとやらはどうだったぁ?」
テレビ画面に向かったまま視線だけ寄越したおそ松が言う。
「……フッ。今日もカラ松ガールズたちはシャイガールばかりだったようだ」
「はいはい、あいかわらずゼロね~。んーじゃ立ってるついでに布団取り込んできて」
「おまえが頼まれたんじゃないのか」
「頼まれたけど~。干すのはやったから取り込むのは任せていいっしょ?」
いや、オレが干す時はオレが取り込むまでやってるが……と口から出かけたが、言い合うのも面倒な気がして二階へ向かう。
ソファには、ねこじゃらしを持ったまま昼寝をしている一松がいた。サンダルがあったから家の中にはいるとは思っていたが、ここにいたのか。
気持ち良く眠っているところを起こさないよう静かに取り込む。涼しくなってきたとはいえ昼日中の太陽を浴びた布団はふかふかだ。
まだ時期は早いが、冷え込む夜に備えてか毛布も干してあった。おそ松のくせに気が利くじゃないか。
さっそくソファの上で丸まる一松に毛布をかけてやると、口をむにゃむにゃ動かしなから少し笑ったように見えた。
◇
「ちょっと、僕明日早いからもう寝るよ!?」
「チョロ松兄さんいくらなんでも早すぎない? まだ九時だよ」
「アハハ~! 今日お布団いいにおいするね~!」
「……ん。おれ干した」
弟たちの会話をBGMに雑誌を読んでいる。あれ?と、すこし引っかかった。
「え、一松が布団干したのか?」
「そうだけど。あ、取り込んでくれたんでしょ。ありがと」
「お安いご用だ! って、おそ松が干したんじゃないのか?」
「ん~? まぁカントクっていうか、ちょっとは手伝ったからさぁ」
いけしゃあしゃあと言ってのける。こいつはいつもそうだ。
「弟のやったことを自分の手柄にするな」
「だからちょっとはやったんだって。カラ松おまえ、俺が頼んだ時は嫌そうだったのにいちまっちゃんだとお安いご用とか言うのよくないよ~? お兄ちゃんサベツ」
「いや、おそ松兄さんは普段人に押しつけてるし自業自得でしょ」
「出たドライモンスター!」
「おい、だから明日早いっつってんだろ!」
ふと目を覚ますとあたりはまだ真っ暗だった。なんだか体が暖かい。
胸のあたりにすっぽりと頭が収まっていて、反射的に撫でてみる。ふわふわした髪質、落ち着くにおい、やっぱり一松だ。
寝ているとき隣にいるのは一松とトド松だけど、気温が下がってくると一松が暖を求めてくっついてくるのは毎年の恒例だったので寝ぼけまなこでもすぐわかった。あの薫る金木犀や、昼間の寝姿を見てそろそろかなと期待していた気持ちも事実だ。
普段誰よりも素直じゃない弟が無意識とはいえ、オレを頼って甘えてくれるさまは純粋にかわいい。
大抵朝起きると一松はいなくなっているので、夜中オレにくっついていることを知ってるのかはわからない。だんだん暑くなって自然と離れていってる可能性もある。それでも一松から側に来てくれるのがうれしくて、引き剥がしたりすることはなかった。
一度だけ誰かがトイレに起きた気配で目が覚めて、とっさに一松の頭が隠れるように布団をかぶせたことがある。なんでそんなことをしたか自分でもわからなかった。
◇
そろって居酒屋に行った夜、飲みすぎた奴をいつものごとく引きずったり背負ったりお互い肩を貸したりしながらなんとか家まで辿り着いた。どうせこんなことになるだろうと、家を出る前に布団を敷いておいてよかった。
せっかく銭湯で洗った髪や体はすっかり酒くさくなっている。おそ松はパーカーのまま布団へダイブしていたし、一応パジャマに着替えようとして中途半端なまま寝落ちたチョロ松、脱ぐまでは頑張った形跡がみられるがパンツ一丁であきらめて毛布にもぐり込んだ一松、なぜか野球のユニフォームになっていた十四松といつのまにかちゃっかりパジャマに着替えているトド松がてんでバラバラに布団へ雪崩れ込んでいた。
これはもう、動かないな。かろうじて敷き布団のスペースがある端っこに身を置いて眠りにつくことにした。
「へくちっ」
「一松兄さん、相変わらずくしゃみあざといよね」
「トッティにだけはあざといとか言われたくないんだけど」
「大丈夫か? 昨日は急に冷え込んだからな」
「……ん。なんか起きたときちょっと肌寒かっただけ」
一松は毛布と掛け布団のある真ん中のほうに寝ていたから大丈夫だと思っていたけど、くしゃみを聞くと心配になる。
「いちまっちゃん、昨日はカラ松が隣じゃなかったからね~」
「……なに?」
「ああ、ほら! オレは体温高いからな! 隣にいるだけで冷えにくいんじゃないか?」
慌てて割って入ると一松が怪訝な表情をしている。その横で楽しそうに目を細めているおそ松を睨み付けた。
「さっきのはどういうつもりだ、おそ松」
「どういうって? いつも一松がおまえにぴったりくっついて寝てるから、昨日は離れてて寒かったんじゃないってそのままの意味だけど」
「知ってたのか」
「トイレに起きた時とか、夜中こっそりカップ麺食べに行ったときにね~。親猫に甘える子猫みたいで微笑ましいこって」
「それ、一松には言うなよ」
「なんで? べつによくない?」
なんで、と言われるとはっきり言葉にできないが、とにかくダメなことだけはわかる。
「隣にいるのがおまえだから暖をとっただけで、他の体温高いやつが隣だったらそいつにくっついてるだろうし。なんも恥ずかしいことなくない?」
「それは……そうかもしれないが」
一瞬真顔になったかと思うとすぐいつもの顔に戻って笑う。
「まぁ、わざわざ俺から話題ほじくりかえしたりしないし。おまえも気にすんなって!」
部屋から出ていくおそ松の後ろ姿を見送りながらぼんやり考えてみる。なんでオレは、一松の前で話題に出されたくなかったんだろう。
◇
「……なに、今日はおまえが布団当番?」
「おお、一松! 本当はトド松の番だったんだが外せない用事があるとかで代わったんだ」
「ニートの外せない用事ってなんだよ」
ハッと自嘲気味に笑った一松がそのまま座り込む。どうやら話し相手になってくれるらしい。もう終わりかけだったけど、なんとなく作業が終わったらフラッといなくなってしまう気がしてい手を動かしてるふりをした。
「まあまあ。たまには用もあるだろうさ」
「おまえって、本当弟には甘いよね」
「そうか?」
「そうだよ。この間だっておれが……いや、なんでもない」
一松が何か言いかけてやめたときは、基本的に深く追求しないことにしている。構いすぎると逃げてしまう猫のようなやつだから、一松が話したいタイミングを待つのだ。
それにしてもオレが弟に甘いか……。たしかにおそ松は甘やかしたいと思わないな。チョロ松は弟とはいえ同じ兄のくくりのように思っている気がする。
十四松は素直に弟として接してくれるからかわいいし、トド松は頼みごとがあるとわかりやすく甘えてみせるのでつい聞いてしまう。一松はどうだろう?
素直に甘えてこないし、頼みごとをしたいときだってすごくわかりにくい。それでも甘やかしたい、優しくしたいと思うのは本当に弟だからなんだろうか。
一松が気まずそうに口ごもったあと少し間が空いてしまったので、会話を引き取った。
「トッティと代わったのもタダじゃないぞ? カフェのクーポン券をもらった」
ジーンズからもらった券を取り出すと、興味なさそうに首をひねった一松の目が輝く。
「そこ……!」
「ん? チェーン店のカフェだよな。行きたかったのか?」
「……ん。ねこのおまけ、もらえる。期間限定で」
うつむきながらも小さい声で教えてくれた。
「じゃあ、これから一緒に行くか?」
「えっ、だっておまえがもらった券なのに」
「あまり一人でカフェに行くことがないから、ついてきてくれると助かる」
ぴょこっと、一松の頭から猫耳が飛び出る。眠そうな目を珍しく見開き、キラキラと見つめてくるのがまぶしい。
「今日はずっと晴れの予報だから布団も干しっぱなしで大丈夫だろう。用意ができたら行こう」
「うん……!」
◇
チェーン店のカフェはそこそこ混んでいた。軽く周囲を窺うと若い女性のグループから地元常連客のような雰囲気のおじいさんまで、老若男女幅広い客層が見てとれる。オレの後ろをついて歩く一松は口数こそ少ないがそわそわと浮き足だっているのが伝わってきた。
「おまけって、どうすればもらえるんだ?」
「……ええと、飲み物二杯頼んだらひとつもらえるみたい」
「そうか、じゃあオレはこれにするぞ。一松はどうする?」
「おれはそれの、あったかいやつ」
「オーケーだ!」
ブラザーと出掛けると、示しあわせたわけでなくとも自ずと注文する方が決まっていることが多い。
おそ松や十四松だとオレが、チョロ松やトド松だとむこうが言っている気がする。末っ子に関しては一度カフェで注文を頼まれたときに、カスタムとやらがわからなかった結果自分で率先して行くようになったんだが。
一松とふたりで出掛けることはめったにないけど、ここは自然とオレが注文するぞと思ったし一松も当然のようにそのつもりのようだった。頼られたようでなんだかうれしい。
「ほら、一松」
先に席を確保しておいてくれと伝えたら隅の方で丸めた背中が見える。向かいに座りながら、トレーを置くより先にもらったおまけを差し出すとぱあっと瞳を輝かせる。
「……これ、いちばんほしかったやつ」
「そうか! よかったなぁ」
恥ずかしそうに申し出たのがお礼のことばのように聞こえて頬がゆるんだ。
一松は猫舌なのにホットを頼んだので、冷ましているあいだに猫のクリアファイルをためつすがめつ眺めている。そんな弟を微笑ましく見ながらストローで氷をつつくとカロンと澄んだ音が響いた。
◇
その日は夕方から急に冷え込んだ。十一月になったというのに日中は残暑の延長戦のような暖かさが続いていたので昼夜の寒暖差が激しい。
みんな早々に布団の中に潜り込んだが、この穏やかな気温にすっかり油断していたのでまだ毛布は出していなかった。温まるまで全員で団子のようにくっつくと、真ん中にいる長男と末っ子から抗議の声が上がる。
「ちょっ、イテッ。みんなおにいちゃん大好きなのはわかるけどくっつきすぎ!」
「もー押さないで! 眠れないんだけど!」
こっちは端っこの一松が遠慮してあまり寄ってこないのでトド松が押されてるのはおそ松側だろう。
「というかこれ僕が一番押されてない!? 十四松、圧強すぎ!」
「ドゥーン! だって端っこ寒いから! ねえ一松兄さん?」
「まあね」
「やっぱり一松も寒かったんじゃないか。もっとこっち側へ来るといい」
「……ん」
だいぶ間があったが寒さには勝てなかったのかおずおずと近寄ってくる。何か新しいものを発見した猫が、警戒しながらにじりよってくるさまを想像して口元が緩んだ。
「ほら、遠慮するんじゃない」
このまま様子を見るのが正解なんだろうけど、なんだかもどかしくて逃がしたくなくて、一松のおなかの上から腕を回して腰を引き寄せる。一瞬驚いたように肩が跳ねたのを気付かないふりしてそのまま離さなかった。
緊張しているのか固く強ばっていたからだが、静かな寝息が聞こえるころにはすっかり柔らかくなっていた。体温も上がっていて安心すると同時に、これが本来あるべきかたちなんだと体が覚えているようにオレのほうが離れがたくなってしまっている。起きたとき怒られてもいい、このままでいたい。
ふと目覚めるとすっかりあたりが明るくなっていて、朝日が眩しい。いつもならもう少し早く起きられるのに今朝はなんだか心地よくてもっと眠っていたかった。
「あとカラ松と一松だけだよ、早く起きちゃって」
「ふたりとも早くしないとおそ松兄さんにおかずとられるよ……って仲良しか!」
腕のなかで暖かくてやわらかいものがもぞもぞ動いて小さな声をあげる。
寝ぼけまなこの一松は二、三まばたきをしたかと思うと、自分の状況と声をかけた兄弟たちとを見比べた。
「……これはちがっ!」
真っ赤になった一松の顔を背に隠すように体を起こす。
「一松が端だから寒いかと思ってこっちに寄せたんだが、オレのほうが暖かくて放せなくなってしまったんだ」
「まあ、なんでもいいけどとにかく早く降りて来なよ」
「はいはい。わかったわかった~」
興味なさそうなチョロ松とわざとらしいくらいものわかりのいいトド松の声が遠ざかっていく。
「……おまえってさ、なんでいつも」
「ん?」
「なんでもない。下行こ」
やっとわかった。
一松の性格からして、他の兄弟に見つかることでからかわれたらもうオレの隣で寝てくれなくなるんじゃないかということが怖かったんだ。
特に一松の方からオレにくっついたと周りに思われるのが一番よくない。オレは嬉しいけど一松は知られたくないだろうから。
さっきとっさにオレが一松を放さなかったとしたことは良かった。実際事実だし、からかわれるとしてもメインの対象はオレだ。それで何か言われたとして痛くも痒くもないうえ、どことなく楽しくすらある。
一松が隣に寝てくれていてよかった。
隣にいるのがオレしかいなくてよかった。
「そういえば昨日のカフェ、会計任せちゃったけどクーポン使えた?」
「ハッ、ミステイク!」
「出すの忘れたの!?」
「まぁいいじゃないか。期間内にまた行こう。他の猫も気になってただろ?」
「……ん」
また一緒に出かけられる理由ができてこんなにもうれしい。
「これからたのしみだな。──時間はたっぷりあるぞ」
「あれそんなに期間長くないよ? それにすぐ行かないとなくなっちゃうかも」
声をあげて笑ったオレに、一松が不思議そうな顔で首を傾げた。