けづくろい ぼんやりと揺れるランプの灯り。質素なベッドに腰掛けた光王子は鼻歌を奏で、豚の毛を束ねた高級品のブラシを滑らせます。時折手を止め、ブラシに付着したものや獣の毛並みの中に見つけたノミを指先で潰さないようつまみ上げ、石鹸を溶いた桶の中に沈めていきます。
「せっかくおれがブラッシングしてあげてるのに、しばらく見ないうちにこんなにして! 充、尻尾は終わったから次は手を出して」
光王子がほんのすこし声を荒らげますと、黒い尻尾が豚毛のブラシを振り払うようにしなり、背を向けていた人型がうっとうしそうに光王子の方を向き直ります。
「ほらよ、これで満足か」
充と呼ばれた人狼はふてぶてしく足を組むと、形こそヒトと変わりませんが黒い獣の毛に覆われた両手を差し出します。指先には人間の皮膚くらいなら簡単に裂いてしまえそうな爪が伸びていますが、光王子がそれを恐れる様子はありません。先程尻尾にしていたのと同じように毛並みを梳かし、絡まりが無くなったところでブラシを桶の横に置きました。
「終わったよ、充」
丁寧に梳かされた毛並みはランプの灯りに照らされほのかに輝いているようにも見え、その柔らかそうな表面に光王子は高尚な芸術作品でも眺めるように目を細めます。
「気が済んだようで何よりだ」
すっかりふわふわになった手のひらを握りしめ、開き、また握りしめ。当の人狼はというと苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せます。
不満を隠すことなくあらわにする充に、光王子は頬を膨らませました。
「もう……ボサボサだった毛並みが整ったんだからちょっとは感謝してよね」
光王子は充の両手首を掴むと、すっかりふわふわになった手のひらで自らの頬を包み込み、「あー、ふわふわしてて気持ちいいー……」と至福そうに顔を緩ませます。
「はいはい、お陰様で尻尾なんかはどこぞの高貴な身分の方の抱き枕にされるようになりましたよ」
充は片眉を釣り上げ皮肉っぽく囁き、光王子の頬の丸みに親指を添わせます。触れている間は指の腹が沈み込みますが離すと元通りになる、程よい弾力のある肌。それを壊さないようそっと撫で付けた充の口元に笑みが含まれます。
「尻尾の有効的利用法が見つかってよかったじゃない」
人狼の微笑みをブラッシングの感謝だと解釈した光王子があっけらかんと言い放ちます。
「……ええ全く」
充は湛えていた穏やかな笑みを跡形もなく消し、手首にまとわりつく光王子の手を振り払いました。それから腕を組んで深くため息を吐きます。
「勝手に毛づくろいされるわ居座られるわ、俺としては迷惑でしかないんだがな」
「そう言うくせに、充は大人しく受け入れてくれるよね。本当は嬉しいんでしょ?」
充は反論がありそうに前のめりになりますが、すぐに言い返すことはしません。言い返せないのだろうと勝ち誇ったように胸を張る光王子に対して充は小さく舌打ちし、王子の肩に手を置くと、首元をはだけさせます。年季の入ったランプの頼りなさげな灯りが照らし出す白い首筋に口付け、それから人狼は傷一つない滑らかな肌にそっとあてがうように牙を突き立てました。
もう少し力を入れれば簡単に皮膚を突き破れるのだと教えこむかのように。鋭い先端が首筋を撫でるたびに光王子はびくりと肩を跳ねますが、充を突き飛ばしたり、叫んだりといった抵抗はしません。
固く目を瞑り震えながらも大人しくするばかりの光王子の反応は充の心に、手負いの獲物をいたぶるのに似た興奮と、怯えきった子供を虐めているような罪悪感を与えます。このまま噛み破ってやりたい気持ちもありましたが、王子をかわいそうだと思う気持ちが勝り、充は噛みつくのをやめました。
「びっくりした……なんで急に噛み付いてきたの?」
「俺は人狼だぞ? 人間を食う化け物と同じ空間にいるんだからそれくらいの危険は想定しておけ。それはそうと聞かせてもらうが、何で受け入れたんだ? 怖かったんなら抵抗すれば良かったのに」
「えっ、だって……友達だもん。充がおれを傷つけることはないかなーって」
光王子の返答に、充は不満ありげに頭頂部の耳をぴくりと動かします。
「友達……そうだな、俺達は友達だ。だから毛づくろいするのを許してやってるんだよ」
充の口から友達だと認める言葉が出たことに光王子は面食らったような表情を浮かべますが、「友達、友達」と舌の上で味わうように繰り返し呟いてから破顔しました。
「充、大好き」
年の近い友達が一人もいなかった光王子にとって、充の言葉はどんな献上品よりも嬉しいものだったのです。光王子は喜びを満面に表して人狼に抱きつきました。
――向こうから飛び込んできたのだから抱きすくめることに何の罪もありはしない。さあ抱いてしまえ、細い腰を撫でてやれ。
ずくずくと心臓を溶かす甘い毒に促されるまま右の手で光王子の腰を。左の手で光王子の後頭部をおさえつけ、簡単には逃げられないようしっかりと抱きしめます。充が抱き返してくれたことに無邪気に喜ぶ光王子に見えないよう、人狼は悦に入った笑みを溢します。
「急に噛んで悪かったな」
「本当なら打ち首になるところだけど、反省してるなら許してあげる。だって友達だもん」
光王子の温もり、心音、におい、すぐ近くで聞こえるとろけそうな声。それら全てが充の心をひどく乱していくのに、光王子の言葉は充の熱を冷たく突き放すのと変わりません。
充は心臓のあたりに広がる耐え難いにがみをどうにかしたくて、微かに甘く香る首筋に舌先で触れ、唾液で濡らした箇所に唇を押し当てました。