ホストクラブの忠暦 閉店後、事務室で売り上げの計算をしているとドアをノックされた。すかさず返事をしたはずだが誰も入ってくる気配がない。
「どうぞ」
二回目の声かけにようやくドアがおずおずと開かれる。まず隙間から赤毛が飛び出し、それからゆっくりと顔を覗かせた。
私は鼻でため息をついてペンを置く。顔を見る前から彼だと分かってはいたし、用件が何かもだいたい想像がつく。閉店後に暦が訪ねてくるのはこれが初めてではないからだ。
「入りなさい」
「……ッス」
まだ馴染んでいないスーツは、サイズがやや大きいようでスラックスの裾がよれている。腰をずり下げる癖は何度も注意してやっと直してくれたが、まだ体に合ったものに買い替えるつもりはないらしい。もっとも、そんな買い物ができる余裕があったら、こんなに暗い顔をして私のところへ来るはずもないのだが。
促すと素直にソファーへ座る。隣に座ってやると、暦は大きく頭をうなだれて唸った。
「指名、なかった……」
「知っている」
「なんで……後から入ったランガのほうがめちゃめちゃ人気ある……」
「彼は一定層に人気のある顔立ちと雰囲気を持っているからな」
「わーってますよ!! ……てか、明らかに店もランガを推してますよね?」
「即売り上げに繋がるからな」
暦は盛大にため息をつきながら頭を抱えた。
彼はとてもやる気のあるホストだ。楽しそうに仕事をするし、何より向上心がある。しかしその努力の姿勢はホストというよりスポーツマンに近く、女性へも優しく接するものの、ときめきを与える仕草からはほど遠い。彼を好きな客はもちろんいるが、本命が別にいるか、堅実な性格かのどちらかで、毎日指名が入るとも限らない。
後ろから追い上げられるどころか、もう姿が見えなくなるほど新人のランガに先を越されてしまっている状況は、このところ彼にとって大きな悩みになっているようだった。
「どーしたらいいんスかね……そんなにダメかな、俺……」
「ダメではないが、スキルがあと一歩だな」
「スキルぅ?」
なにそれ、と訝しげな顔をしながら暦が顔を上げる。
「女性の心を掴む技術だ。ジョーを手本にしろと前に教えただろう、実践はしているか」
「で……できるワケねーっすよ! あんな気安く肩抱いたり、き、キスしたり……あれはジョーの大人な雰囲気があるからできるのであって……」
「ではミヤを手本にするか?」
「ミヤはほら……弟感が売りだろ……俺は長男だし……」
「この世界で、本当の自分で勝負して勝てるのはほんの一握りだ。自分を偽れないのなら上には行けない」
暦が、ぐ、と喉を詰まらせる。彼だって分かっていることだろうが、ホストは自分を飾り立ててこそ華を振り撒ける。この店は比較的自然体で人気のある人材も多いが、それはたまたま客の需要と生まれ持った性分が合致しているからだ。
輝く者がいれば、影で終わる者もいる。残酷だが、彼もそろそろ──
「でも」
暦の目が、強く深い色で私を見る。
「俺、この仕事が好きだ。偏見が多いのも分かってるけど、店の中笑顔でいっぱいで、楽しそうで、キラキラしてて……最初は自分に合わねぇって思ってたけど、今はこういう現実離れした世界も好きだなって思う」
本当は、何度も諦めろと言おうとした。こんなところにいないで、外に出て、胸を張れる仕事をしなさいと言いたかった。どう考えてもそれが彼のためになる。
私だって分かっている。そう言いきれないのは、この眩しい瞳を見れなくなるのが惜しいと思う自分が確かにいるからだ。
「……素質はある」
「え?」
「磨けば光るということだ。……練習するか?」
する、と即座に頷くその純粋さは危うすぎる。あるいはそれを売りにする手も無くはないが、厄介な客ばかり引き寄せるのも良くない。だからきちんと教え込む必要がある。ホストとしての礼節、気配り、そして自分と他人を騙す技術を。
立ち上がり、事務室のドアに鍵をかける。
「スネーク?」
「するんだろう、練習」
「……ホストの練習っスよね?」
「もちろんだ」
先ほどより近い距離でソファーに座り直す。のけぞった暦の手を取って瞳を覗き込んだ。
「今日は来てくれてありがとう」
「え……っ、え……!?」
「君の顔が見れて嬉しい」
手がふるえ、しっとり汗ばんでくるところに、実生活での経験の少なさが窺える。こういううぶな女性だったらあまりがっつかず、着てきた服を褒めたり、悩み事なんかを訊いてみるのもいい。急に腰を引き寄せて成功するのはジョーか愛抱夢くらいだ、暦には暦のやり方があるだろう。それをひとつずつ探って、よい方法を一緒に探ってやりたい。
のだが。
「ま……って、くださ……タンマ……」
暦は片腕で顔を隠すが、隠しきれていない部分は蒸気が出そうなほど赤くなっている。逃げ出そうとした手を、私はなぜか、離せなかった。
「あの、スネーク」
「女性がどうしたら喜ぶのか、体験するのが一番だ」
「無理、無理っす、恥ずかしい……」
こちらが身を乗り出すと彼はその分離れようとして、体がどんどん傾いていく。体幹で支えきれなくなった暦がソファーに倒れ込み、その上に覆い被さる形になった。
「だってこんなことまで客にしないっすよね!?」
「そうだな」
「や、そうだなじゃなくて、離れて……」
鍵をかけておいてよかった。こんな光景を見られて誤解されても困る。もはやどこから誤解で、どこから真実なのか、分からなくなってはいるが。
「ホストクラブは恋愛の擬似体験だ」
動揺で暦の瞳が揺れている。
「してみるか、私と」
喉仏が、頷くように大きく動いた。