暗い湖面が、満月から落ちる光に輝いている。
風が、影となった蓮のつぼみを揺らす。
江澄は露台に座り込み、酒の甕をかたわらに盃を傾けた。
その隣には白い校服の男が座る。彼は盆から茶碗を取り、蒸した茶を口にする。
こんなふうに、藍曦臣となにをするでもなく過ごすようになったのはいつからだろう。
思い返せば、きっかけは自分だったと江澄は笑みをこぼした。
一年よりも前のこと。寒室で宗主としての語らいを終えた後、少しばかり休みたくなって、常の倍以上の時間をかけて茶を飲んだ。藍曦臣はそんな江澄をなにも問わずに受け入れてくれた。
江澄はちらりと隣の男を盗み見た。
背筋を伸ばし、湖をながめる姿は美しい。
それから機会があると、こうして二人で過ごすようになった。この時を江澄は好ましく感じていたし、できるだけ長く続けたかった。
だから、江澄もなにも問わず、互いに沈黙し、干渉しないのが良いのだと思っていたのに。
ふいに、藍曦臣と目が合った。
彼は笑みを深くし、江澄の手を取ると、指と指をからめた。
「江澄」
目を細めて笑む様は、心から喜んでいるように見えて、江澄はたじろいだ。
三月ほど前だった。
「あなたを愛しています」とこの男は言ったのだ。
江澄はただ呆然と藍曦臣を見返した。答えられない。藍曦臣の傍は居心地がいいけれど、同じ気持ちかと問われるとわからない。
藍曦臣は黙ったままの江澄に言った。
「いやでないなら、これからも今日のように会ってほしい」
それならばできる。江澄はうなずいた。
その日から、少しずつ藍曦臣は変わった。こうやって江澄の手を握ったり、肩を抱いたりするようになった。江澄が拒否すればすぐに離れられるほどのやわらかさで触れる。
「江澄、そちらの手も」
請われて、右手も差し出した。両手を包むようにして握った藍曦臣は、はみ出した指先に唇をつけた。
今までにはなかったことだ。
江澄は大きく目を見開いて、息を飲んだ。
「江澄」
こつん、と額が触れる。
なにが起きているんだろう。
間近に藍曦臣の瞳があって、その中に映るのは自分だけ。
揺れる、抹額が、目の端に映る。
「もう少し、あなたに、触れたい」
江澄はこくりとうなずいた。
いやではなかった。そればかりか、心臓が跳ねて、顔に熱が集まるのがわかった。
藍曦臣の吐息が当たる。
江澄は目をつぶった。
やわらかい感触が唇に触れた瞬間に、全身に鼓動が響いた。
すぐに離れた体温は、今度は押しつけるようにして再び触れる。
息ができない。
江澄がただかたまっている間に、藍曦臣は幾度も角度を変えて口づける。いつのまにか体を抱き寄せられていて、一気に近づいた距離に江澄はますますうろたえた。
「……っ!」
江澄は藍曦臣の胸を力いっぱい押し返した。両手で口を押さえて、距離を取る。自分でも涙目になっているのがわかる。
唇をなめられた。
まちがいなく。
「すみません、江澄」
藍曦臣は力なく手を下ろした。表情はこわばり、いつものほほえみは失せている。
江澄は返事をできなかった。
立ち上がる藍曦臣を呆然としたまま見上げた。
「もうしませんから、安心してください。客坊に戻りますね」
白い帯と黒い髪がひるがえり、藍曦臣は背を向けた。
どうしよう、どうしたらいい。このままでは藍曦臣は去ってしまう。
拒否したと思われた。
いやだったわけじゃないのに。
「待て……」
江澄は手を伸ばした。
今はまだ離れたくない。
振り返る藍曦臣の腕にすがる。
「江澄……?」
どうしたらさっきみたいに抱きしめてもらえるだろう。
顔を上げると、間近に藍曦臣の顔があった。
江澄は顔を近づけた。
がち、と音がした。
藍曦臣が目を丸くしている。
歯が当たったのだ。
江澄はまたもや口を押さえて後退った。顔から血の気が引いていく。
失敗した。呆れられた。
「江澄……」
「すまん、いや、痛くなかったか。申し訳ない」
「痛くはありませんが……」
「そうか、すまん。なんでもないんだ」
江澄は顔を上げられない。失望されていたら、と思うと恐ろしくて顔が見られない。
ところが、藍曦臣はその手を取った。
「まだ、ここにいてもよろしいのですか」
「……ああ」
「こちらで寝んでもよろしいのですか」
考えてみればもう亥の刻に入っている。その藍曦臣をとどめたということは、どういうことか。
江澄はうつむいたまま答えた。
「ああ、こっちだ」
江澄は藍曦臣の手を引いて、部屋の奥へと足を進めた。
(なんでだ)
江澄は牀榻の天蓋を見つめたまま、首を傾げた。
その隣ですやすやと眠るのは藍曦臣である。
あの一瞬で諸々の覚悟を決めたのに、全部無駄だった。藍曦臣は牀榻に入るとすぐに目を閉じた。そして、そのまま寝入ったのだ。
これはどう考えたらいいのだろう。
やはりさっきのことで呆れられていたのだろうか。それを引き止めたから、しかたなく一緒にいてくれたのだろうか。
まぶたが熱くなった。
朝になったら、藍曦臣は姑蘇に戻る。きっとこの次はない。
江澄は指を伸ばして、藍曦臣の袖に触れた。
「なあ、曦臣」
ささやいても返事はない。袖を引いても反応はない。これなら、と江澄は藍曦臣の指に触れた。
刹那の間もおかず、パッと振り払われた。
藍曦臣の両の目が、大きく開いて、江澄を見ていた。
「あ……」
江澄はいきおいよく身を引いた。
背中が壁に当たった。
「すまない、そんなにいやだとは思わなかった。引き止めて悪かった。あなたはここで寝んでくれてかまわない。俺が……」
江澄は体を起こそうとしたがかなわなかった。伸びてきた両の腕に閉じ込められて、気づいたときには藍曦臣の顔を見上げていた。
「江澄」
はらり、と抹額の端が頬の横に落ちてきた。
「いやだったのはあなたでは」
「ちがっ……」
江澄は落とされる視線から逃れるように、顔を背けた。
「さっきは、その……、驚いて……」
「それだけ?」
「……そうだ。だから、あんなことをしたんだ。あなたがいなくなると思って……、まだ、そばにいたくて」
息を呑む気配がした。
江澄がそろそろと視線を戻すと、藍曦臣の手のひらが頬をなでた。
「愛しています、江澄……」
「藍、曦臣」
「逃げないで」
祈るような声だった。
近づいてくる唇に、江澄はまぶたを落とした。
魏無羨は、その美しい顔を最大限にしかめて言った。
「はあ? 自白剤?」
雲深不知処の静室に不穏な言葉が響き渡る。
魏無羨の向かいに座った江澄は大真面目な顔でうなずいた。
「自白剤、というかそういう類の術や薬はないのか、と聞いているんだ」
「なくはないけどさ、なにに使うんだよ。怪しい奴でも捕まえたのか?」
「そういうやつじゃない。効果は、まあ、ちょっとだけ口を滑らせやすくなればいいんだ」
魏無羨は首を傾げた。賊を捕まえたのでなければ、自白剤など使う用途はないはずだ。
「ちょっとだけって、また、よくわからないな。なにに使うか言ってみろ」
江澄は明らかにたじろいで、視線を外した。胡坐を組んだ足首を握って、首を振る。
「なんでもいいだろ、別に」
「よくないだろ、全然」
二人はしばしにらみ合い、先に諦めたのは江澄だった。
「ないならいいんだ。妙なことを聞いて悪かった」
「ないとは言ってないぞ」
「……なんだと」
「ただ、理由を言わなきゃ渡せないだろ。だいたい、これでいいかわかんないし」
魏無羨は戸棚から薬箱を取り出して、傍らに置いた。
いくつもの小さなひきだしがある。その中には様々な薬種が収められており、なにが入っているかは魏無羨でしかわからない。
江澄は大きくため息をついた。
渋面を作り、窓の外に視線をやって、ぽそり、とつぶやく。
「二度目がないんだ」
「ん?」
「だから、二度目がなくて、どうしたらいいかわからん」
わからないのはこっちだ、とのど元まで出かかった言葉を魏無羨はどうにか飲み込んだ。どうやらそうとう口に出しにくい話題らしい。察しろとは実に雑な相談の仕方だが、江澄が頼ってくるということ自体、彼がものすごく追い詰められているという証左でもあった。
「一度目、はいつなんだ?」
とりあえず、もう少し手がかりが欲しい。魏無羨は話をつづけた。
「……去年の夏」
今は春。
静室の庭では様々な花が咲き誇り、豊かな彩りに心も浮き立つ。
魏無羨はまさか、と思いつつ、江澄から一番遠い場所にあるものをむりやり引っ張り出してみた。
「お前、恋人ができたのか」
途端に、江澄の顔が真っ赤になった。
しかも、罵倒の言葉が飛んでこない。
魏無羨は愕然として、思わず「うそだろう」とこぼしていた。
「俺みたいなやつにそんなのがいて驚いたか。悪かったな」
「違う、江澄。そうじゃない」
「そうじゃないならなんなんだ」
なんだと言われると言葉にできない。手放しで喜べない心中に潜むものの正体をつかみきれない。
「まさか、お前に、そんなことを相談されるとは思わなかったんだよ」
魏無羨は慌ててとりつくろった。よほどのっぴきならない状況なのだろうが、ようやく江澄が相談事を持ち込むまでに譲歩してくれたのだ。これで再び距離を取られたくはない。
「それで、ないというわけじゃないやつってのはどれだ」
「ああ、いや、うーん……」
「恥を忍んで話したんだ。なにか寄越せ」
「乱暴だな!」
「うるさい」
魏無羨は気が進まないながら、薬箱とは違う箱を手に取った。これも自分で調合した薬に違いはないが、少しばかり夫夫生活に刺激を求めて作ったものだった。
「これだ」
箱からひとつ茶色い丸薬を取り出して、薬包にのせてやれば、江澄は身を乗り出した。
「ちょっとだけ、正直にものを言うようになる薬だ。だけどな、ほかにも効果があって」
「ほかの効果?」
「熱が上がる」
「熱が上がる……」
「動悸と息切れがするかもしれない」
「動悸……、どのくらい続くんだ?」
「長くても一時だから、まあ、そんなに長続きするもんじゃない」
しかし、魏無羨は気が進まなかった。これは気持ちを通じ合わせたうえで使うからこその薬である。
「なあ、江澄。これを誰に使うつもりだ? こんなものを使うより、ちゃんと話し合ったほうが……」
「もう、いいんだ……」
江澄は丸薬を見つめたまま、悲し気にほほえんだ。
「あの人はきっともう俺に気持ちはない。ただ、見捨てられないだけだろう」
「それをたしかめたいのか?」
しかし、江澄は首を振る。
「俺は、自分の気持ちを伝えられない。どうしたって、言えないから、最後に」
「最後?」
「もう終わりだろうからな。だから、最後だけでも知ってもらえたらと思って」
魏無羨はつながりを組み立てるのに少しばかり苦労した。
江澄のくわだてが見えなかった。
だが、気が付いたところで青ざめた。
江澄は自分でこれを飲む気でいるのだ。
「だめだ!」
魏無羨は慌てて丸薬をひっこめた。
「何故だ」
「だめにきまってるだろ!」
「だから、何故だ! くれると言っただろ!」
「あるって言っただけだ! やるとは言ってない!」
「うるさい、寄越せ!」
「だ、め、だ!」
つかみかかってくる江澄をかわしながら、魏無羨は逃げ回る。
机を飛び越え、庭に下り、門へと向かって駈け出そうとしたところで、背中に衝撃を受けて倒れこんだ。
江澄に飛びつかれたのである。
「いってえ! そこまでするか!」
「そこまでするさ!」
江澄は魏無羨の手から丸薬の入った箱をひったくると、一粒だけ取り出した。
「返せ!」
「いやだね!」
今度は魏無羨が江澄を追いかける番だった。
一目散に逃げだす背中に、全力で飛びつく。江澄のようにはいかず、衣をつかんだだけだったが、それでも足を止められた。
「考え直せ!」
「無理だ!」
「なにを騒いでいる」
「江澄? どうかしたのですか」
そこに割って入ったのは白い校服の兄弟だった。
土埃にまみれた二人を見た藍曦臣は江澄の腕を引き、背後に隠した。
「沢蕪君……」
「いったいなにをしているのですか」
なんで藍曦臣が江澄をかばうのか。藍曦臣の背中の向こうで、江澄が赤くなっているのはなぜなのか。
魏無羨はあんぐりと口を開けた。
「……うそだろう」
さっきよりも信じられない事態だった。江澄の恋人が藍曦臣だということも。それもまして、あの江澄に悲痛な覚悟をさせた張本人がこの清廉潔白な男だということも。なにもかもが許容の限界を超えていた。
「沢蕪君、あんた、江澄に」
「だまれ、魏無羨」
「だまってられるか」
「うるさいって言ってるだろ!」
そこで江澄は信じられない行動に出た。
魏無羨がどうにでも藍曦臣に文句を言うと見取った彼は、その場で丸薬を口に含んだのだ。
「江澄!」
「……っは、どうだ、魏無羨。これで曦臣になにを言ったってもう遅いぞ」
魏無羨はその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。
藍忘機が慌てて体を支えようと手を差し出す。
「沢蕪君、早く江澄を寒室に連れていってやって」
「魏公子? いったい江澄はなにを」
「あー……、俺が作った薬だから、変なもんじゃないよ。とりあえず、あとは本人から聞いて」
魏無羨は藍忘機の手を借りて立ち上がった。
これ以上は口をはさむべきではない。
まったく腹立たしいことこの上ない。藍曦臣に言いたいことも山ほどあるが、ひとまず二人で話し合わなければ、この先がない。
だけど。
「明日! 明日、あんたにはなしがあるから!」
「魏無羨、失礼な口をきくな!」
魏無羨は藍忘機に連れられて静室に、江澄は藍曦臣に手を引かれて寒室へと向かう。
春の陽はまだ西の空に傾きはじめたばかりだった。
江澄はしぼった手ぬぐいで顔と首もとと腕をぬぐった。
土ぼこりを落とせば少しはさっぱりとするはずなのに、なぜか居心地が悪いままだった。ぞわぞわと悪寒が背筋を走る。魏無羨の言ったとおり、熱が上がってきたのだろう。
「すまない、曦臣。助かった」
「いえ……」
江澄から桶と手ぬぐいを受け取った藍曦臣は、それを片付けると「ところで」と切り出した。
「なにを飲んだのかお聞きしたい」
「薬だ」
「どのような薬ですか」
藍曦臣の視線は鋭く、江澄は気まずそうに顔を背けた。
言えるわけがない。いや、これを言えるようにと薬を飲んだのだから、言おうと思えば言えるはずである。
奥歯を噛みしめて藍曦臣に向き直れば、なぜかまた悪寒がした。
「……俺は、自分の正直なところを言えない」
切り出してみると、意外と言葉はつながった。
「あなたにも、なにも言えないまま今日まで来た。だから、最後には聞いてもらいたいと思って、魏無羨に相談したんだ」
「待ってください。それでどうして薬に……、いえ、それよりも、最後とはどういうことでしょう」
藍曦臣は眉をひそめて、怪訝な目を向けた。
江澄は笑ってしまった。どうもこうもない。
「こうやって、二人で会うのは、終わりにしたい」
江澄は胸を押さえた。先ほどから動悸も速まり、息苦しくなってきた。これが一時続くかと思うと少しつらいが、ともかく、言わなければいけないことは早く言ってしまわなければ。
「江澄、なぜ」
「なぜ? あなたがそれを聞くのか? いや、そうか、俺はあなたにまだ何も言っていないのだったな」
「私は、あなたが嫌がることをしたでしょうか」
「しなかった」
一度きりで、それからは何もなかった。語らうことはあっても、牀榻で一緒に休むことはあっても、手をつなぐことさえなかった。
江澄は床に手をついた。いよいよ、苦しさが増してきた。
「江澄? どうしました」
「平気だ。薬の、効果だとか……、だから、問題ない。話を戻すぞ」
「……どのような効果だと言われましたか。そのような状態のあなたと話せるわけがない。今すぐ、人を呼びます」
「不要だ、曦臣」
「魏公子に話を聞かなければなりません。効果を和らげることならできるかも……」
「曦臣!」
江澄の大声に、腰を浮かせていた藍曦臣はハッと動きを止めた。
ここで誰かの介入を受け入れるつもりはない。せっかく、薬まで飲んだのだ。
「俺の、話を」
すべてを言い切る前に、江澄は床に倒れた。腕に力が入らなくなっていた。
すぐさま藍曦臣は江澄を抱き起した。のぞき込んでくる顔は青ざめて、まるで病人の様だった。
「そんな、顔を、するな」
江澄は手を伸ばして、藍曦臣の頬に触れた。ひやりとした。
「あなたの手、ひどく熱いですね」
「一時、だそうだ。だから、放っておいてくれ」
「あなたを放っておけるわけがない。とりあえず、牀榻へ」
江澄はおとなしく運ばれた。藍曦臣の腕の中は心地がよくて、目をつぶった。
「好きだったんだ」
「江澄?」
「あなたを、好きで……」
ふいに揺れが止まった。どうしたのかと目を開けると、間近に藍曦臣の大きな瞳があった。
「江澄、今、なんと」
「好きだと言った」
「私を? 本当に?」
「ああ……、好きだ」
だから、終わりにしたい。あなたにはもう気持ちがないことを知っているから。
江澄の用意していた言葉は音にはならなかった。
こぼれ出る前に、唇をふさがれた。
なんでそうなるのかは理解できない。だけど、あの夏の日以来の感触は、すばらしくて、息苦しさも忘れてしまうくらいだった。
「私も、あなたを、愛しています」
藍曦臣はしばらくしてから顔を離してそう言った。しかし、それは江澄の受け入れられる言葉ではなかった。
「うそだ」
「本当です」
「それなら、なんで、あの日だけだったんだ」
いつのまに再び歩きはじめていたのか。江澄はとっくに牀榻の前にいた。それなのに藍曦臣は江澄を下ろそうとせず、抱えたまま牀榻に腰かけた。
「あの日、とあなたが言うのは去年の夏のことですか」
「そうだ、なんで抱かない。好きだというなら……」
半年を超えて何もないわけがない。
江澄の言葉の意図を正しく読み取ったのか、藍曦臣はまず江澄を敷布の上に寝かせた。それから、自分も覆いかぶさってきて、また江澄の口をふさいだ。
「気持ちを確かめないまま、あなたを抱いたことを後悔していました。本意でないことを、無理にさせたのではないかと」
それは初めて聞く藍曦臣の本音だった。
「だから、ずっと、おそろしかった。いつ、あなたにもういやだと言われるかとおびえていたのですよ」
顔をゆがめてほほえむ藍曦臣の顔を、江澄は呆然と見上げた。
胸の内にすとんと落ちるものがあった。半年以上も疑いつづけたその気持ちが、突然内側に転がり落ちてきて、江澄はすんなりとそれを受け止めた。
「あなたでも、そんなことがあるのか」
「あなたのことですから」
江澄が手のひらで頬をなでると、藍曦臣の目からひとつぶのしずくが落ちた。
どちらともなく目を閉じて、唇を重ねる。
それは江澄にとっても、藍曦臣にとっても、ようやくといえる口づけだった。
「うれしい、江澄」
「俺もだ」
答えた拍子に、江澄の口から熱い息が漏れた。
とたんに藍曦臣の顔が強張り、さっと体を引いた。
「江澄、もう一度聞きます。魏公子からはなんと言われましたか」
「たしか、ええと、熱が上がって」
今や、体中が熱くなっている。
「動悸がして、息が上がるって」
藍曦臣は険しい表情のまま、指先で江澄の首筋をなぞった。
「ひゃっ……」
ひどい声だった。それで江澄も自分が飲んだ薬がどんなものだったのか、察しがついた。江澄は己の口を両手でおさえ、心中で魏無羨を呪った。
「江澄、体を冷やす薬を煎じますから」
「……いい、すぐにおさまる」
「ですが、つらいでしょう。すぐに戻りますから」
江澄は牀榻から下りた藍曦臣の袖をなんとかつかんだ。
「行くな」
「江澄……」
「あなたなら……、治せるだろう」
たしかに心の内をさらすにはこれほどよい薬はなかったかもしれない。
江澄は目を合わせられずに、ただじっと待った。
藍曦臣の手が、江澄の手を袖から外した。
「あなたという人は……」
「いやになったか」
「そうではありません。ああ、もう、そんな顔をしないで」
そんな顔、とはどんな顔だろうか。
江澄は再び牀榻に倒れこみながら、目をつむった。
自分の顔がいったいどうなっているのかと気になったが、ただしく思考がめぐったのはそこまでだった。
口を吸われてからあとは嵐になって、まったくなにも考えられなくなった。