まだ、月が満ちるには少しだけ日が足りていない夜のことだった。
江澄は露台の端に座り込み、手すりの間から足を空に投げ出した。片手に持った酒壺から杯に酒を満たす。
雲夢の、飲みなれた酒だ。
味は良く知っているのに、今晩はそのおいしさが逃げてしまった。
中秋節を数日後に控え、江澄は十日ほど前からひどく忙しい毎日を送っていた。屋台の仕切り、出し物の準備、食材の調達、ぜんぶ宗主の仕事である。
そんな中でも楽しみはあった。同じく忙しくしているであろう藍曦臣から、どうしても一日だけ会いに行きたいと、時間を作ってほしいと文があった。
互いに宗主の身である。多忙ゆえになかなか会うこともかなわない。それは承知の上だった。
それでも、会えない日が重なれば寂しさもつのる。
江澄は、けして文には書かなかったが、喜んで今日の午後を空けたのだ。
それなのに。
江澄は再び酒をあおった。
藍曦臣はいまだ姿を見せない。
遣いはあった。遅くなるかもしれないと伝言だけ受け取った。
とはいえ、湖に映る月は西の空だ。
「うらやましいな」
月は空にあって、どこでも見下ろせる。藍曦臣が今どこにいるかも知っている。
江澄のように待ちぼうけをしたうえで、結局会えないなんてことにもならない。
亥の刻はとうに過ぎた。さすがに今晩、藍曦臣が来ることはないだろう。
いまいましくなって、江澄は続けて酒をあおった。そうして酒壺が空になると、露台にごろりと寝ころんだ。
雲が出ている。細くたなびく雲が。ちらちらと光る星の下を流れていく。
江澄は目を見開いた。
その雲の下に影が見える。その影はあろうことか剣に乗って、衣をはためかせ、細く尾を引いている。抹額の、尾だ。
江澄は飛び起きて高欄に足をかけた。
すべりおりてくる影めがけて身を投げる。
「江澄!」
すぐさま力強い腕にさらわれた。
剣は流れるように空へと戻り、しばらく旋回した後、ゆるゆると動きを止めた。
「な、なにをしているんですか、あなたは!」
「あっはっはっは、驚いただろう」
「驚きました!」
江澄は藍曦臣の首に腕を回すと、険しい顔のその唇に、唇を押しつけた。
「あなたが来るのが見えたから、つい」
「つい、で身を投げられていたら心臓が持ちません」
「悪い、あなたなら大丈夫だと思ったんだ」
「万が一にも落とすことはあり得ませんが」
「そうだろう? だから、そう怒るな」
もう一度唇を重ねると、今度は藍曦臣も江澄の腰をぐいと引き寄せた。
深く、舌をからめて、口づけを交わす。
「……ん、なあ、どうしてこんなに遅くなったんだ?」
「雲深不知処から出る間際に事故の知らせがありまして」
「事故か。大変だったな」
「いえ、お待たせして申し訳ありません」
「いいんだ。無理してでも、来てくれたからな」
藍曦臣はそれでも眉尻を下げたままで、江澄は首をかしげた。
「どうした?」
「あなたも無理をしてくださったでしょうに」
どうやら、遅くなったことを相当気に病んでいるらしい。
江澄は藍曦臣の額に、己の額をつけて言った。
「そう思うなら、もっと抱きしめてくれ」
藍曦臣の瞳がやわらかくほほえむ。
江澄は再びまぶたを閉じた。
きつく抱きしめてくる腕と、押し付けられる唇の熱に、体の奥がじりじりと熱くなった。
江澄は藍曦臣から受け取った水を飲み干すと、もそもそと掛布の下にもぐった。
月は沈み、星のきらめきだけが空に残っている。
「なあ、それはなんだ」
藍曦臣は牀榻に上がる前に、机の上に一抱えもある包みを置いていた。さきほどは気にもしなかったその包みが、今になって気になった。
「あれは……、明日お見せしますが月餅です」
「月餅? また、なんで」
月餅なら蓮花塢でも大量にこしらえた。蓮の実の月餅も、こしあんの月餅も、食べきれないくらいの量がある。
藍曦臣は江澄の隣に横になると、腕を回して江澄を引き寄せた。
「あなたの月餅と交換していただきたくて」
「別にかまわないが」
江澄は藍曦臣の胸の上にあごを置いた。
長い指が髪の毛をすいていく。
「今年はあなたと月餅をいただくことはできませんが」
「まあ、そうだな」
今年と言わず、来年も、再来年も、何年たってもそうだろう。江澄には蓮花塢があり、藍曦臣には雲深不知処がある。
しかし、藍曦臣は江澄の頬をなでながら小さく首を振った。
「来年はあなたと中秋節をすごしたいのです」
「いや、それは……」
「家族になってください」
藍曦臣の言葉の意味が分からなかった。
江澄がきょとんとしていると、手を取られ、指先に口づけられた。
「私の、道侶になってください」
「……そんな」
そんなのは、言われたって無理だろう。たとえ道侶になったところで、宗主同士ではずっと一緒にいることはできない。
「私が蓮花塢に移りますので」
「移るって」
「何年も前から準備をしてきました。今年で宗主を下ります」
あなたにどうしても伝えたかったから、今日は絶対に会いたかった。
そう話す藍曦臣の顔は穏やかで、江澄はパッと顔を伏せた。
白い衣を握りしめると、大きな手に包まれる。
「江澄、ねえ」
「なんだ」
「顔を上げて」
「無理だ」
「来年は月餅を一緒に食べてください」
「…………ああ」
両腕で体を抱え込まれて、江澄はたまらずに顔を上げた。
すかさず口をふさがれて、すぐに息もできないくらいの、深い口づけになる。
全身で男の体温を感じながら、江澄は再び熱にのまれた。
秋の夜は長い。
湖は星のきらめきを映している。