その夜、江澄は白梅の隣の客坊を用意してもらい、そこに泊まった。
牀榻に寝転がり、天蓋を見上げたまま、江澄は一向に訪れない眠気にため息をついた。
昨晩は一睡もしていないというのに、高揚感が勝って、体が眠ろうとしてくれない。
夕方に目を覚ました白梅は己の胸に深々と刻まれた呪痕を見下ろし、しばらくは呆然としていた。
江澄は己の胸に手を当てた。この傷でさえ、見せたくないと思う人がいる。
まして女の体である。白梅の受けた衝撃を思うといたたまれない。
だが、それも長くは続かなかった。
彼女は笑ってみせたのだ。
「すっきりしたよ。御宗主、ありがとうございました」
「力になり切れず、すまん」
「そんなことはありません。ばちが当たったにしては、これだけで済んだのが不思議なくらい」
その笑顔は晴れやかだった。
手放しで喜べるわけではないが、江澄も胸をなで下ろした。同時に羨望がわいた。
彼女のように思い切れたら、楽になれるだろうか。
江澄は眠るのをあきらめて、体を起こした。
寒室にいる人を思う。
姑蘇藍氏の宗主、穏やかな笑みを浮かべる人。優しい人だ。なにをどうまちがえたか、好きだと言ってくれる。
江澄は長い長い溜息を吐いた。
あの人が触れてくるのが今でも信じられない。
そうだ、落ち着かないのはここが寒室でないせいだ。
ここのところ、泊まるとしたら寒室で、必ず藍曦臣がいた。彼が隣にいないということが、ものすごく奇妙だった。
もし、藍曦臣ときちんと話ができていれば少しは違ったのかもしれない。
だが、あの後に客坊を訪れたのは食事を持ってきてくれた若い師弟と魏無羨だけで、藍曦臣とは会えなかった。
結局江澄はまんじりとしないまま朝を迎えた。
ところが、白梅は目覚めなかった。
魏無羨の言によると、体力消耗による一時的な昏睡であろうとのことだった。
江澄は後ろ髪を引かれながらも、雲深不知処を後にした。
白梅のことも心配だったが、藍曦臣に会えないことも気がかりだった。
蓮花塢に魏無羨からの文が届いたのはそれから三日後のことだった。
その文によると、白梅は江澄が去った日の夕刻には目覚めたという。その後は食欲もあり、順調に回復している、としたためられていた。
江澄は言葉通り三毒に飛び乗った。
こうなったときのために、仕事は整理してある。師弟たちにも言い含めてある。
ともかく雲深不知処へ。
白梅の様子をこの目で確かめたかった。
それから、藍曦臣に会いたかった。
早朝の雲深不知処では魏無羨が苦笑しつつも出迎えてくれた。彼は江澄が来るのを予期していたらしい。
「彼女は元気だよ。もう起き上がれるようにもなったし、昨日は散歩もしてたから」
「そうか、よかった」
「なあ、江澄。そんなに彼女が気がかりか」
妙なことを言う。江澄は首を傾げた。雲夢の民だ、大切でないわけがない。
「当たり前だ」
「そっか」
客坊まで案内されると、明るい表情の白梅がいた。
彼女はしっかりと藍家の校服をまとい、椅子に座っていた。
「御宗主、わざわざありがとうございます」
「元気そうでよかった」
白梅の傍には妓楼からやってきたらしい少女が一人いて、彼女が世話をしてくれているのだという。
藍家師弟も親切で、雲深不知処で不自由はしていないようだった。
「そういう御宗主は顔色がよろしくないようで」
「そうか?」
「また、ご無理なさってるんでしょ」
「はは、あなたに心配されては面目が立たないな」
白梅は胡乱なものを見るようにして、江澄を手招きした。なんだと身を乗り出すと、彼女はひそひそと話す。
「好い人とうまくいってないんでしょう」
「な、なんのことだ」
「隠すことないじゃありませんか。あたしにはとっくにわかってることです」
楼閣で会った日から見抜かれていたことだった。
江澄は、自分でも驚くほどあっさりと認めた。
「よく、わからないんだが、しばらく顔を合わせていない」
以前の藍曦臣であればあの日も江澄を寒室に泊めただろう。雲深不知処を去る朝も、必ず会いに来たはずだ。
それが今日も出迎えに来たのは魏無羨で、客坊に通された今でさえ、会いに来る気配はない。
ところが、白梅はぷっとふき出して笑った。
「あたしに構いすぎたんですよ」
「構ったって、それはあの人も事情を分かっているはずだ」
「あたしにはありがたいかぎりでしたがね。はたから見ると、江家宗主が妓女を助けるために藍家を頼ったってことになりますからね。余計な噂も立つものですよ」
「噂だと?」
「なんでも、恥知らずな妓女が江家宗主をたぶらかして奥方の座に収まるそうで」
江澄は唖然として、しばらく開いた口がふさがらなかった。
少女のほうもなにやら真剣な面持ちで何度もうなずいている。
「お前と俺の間でそんなことにはならんだろう」
「それがわかってるのは御宗主とあたしだけですよ」
江澄は改めて己の行状を振り返った。
人助けとはいえ、雲夢からはるばる姑蘇へと女をひとり連れ込んで、その呪いを解くのにかつての義兄を頼り……、そうではなくおそらく一番の問題は、ここが藍曦臣の家であるということなのだろう。恋人が自分の家に女を連れ込んだ、となれば、たしかに機嫌を損ねるに十分だ。
だが、それは本当に藍曦臣であろうか。姑蘇藍家宗主だろうか。
「本当のことなんて、本人に聞かなきゃわかりませんよ、御宗主」
白梅の言うとおりである。
江澄は二人に頭を下げて、早々に客坊を辞した。
ともかくも、藍曦臣に会わなければいけない。
魏無羨から藍忘機を通して、藍家宗主への面会を願い出た。いったんは時間が作れないと断られたが、夕食の後でもいいからと食い下がり、なんとか許諾をもぎ取った。