「食前酒でございます」と江澄の前に給仕が差し出した細いグラスには、光に透かしたような琥珀色がたゆたっている。
向かいに座る藍曦臣の前には、もう少し薄い色のグラスが置かれた。
「梅ジュースをご用意いたしました」
「ありがとうございます」
給仕は一礼すると、半個室を区切る衝立の向こうに下がった。
江澄と藍曦臣は同時にグラスを手に取り、互いに微笑みあった。少しばかり照れくさいものがある。江澄は視線を外してグラスに口をつけた。
食前酒だからだろうか。甘味はそれほど強くない。
「今日はあたたかくてよかったですね」
「そうだな。というか、この辺りはそもそもあったかいんじゃないのか」
江澄は日中に訪れた千畳敷を思い出した。砂岩の海岸には海からの風が吹き付けていたが、まったく寒くなかった。江澄はコートを脱いだほどだ。
「この時季でももう少しは寒いらしいですけど」
「へえ」
江澄はスマホで天気予報のアプリを起動した。たしかに明日はもう少し気温が低いようだ。
「お待たせいたしました」
江澄が梅酒を飲み終えるころ、再び給仕がやってきた。お飲み物は、と尋ねられ、江澄は白ワインのグラスを追加した。
前菜は二種類の小鉢だった。サラダはベビーリーフとトマト、その上に細切りの鯨ベーコンが散らされて、スライスも添えられている。
江澄はとりあえずスライスを口に入れた。ふしぎな食感だった。かみごたえはない。酢味噌ベースのドレッシングは思いのほかまろやかだった。
顔を上げてみると、藍曦臣も目を丸くしていた。
「だいぶ、これは、独特……ですね」
「なんだろうな。うまいんだけどな」
ベーコン、という名称から想像していた食感と違って、口が驚いている。食べ進めれば違和感は消えて、くせになりそうなうまみだけが残った。
もう一種類の小鉢は海老の和え物である。からまっているたれは酸味が強い。
「梅か?」
「そうですね、梅の果肉が入っているみたいですよ」
「へえ、おもしろいな」
その次は刺身である。鯨の真っ赤な肉が大葉に寄り添うように美しく盛り付けられている。
おろししょうが、だけでなく、おろしにんにくも添えられていて、江澄は「肉だな」と思わずつぶやいた。
「お刺身でいただくことになるとは思っておりませんでした」
「うん、でもうまい」
口に入れるととろりとして、味が濃い。
江澄はそこで白ワインに口をつけた。
合う。
「曦臣、なんか飲むか」
「おいしかったので、梅ジュースをもう一度」
「甘くないのか?」
「少し、すっぱいんですよ」
藍曦臣が機嫌よく笑っている。
江澄はもう一切れ、刺身を口に入れた。やっぱり、とてもおいしい。
次は揚げ物だった。かごの中には鯨の竜田揚げと、ししとう。大根おろしとレモンが添えてある。
江澄はレモンをかけて、藍曦臣は大根おろしをのせて、竜田揚げを食べた。
「おいしいですね」
江澄はうなずいた。たしかにおいしい。衣はカリッとしていて、肉には弾力もあって、食べ応えも十分だ。しかし、ベーコンや刺身に比べるとこんなものかと思ってしまう。竜田揚げ自体が珍しい料理ではないからか、期待しすぎたか。
江澄はグラスを傾けて、あ、と思い至った。
きっと違う。ここに白ごはんとキャベツの千切りとビールがあったら、この竜田揚げはものすごくおいしかったに違いない。
江澄は苦笑しつつ、ふしぎそうな顔をする藍曦臣に首を振った。
「次が最後か?」
「そうですよ。お鍋です」
ホテルのレストランらしく、今夜はそれぞれの前に小さな卓上鍋が用意された。固形燃料に火が入れば、すぐにぐつぐつと煮えていく。
「これ、どこの肉だ?」
「皮らしいです」
皮、と言われればたしかに黒いところがそうだった。これをぽん酢で食べるらしい。
水菜と一緒に口に入れてみると、これまでの赤身とは違って、濃い味はしなかった。その代わりに食感がおもしろい。コリコリとしている。
シャキシャキ、コリコリ。
江澄は少し悩んでから、地酒を頼んだ。これには純米酒のほうが合う。
「明日は熊野古道だよな?」
「ええ、少しだけ中辺路を歩こうと思っています」
「じゃあ、このくらいにしておくか」
やってきた酒に口をつけつつ、江澄は再び鍋に箸を延ばした。少々煮すぎてしまって、水菜がくたりとしている。
藍曦臣の鍋はすでに空だ。よっぽどおいしかったのだろう。
「来てよかったな」
「そうですね」
「温泉も楽しみだな」
「露天風呂ですよね。海が見えるそうですよ」
「もう暗くてわかんないだろ」
江澄は笑って、ぐいとグラスをあおった。顔が熱い。
卓上鍋の固形燃料はすでに燃え尽きている。
江澄が鍋をすっかり食べたころに、見計らったようにして給仕がデザートと熱いお茶を持ってきた。
ガラスの器にはプルプルとふるえるゼリーがのっている。
「梅酒のゼリーでございます」
「梅酒? 梅ゼリーじゃなくて?」
「はい、アルコールを飛ばしておりません。中の梅の実は梅酒に漬かっていたものでございます」
江澄はまじまじとゼリーを見た。
「お客様には梅ゼリーをご用意しました」
藍曦臣の前にも同じようなゼリーが出された。藍曦臣のゼリーのほうが梅が小ぶりなこと以外、見た目はほとんど変わらない。
給仕が下がってから、江澄は藍曦臣と視線を合わせて、二人とも無言でひとさじ目を口に運んだ。
「おお」
たしかに、江澄のゼリーはほんのりと舌に苦みが残る。これはまぎれもなく、酒の苦みだ。梅の実はぎゅっと梅酒の味が凝縮されていて、それだけで酔っぱらいそうなくらい濃厚だった。
「本当にお酒でした?」
「うん、梅酒だった。そっちは?」
「さわやかな味がします」
「梅ゼリーだからな」
江澄がにやりと口角を上げると、藍曦臣もくすくすと笑う。
藍曦臣がゼリーを食べて、茶を含む。長い指がまたさじを持つ。
その仕草はとても美しかった。