兄上誕2021 誕生日と言えば、弟や叔父から祝ってもらうのが主で、それももちろん嬉しいのだけれども特別誕生日に思い入れはなかった。生まれたことに生んでくれた母親に感謝はすれども幼い頃から誕生日を特段楽しみにしてはいなかった。特に成人になってからは前の一年に成し得たことを振り返り、これからの一年をどう過ごすべきかをぼんやりと考える日、程度だった。
けれど、今年は生まれて初めて誕生日を恋人に祝ってもらうことになった。幸いなことに誕生日当日が金曜日であったために夕食を江澄ととり、その後も一緒にいられる。それだけで藍曦臣の心は浮足立ってしまう。
誕生日当日は江澄がいろいろと計画をしてくれているらしく、貴方は普段通りに仕事をし、連絡を待っていろとだけ言われた。何を計画してくれているのかそれを考えるだけでも心が暖かくなるし、わくわくとしてくるし、顔がにやけてしまう。
食事をした後はどうするのだろう。週末は予定を入れるなと言われているから予定は入れていない。どこか遠出をするのだろうか。その割に遠出が出来る用意をしておけ、とは言われていない。江澄の性格からあまり突拍子のないことはしないと思うので、そのまま着の身着のままでどこかに遠出することはないだろう。となると、江澄の部屋か自分の部屋に来ることになるのではないだろうか。もしも明日江澄がこの部屋に来てくれるのであれば、少しでも綺麗にしておいた方がよいだろうか。
藍曦臣は壁に掛けた時計を確認した。時間は夜の二十三時を過ぎている。掃除機をかけて良いような時間ではない。第一、藍曦臣が仕事に行っている間に自動掃除機が掃除をしてくれているから床にごみは落ちていなかった。それでも落ち着かなくて藍曦臣はそわそわとしながら部屋の美観を損ねないようにと木製のケースにしまわれたカーペットクリーナーを取り出し床の上をコロコロと滑らせた。
コロコロコロコロと転がしながらやはり考えることは明日のことで。
別になにも欲しいものはなかった。幸いにと言うべきか、藍曦臣はそれなりの規模の財閥の長でもあるし、これまた幸いなことに自分が始めた事業も軌道に乗っていてお金で買えるものであれば欲しければ自分で買うことができる。ついでに言えば性格的なものなのか江澄から何かものをもらうよりは、自分があげたい側だ。しかし残念ながら江澄の方は物を貰うのはあまり好きではないようで、なかなか何かをあげる機会がない。一度お揃いの指輪をプレゼントしたけれど、身に着けてくれたのを見たことがない。大事に寝室に飾ってあるのは知ってはいるけれども。
物はいらないけれども、例えば送った指輪とか。時計とか。身に着けることができるお揃いの物を江澄が毎日身に着けてくれればそれが誕生日プレゼントになるのだけれども。
そんなことを考えながらやはりコロコロコロコロとカーペットクリーナーを端から端まで転がして、一枚はがす。今度はソファの上を転がした。
日付もそろそろ変わりそうな時間で、これと言った予定もないのだから早く寝るべきなのだ。普段であれば風呂も入り終わってとっくにベッドに潜り込んでいる時間だとは藍曦臣も十二分に理解していたが、何となくまだ眠る気になれない。そわそわと時計を見るとあと10分で日付が変わる。もしかしたら日付が変わるタイミングで江澄がメールか電話をくれるかもしれない。そう思うと、寝るに寝れない。
ソファの上も綺麗にし、クッションも綺麗になれべてついでにローテーブルの上に広げた本も片付ける。これで明日江澄が家に来てくれても問題ない状態になった。
スマートフォンを手に取りメッセージアプリをタップして、江澄との会話を表示する。江澄が送って来たメッセージを指でするすると撫でていると、画面上に表示されている時計が「0:00」になった。ピコンと新しい吹き出しが表示される。
「誕生日おめでとう」
何の飾りもないその一言に、藍曦臣は口角が上がった。起きていてよかった。ふふ、と小さく笑って返事を書こうと思ったら、すぐに既読になったことに気が付いたのか呼び出し音が鳴った。藍曦臣は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『なんだ。あなた起きていたのか? 誕生日おめでとう』
「ふふ。ありがとうございます。もしかしたら阿澄からメッセージでも来るかな? と思って」
通話口の向こうで江澄が小さく笑った声が聞こえる。日付が変わった途端、自分の誕生日に初めてもらうメッセージと、初めて聞く声が恋人のものであるというのはなんと嬉しいものなのか。ふわふわとした心持ちでいると、カツン、と江澄の足音が響いた。てっきり家からかけてきているのだと思っていたが、どうやら外にいるようだった。
「阿澄、もしかして今仕事の帰りですか? どこにいるの? 車出します」
冬ほど寒くはないにしろ、それなりに夜は寒い。もしかして明日、自分の誕生日のために出社して残業をしたのだろうか。それは申し訳ない。藍曦臣はソファから立ち上がり、ソファの背もたれにかけておいたカーディガンを手に取ると、玄関へと向かった。
『いいや。仕事の帰りじゃない。車も出す必要はないから大丈夫だ』
「え、でも外、ですよね?」
『外は外だな。あぁ、着いた。藍渙。今俺がどこにいるか当てられたらあなたにご褒美をやろう』
「え? どこ……って」
電話の向こうの江澄は随分と楽しそうだ。音だけでどこにいるかなんてわからない。二人の思い出の場所だろうか。でもそんなところに江澄がこんな時間に行くわけがない。うんうんと唸っていると、笑い声とともに「時間切れだ」と言葉が聞こえてくる。
『答え、知りたいか?』
「知りたいよ。できることなら私もそこに行きたい」
『あなたの部屋の前だ』
騒がしくインタホンが連打される。電話の向こうからも、インタホンの音が聞こえ、藍曦臣は慌てて玄関の扉を開けた。
だが、そこには誰もいない。え、ときょろきょろとしていると、鉄の扉の向こうからスマートフォンを耳に充てた江澄がにんまりと悪い笑みを浮かべながら現れた。隠れていたのだ。
「酷い!」
中に招き入れ、鍵とチェーンを締めながら思わず軽く睨みつけるが、ついつい目の前に江澄がいることに口元が緩んでしまう。
「はは。驚いただろう?」
「えぇ、すごく」
「サプライズ成功だな」
してやったりと言った体の江澄はすたすたと中に入り、ソファの上にどかりと腰掛けた。藍曦臣も江澄の隣に座る。
「このために、来てくれたんですか?」
「貴方の誕生日プレゼント、何がいいか色々と考えたんだがな。欲しいものはないというし、俺が買えるようなものは貴方も当然買える。合鍵も渡してしまったし、他に何が一番喜ぶかと考えたら、物はなにも思い浮かばなかったんだ。だから、俺の十月八日から十月十日の三日間を全て貴方にやろうと思って」
膝の上に肘を置いて両手を組み、組んだ手の上に顎を乗せて江澄が上目遣いで藍曦臣の顔を見た。その手の右手の薬指には、プレゼントしたけれども身に着けたところを一度も見たことがなかった、お揃いの指輪が嵌められている。
欲しいものが全て目の前に提示された状態だ。誕生日に初めて目にするメッセージ。初めての電話。初めて聞く声。そして初めて会った人。それが全て江澄で、しかも今日から三日間江澄の時間は自分のものになるのだ。どんなに金銭を積んでも江澄が頷かなければ手に入らない三日間だ。それに何より、指輪を嵌めてくれている。ほんの何分か前に一番欲しいものと思い描いていた誕生日プレゼントではないか。
感動で小さく震えていると、江澄が不安そうな顔をした。
「あー……一応物も用意はしたけどな?」
「すごく、嬉しいです」
大きく両腕を開き、思い切り江澄を抱きしめ、そのままソファに倒れこんだ。ぎゅうぎゅうと力を籠めると腕の中から、「痛い」「緩めろ」なんて声が聞こえたが、それを無視して、江澄の額、瞼、頬、鼻に口づけ、最後に唇を重ねる。軽く唇を合わせるだけの口づけを交わして、ことんと額同士を合わせた。
「貴方の三日間を本当に全て私にくれるの? 明日の仕事は?」
「休みを取った。あなたは仕事をしろよ?」
「貴方の計画が楽しみで楽しみで仕方がなくて、実はバースディ休暇を取っていたんです」
「なんだ、遠足前の子どもか。貴方は」
おかしそうに笑う江澄の鼻をかぶりと噛む。
「どんなお願いごとも聞いてくれるの?」
「誰もいうことを聞くなんて言ってないだろう。まぁ、ちょっとぐらいのわがままなら聞いてやる。一日ぐらい貴方もわがままを言っていい。無理のない範囲でかなえてやる」
「じゃあ、一緒に住みましょう。夜が明けたら貴方の部屋に行って荷物全部運び込みましょう。そして部屋も引き払いましょう」
「それはわがまますぎるだろう」
「ここは二人で住むには狭いかな? うん新しい部屋を探しに行こうか」
「だから、少しは落ち着け。貴方浮かれているのか?」
「当たり前ですよ。こんなに嬉しい誕生日は初めてだ」
「貴方が嬉しいと、俺も……嬉しい。が、同居については一旦保留だな」
照れて笑いながら、江澄が藍曦臣の左頬を撫でてきた。藍曦臣はその手を取り、自分の指を絡めるようにして手を繋ぐと、綺麗な弧を描いている唇に改めて自分の唇を重ねた。これから先の三日間のことを思い描きながら、つるりと入り込んで来た熱い舌に自分の舌を絡めた。