追いかけられることに恐怖はなかった。全力は出さなくていい。かけっこの遊びみたいにかわいいものだ。
けれど少しだけ、期待もしていた。振り向けばいつもそこに君が居てくれることを。いつでも見つけられるその場所で待っていてくれることを。
「今度はどこまで行ってたんですか」
「頼まれごとがあってなあ、ちょっと西の国まで」
「そのわりに装備が軽いですね」
「必要なものは現地で手に入るからなあ!」
ふうん、と年季の入ったボストンバッグを見つめる視線がやけにおとなしかった。離れている時間が長くなればなるほど知らない表情を見つけることが増える。
それは嬉しいことだ。俺の手の届かないところでも生きてくれていることの証だから。
窓から夕陽が射し込んでいっそう濃い影が壁まで伸びる。ベランダに植えた苗は今年も花を咲かせなかったらしい。
顔を見に来ただけだった。料理くらいご馳走してやりたかったが、すぐ次の渡航先へ出発する時間がくる。
見送る彼女に「じゃあ、またなあ」と間延びした行ってきますを伝えて背中を向けた。
廊下に出て歩き出す。罪悪感を押し殺すように足音を立ててずんずんと進む。寂しい思いをさせているのかもなんて、柄にもないことを考えながら。
横断歩道の赤信号で立ち止まる。ふと帰る場所を覚えておこうと視線を上げた時だった。
ドンと鈍い音。通り魔に刺されたのかと思うほどの衝撃。背後からしがみ付かれ何かが腕に絡んでくる。手指がよじ登ってきて片手ずつ手の甲から掴まれた。
「もう絶対に逃がしませんから」
その背の高さはよく知っている。肩甲骨の辺りからくぐもったあんずさんの声が聴こえる。もしかして泣いてるのかあ?
離してほしい。強引に引っ張らないでくれ。そう拒むのに振り解けない。君の手が柔らかくて気持ち良いから。
背中にあたる温かみに足元がぬかるんで身動きが取れない。
どこにも行かないなんて優しくて滑稽な言葉は必要ないんだろう。君を守るとか、呼んだらすぐに駆けつけるとか、格好つけた言葉すら。
せめて心だけは抱き締められたままでいいと、静かに頷いた。
それでもまだぐすぐすと幼子のように甘えてくる。期待していたことがあった。振り向いた場所にいる君が、俺を引き止めてくれること。
温もりを与えてくれた小さな手を繋ぎ直す。もしこのまま離さないでいられたら。掌から幸せが溶け出していく。次に信号が青に変わる時には跡形もないだろう。この瞬間を月に笑われてもよかった。