遠ざかる雨の音 空はしとしとと静かに雨を降らせていた。湿気った空気が重たく背中にのしかかってくるようで、斑はやれやれと首を左右に振る。
仕事が不規則なのには慣れているが、こんな時間に女の子の後ろ姿を見かけるとやはり心配になる。
右手に傘を持つと、斑はESビルの裏口に通じる廊下を走った。白い明かりは行く先を照らし、腕時計を見ていたあんずがその気配に振り向いた。
「あんずさん、今から帰りかあ?」
会えたことは嬉しいと笑顔を見せ、けれど口調は厳しく。斑のちぐはぐな態度にあんずはギクリとしながら、それでも律儀に挨拶を返す。
「あ……三毛縞先輩、おつかれさまです。明日の準備してて、遅くなっちゃいました」
「傘も持っていないようだが……もしかしてそのまま帰るつもりとか? よかったらいっしょに帰ろう」
荷物がショルダーバッグのみであることを見咎められたあんずは、一瞬言い訳を考えるように押し黙ったが、傘を差して今にも歩き出そうとする斑を止めるため、正直に理由を言った。
「すみません、実は、遅いからと天祥院先輩が車を手配してくれて。それでここで待っているんです」
「そうかあ……。てっきり、傘を忘れてしまったのかと思ったぞお」
内心苦い気持ちで、斑は肩を落とした。この裏口は小さな通りに面しており、人の往来は少ない。エントランスから行くよりもコンビニが近いからとスタッフが出入りに使うくらいで、そのコンビニも少し離れている。
だから少し……期待していたのだ。
「じゃあ、いっしょに待っていようかなあ」
「えっ」
「いや。いっしょに乗って帰るんじゃあなくて。見送るだけ。それもだめかあ?」
あからさまに慌てるあんずに、斑は微笑ましくなりながら、さすがにそこまで図々しくはないと否定した。すると首を右に倒しながら覗き込まれるので、ん? と鏡写に斑も首を傾げた。
「いえ。気持ちは嬉しいですけど、でも今夜は冷えるので、大丈夫かな、と」
あんずの言うとおり、最近めっきり冷え込む夜が増えてきた。まさかこんな時にも心配してくれるだなんて、と、思わず感激して胸の奥が温まる。
「これくらい平気だ。そう言うあんずさんは、寒くないかあ?」
「……三毛縞先輩。あの、耳を貸してもらえますか」
斑を見ていた視線を外しながら手招きをして、あんずは言った。もじもじしている……のではなく、辺りを警戒している。斑は、前屈みになってあんずと目線の高さを同じにした。
「うん?」
こそこそ話をするように、口の横に手を当てるその顔は強張っている。かわいいと思ったその瞬間には不意打ちで頬にキスをしていた。外気ですっかり冷たくなっていたのでアイスを溶かすように。
「……っな、な!?」
反射で後ずさるあんずの手首を掴むと斑は警告を発した。
「おっと、もう少しこっちにおいで。濡れてしまうし、それにもし周りに誰かいたら何をしていたかバレてしまうなあ」
ばっと振り返るあんずの反応に、これはいつかバレるだろうなあと斑はひとりごちる。
当然のことながら、周りに人の気配がないことは確認済みである。それに、大きな傘が外からの視線を塞いでいる。
傘で自分たちが隠されていることにようやく気づいたあんずは、けれどそれがきちんと隔てていると確証がなかったせいか、眉を吊り上げ斑を睨みつけて抗議している。
「あっちからは丸見えなんですけど」
あんずは来た道を指で指し示したが、今は管理人がいない時間だし、それに周囲を見て人がいないのを確認していたのは彼女も同じである。
「廊下に誰もいないのは見えているだろう」
「監視カメラは」
「……そういえば、あるなあ」
データなど握り潰せばいいので念頭になかった。
あんずは怒ったのか呆れたのか目を白黒させている。斑は場を和らげるためににっこりと微笑みかけて手首を解放した。
そしてそのまま左手で彼女の頬に触れて親指で皮膚をむにゅと押すと、あんずは我に返って呻きだす。抵抗しているのだろうが、それがまるで唇にも、とせがんでいるみたいに思えて、斑は自嘲した。
潤んだ瞳がゆっくりと瞬きするから、ああ、本当にしてしまえたら、と、顔を寄せた。
ビルの明かりと街灯がアスファルトの水たまりににじんで鈍く反射する。赤いハザードランプが点滅してそばに停車した。
後部座席にするりと乗り込んだあんずは窓を少し下げて叫んだ。あんずの肩は、いつのまにか濡れてしまっていたらしい。
「次はもうしませんから!」
「うん。またなあ」
名残惜しくて伸ばしかけた手を顔の横でひらひらと振った。それは頬に触れたばかりで少し湿っぽい。
見えなくなるまで見送ってから帰り道を歩き出すと、自分の肩も同じように濡れていることに気づいて、斑は鼻歌混じりに口の端を上げた。