>3.「いつもの場所」へ向かう 62.5%――いつもの場所。あの茶室だ。
「しのぶは、あの茶室に魅入られているんだ」
くっきりとしたまつげを伏せて、カナエは言った。哀愁というものがあれば、それにふさわしい表情であっただろう。ただ、カナヲがその感情を理解するには、いささか幼過ぎた。
木箱に詰められたおはぎを持ち出す。カナエに、伊黒という和菓子屋で頂いたことは説明済みである。カナエは、その箱を紗の風呂敷で包んだ。紅牙瑞錦の鳥獣と草花を織り込んだ風呂敷は、胡蝶の家にある物でも、特に上等なものではなかったか。やわらかな手触りを両手で包み、カナヲは部屋着から浴衣に着替えた。松煙染めの古典裂取文様を、男物に仕立ててある。カナヲが『これを着なさい』と言った。それだけで十分だ。ざらりとした肌触りの浴衣を着て、紐と帯で身体を括る。
何か、儀式めいたものを感じる。
「カナエ兄さん、どうして」「盆を迎える準備だよ。今年はカナヲが選ばれた。それだけの話」
兄の話を、うまく理解できない。風呂敷で包まれた木箱の上に、袱紗で折られた金魚が乗っている。そのまま持って行きなさい。はい。しのぶが氷点をしているから、その場にそっと置いてきなさい。はい。ああそれと。
――決して、喋ってはいけないよ。
■■■
静かに、静かに。包みを押しいただきながら、カナヲは歩いた。手紙を届ける禿のようだ。最も、あちらは鈴を鳴らしながら歩いていくが。ちりちり、からから。一切の音を立てずに、カナヲはしずしずと歩いた。床のきしみもたてず、風を切らず、自然に紛れて何物にも見つからないように。
爪先から髪の先まで、神経を使う。
この空気に飲まれないように。
あの怪異に、呑まれないように。
茶室の襖は閉まっていた。いや、よく見れば、細く……あいて、いる。静かな月明かりが漏れている。
(声を出してはいけない、と)
声を出してはいけないと、カナエ兄さんは言っていた。ここに、木箱を置いて去ればいいのだろうか。
カナヲは逡巡する。
息を、吸った。
「ひゅ」
かすかな喉の音。声。しまった。どうしよう。ヤバい。
やくそくを破ってしまった。きちり。身体が固まる。
『だれだ』
静かな声が、どこかに伝わっている。
喋っているのか? いや。これは空気に、耳に、脳に。
直接響いている。