鱗花繚乱「明治期の文壇における西洋文学の移入は、百花繚乱の様相を呈し」
だるい。正直だるい。現代文の授業は、しのぶが最も苦手とするところである。感情よりも現実の方が好きだ。そんな大昔のことを学んだって、人生が変わるはずはないのだから。
だがしかし、現実は残酷である。
目の前に迫ったテストからは逃れようがない。一応、上位を保っておかなければ産屋敷の沽券にかかわる。正規に高得点で入学したプライドともいうべきものが、しのぶのやる気スイッチである。シンプルな自室で、机に向かう。明治の文豪は嫌いだ。無駄に多いし、ぶっちゃけカオスすぎてよくわからない。
重い溜息を吐けば、机上でとぐろを巻いている白蛇がすうすうと動いた。眠っているのだろうか。
「伊黒さん、寝てます?」
しゅるり。渦を巻いた白蛇がほどけていく。きれいに揃ったダイヤ形の白いうろこが、一つの棒状になってゆく。しゅるりしゅるりと机上を這って、しのぶの左腕に纏わりついた。
「起きてるじゃないですか。ご飯ですか?」
ひんやりとした、爬虫類特有の温度がしのぶの左腕に巻き付いている。標準的な白蛇の伊黒は、意思があるのかないのか、あかい舌をチロチロと動かしながらしのぶの首へとめぐっていった。
かたり。シャープペンシルを置く。記憶できないものはそのうちできるようになるまで放っておくのが信条だ。勉強をあきらめたしのぶは、息抜きに屋敷内の散歩へと出た。
もちろん、伊黒もつれて。
屋敷内を散策する。相変わらずこの屋敷は広くて、ここで生まれ育ったしのぶでさえ、行ったことのない場所が存在する。伊黒はいつのまにかしのぶの首から降りて、先導するようにしゅるりとしのぶの前へ出た。
「案内してくれるんですか」
視線がふい、とかちあった。白蛇の案内についていけば、妙な扉が現れる。あけろ、とばかりに蛇が扉の前でひとめぐりした。
わかりましたよ。扉を引いて、しのぶが中を開いた。
□□□
文化人を囲っているのならば、その成果物は必然である。
――例えば、茶碗。
――例えば、造花。
――例えば、
「……これは」
目の前に広がる、数多の剥製。その多くが、花である。きらきらと輝く花に近寄る。半透明の、うす黒い花。近くで見れば、その花弁は全て、薄いフィルムを寄せ集めて作ったものであった。しのぶは、そのフィルムに見覚えがある。
あの池を我がものとし、悠々と泳ぐ魚。
「冨岡のウロコだ」
いつの間にか、人がいる。小柄な黒髪おかっぱ頭。オッドアイで、蛇のように口が裂けている。
「、いぐろ、さん」
蛇の伊黒は、人間であった。人間であるうちに死んだ。鬼に殺されて死んだ。しかし、伊黒が相棒としていた蛇の鏑丸は生きた。伊黒の痣が、鏑丸へと移っていたのである。ゆえに、蛇の呼吸を扱う伊黒は、蛇と成って生きていた。
特殊な事情からか、時折、伊黒はヒトの姿になる。今がそうなのだろう。しのぶは自然に受け入れた。
「あんな人魚のどこがいいんだ。ゲージュツカというヤツは理解ができない」
ぶちぶちと文句を言いながら、伊黒は奥の花をふたつ、摘まんだ。
ウロコの花が咲き乱れている。花の咲かないこの季節に、花が咲き乱れている。
「これ、ぜんぶ」「冨岡のウロコで作ったものだ」
人魚のウロコで作られた造花。いくら自然に剥げることがあるとはいえ、この量は異常だ。どうして、どうやって、こんなことを。
「……知りたいか」
はい。しのぶは、頷いていた。伊黒はあきれた溜息を吐いた。
――造花を知っているな。はい。アートフラワー、などというものがまだない時代だ。
花に魅入られた男がいた。その男は、自らの理想とする花を追い求め、とある素材にいきついた。それが人魚のウロコだ。
男は人魚のウロコでたくさんの花を咲かせた。梅、紅花、シャクヤク。たくさんの花を作って、ここに保管した。
「それの積み重ねですか」「そうだ。男はこのシリーズを『鱗花』とした」「リンカ」「そうだ」
俺には全く理解できぬがな。そう言って、伊黒は蛇に戻っていた。
(この花、どこかで)
ああ、玄関に飾ってあった花に似ている気がする。
『しのぶ、いい感じに作れたんだ。見てくれ』
兄が、そんなことを、言っていた。兄が、カナエ。
しのぶは、そこで考えることをやめた。テストは明後日だ。早く戻ろう。
胡蝶家の玄関に揺れた、黒い花を一瞥して。しのぶは自室へと戻った。