降志ワンライ「微熱」「デートしよう」 どうしようどうしよう、と目の前でアタフタする女性――かつての相棒――宮野志保を目の前にして、工藤はどこか感慨深い気持ちを抱いていた。
ボブカットに切りそろえられた紅茶色の髪も、猫のような瞳も、かつて自分と同じ小学生の姿になっていた頃と変わらない。ただ、あの頃と違うことと言えばその表情だ。
否、冷静沈着で理論的、どこかシニカルな物言いをする姿はあの頃とやはり変わらない――普段、ならば。
今目の前にしている宮野志保は、頬を紅色に染めて、眉を困り果てたようにハの字に歪ませているが、そこに拒絶の意思はなく、ただただ予想外の展開に普段は鋭利な脳裏が働かないだけだというのは一目瞭然だった。
まあ、彼女がこんな状態になる理由は推理などするまでもなくわかっている。
というか、たった今目の前で起きたことだから当然である。
「……どうしようって、良かったじゃねーか。行きたかったんだろ、それ」
志保が手にしたスマホに表示されているのは、とある電子チケットの当選通知。
そのタイトルは『比護隆佑に会える!一日サッカー教室』と記されていた。
「どうもこうもないわよ!あぁどうしよう、どうしよう。何を着ていけばいいかしら。美容室も予約しなきゃ。爪も手入れして、そうだわ何か差し入れも…どうしよう。今から緊張してきちゃった…!」
「一ヵ月も前から緊張してたら当日保たねーぞ。知恵熱出しても知らねーからな」
そもそもサッカー教室の対象者は小学生以下に限定されており、少年探偵団たち(と志保自身)の希望で申し込んだのだ。志保は一介の引率に過ぎず、直接彼に指導を受けるわけでもなんでもないのだが、そんなことは今の彼女には関係ないらしい。
「恋は盲目ってやつだろうなぁ…」
工藤のことなど我知らず一人でアタフタとしている彼女に向けた言葉は彼女にすら拾い上げられることなく、霧散するはず――だったのだが。
「恋?彼女が?」
突然背後から響いた声に、工藤は思わず肩を震わせ振り返った。
音もなく現れた男――降谷は、椅子のキャスターをくるくる回転させながら顔を赤くしたり青くしたりしている彼女から視線を外すことなく、眉を寄せている。
「降谷さん。足音を忍ばせるのやめて下さいよ…」
「ああ、ごめん。つい癖で。で、彼女は何があってこうなってるんだ?」
「かくかくしかじか」
「なるほど」
見れば降谷の手には一冊のファイルがあった。
ここは宮野の個人ラボ。フリーの研究者である彼女の頭脳と手腕を頼りにしている一人であるこの公安警察官も、おそらく何かしらの依頼を持ってきたのだろう。
今日依頼結果を受け取りにきた工藤とはちょうど入れ違いだ。
受け取りついでの雑談のさなかで鳴った彼女のスマホに当選通知の四文字が並んだことで、すでに彼女の意識から工藤の存在など消え失せているだろうが。
「志保さん。浮かれてるところ悪いけど仕事を頼みたい」
「あら降谷さん、いらっしゃい。いいわよ。今日は気分がいいから報酬は割引サービスにするわ」
くるりと椅子を半回転させた彼女は華奢な指を組み、にっこりと美しい笑みを浮かべていた。
無償と言わないところはしっかりしてるな、などと思ったりもする。
しかし宮野の珍しいサービス価格に降谷は難しい顔をして首を振った。
「いや、むしろ割り増しでいいよ」
え?
なんだそれ。よっぽど難しい案件なのだろうか、と興味をそそられてしまうのは、探偵のサガだろう。
思わず腰を浮かせかけた工藤の目の前を長いコンパスでつかつかと横切り、彼女の目の前に立ったかと思えば、訝し気に眉を寄せた彼女の手を引いて立ち上がらせた。かと思えば――。
「!!!?」
突然の、ことだった。
引いた腕をそのままに、もう片方の手が彼女の顎を掴まえて、その唇が重ねられたのは。
「へ、ぁ、えっ!?」
触れるだけの軽い口づけはすぐに離れたが、流石の宮野も思考停止状態と見えて、言葉にならない声を発するのみ。
先ほどとは違った朱に頬を染め、己の唇を隠すようにその手を覆い隠す。
「え、いや、あの。フルヤサン…?」
不可抗力にもばっちり男女のキスシーンを目撃してしまった工藤もまた顔を真っ赤に染めつつも、疑問符を浮かべるばかりだった。
「キスしてほしいって、言ってただろ。この間」
「あ、あのね……!それとこれとは別……っていうか、突然なんなのよ!?」
え、この二人ってそういう関係だったのか?
仕事上の知人程度の付き合いだとばかり思っていたのだが。
「好きな女が他の男に現を抜かしているのは面白くないよ、俺も」
比護隆佑に会うのに知恵熱出すくらいなら、こっちだってせめて微熱くらい出してもらわないと。
そう言い切った降谷は、彼女の手にファイルを握らせると、「今度またデートしよう」と言い残して立ち去っていった。
あとに残されたのは、宮野と工藤の二人のみ。
「えーと…なんつーか…お前、付き合ってたのか?降谷さんと」
「……工藤くん?ま、まだいたの!?っていうか見てたの!?」
完全に存在を忘れられていたことが露呈した台詞に、がくりと肩を落とす。
この分では二人の事情を聴くまで時間を要することだろう。
というか、男女の機微など聞き出す必要があるか否かも判断しがたいところではあるのだが。
十分前とは違った意味であふためいている彼女を見る限り、あの油断ならない男の思惑は成功したのだろうと。
彼女の手から抜き取られ、デスクに置かれたスマホが居心地悪そうにしているのを見ながら、そんなことを思った。
(一か月後、大阪デートwith探偵団の様子が歩美から送られてくることを、予言者たりえない彼はまだ知らない)