情報システム部の国広くんと長義くんの話 マシンルームから帳票の束を持って戻ってくると、朝から挨拶周りで出ずっぱりだった長義がデスクに戻っていた。
「あれ。長義。もう終わりなのか」
俯いて何か作業をしているらしい長義のつむじに声をかける。キーボードを叩くときはいつも椅子の背にもたれかかって寝転ぶような姿勢だから、こんなふうに俯いているのはそういえば珍しい。一体何をやっているんだ……。
「げっ。字、書いてる」
「うるっさい。今、話しかけるな! 字が歪む」
「あんたの字、元々歪んで――、あいたっ」
新年早々同じパターンである。素早く手を伸ばした長義に、脇腹をグーパンされた。どうして長義は美人なのに口も回るのに、最終的には真っ先に手が出るのだろう。
「で、なんで、筆ペン? あんた、何、書いているんだ?」
脇腹をさすりながら、俺は改めて、筆ペンを持つ長義に訊ねた。よく考えればあのペンで刷りたてほかほかの帳票にバツ印を書かれなくてよかった。だって長義ならやりそう。
長義はお手上げ、みたいにハンドアップする。すると机には裏紙と、白い部分に何かが書き散らかされている。何だこれ……? 芸術的な……。文字?
普段、長義が書く文字は右肩上がりで、慣れるまでは紙を斜めにして解読……、読んだものだ。悪筆というよりは、丁寧に書こうという意思が見受けられない、そういう類の文字。
「何それフォローのつもり? 悪筆でいいんだよ。――今日、こっちに挨拶に来る同期が結婚するって今朝連絡がきたわけ。なら、有志で、慌ててお祝いを、ってことになったのはいいんだけれど、このタイミングで同期に会えるのは俺だけだから」
「ああ。それで長義に、祝儀袋の準備っていう大役が回ってきたんだ……」
結婚祝いと印刷されたのしに、「有志一同」と、書き、白い紙に各人の名前を書き添えて同封する。有志は何人いるのかわからないけれど、よほどの達筆でない限りこれは大変な作業だろう。
そんな大役を、よりによって長義に、と、いうコメントはなんとか飲み込んだ。
「印刷したほうがいいんじゃないのか?」
「それは、プライドが許さない」
「はあ……」
長義のプライドはどこにあるんだ。
「この字を晒すほうがよほどプライドが許さないんじゃないかって言ったらお前の顔にでかでかと髭を書くからな」
「言ってないだろ。――そういえば、長義、こんなアプリがあるの、知っているか」
俺はポケットからスマホを取り出し、親指を動かしてストアのアイコンをタップする。さらに操作をして辿り着いたアプリの画面を、ややくたびれた顔の長義に見せた。
「これ。書きたい文字をなぞるだけでそれっぽく書けるらしいぞ」
「へえ……。スマホの上に紙を置いてなぞるのか。ふーん……」
本当にいろいろなアプリがあるね、と、長義は呟いて、そのまま俺のスマホの画面の上に紙を置いて、再び筆ペンを取り上げた……。
■■■■
『――で、うまくいったのか?』
昼間は長義に下敷きにされたスマホから、伽羅の声が聞こえる。やや低い伽羅の声は、電話越しだと少しだけ軽いトーンになる。微々たる変化の理由をそれとなく聞いてみたら、自分の声は聞き取りにくいから電話だと高めの声で話す癖がついているのだとか。
誰かはわからないが、伽羅に「電話で聞き取りにくい声」と言ったやつに俺は感謝したい。だってスマホ越しのわずかに高い伽羅の声は、レアだ。
「全然ダメだった」
『だろうな』
「そもそも長義の字って細すぎるんだ。細い字のままなぞろうとするからがたがたに震えて呪い文字みたいになって、諦めた」
『まあ、毛筆をなぞれば書けると思っているあたりですでにダメだろう』
「そうなのか?」
伽羅も年相応の落ち着いた文字を書く。きっと筆ペンを急に持たされて困惑することなんてないんだろう。
そういえば、以前そんな話をしたとき、伽羅の周りは達筆が多いって言ってたっけ。そうそう、それで、そもそも筆ペンを使わないとか言ってたんだ。事務所には墨と硯があって、
「そうだそうだ。それで、伽羅、お土産に筆を買うって、――」
ふたりで初めて出かけた温泉旅行で、伽羅は誰かへのお土産に筆を選んでいた。真剣に選ぶ伽羅の横顔は凛としていて、とても声がかけられなかったのを覚えている。
でも、あのときの伽羅が選んでいたお土産は筆だけでなく、化粧筆もあった。化粧筆なんて、誰に贈るの? って一瞬だけ悲しくなって、でもすぐに伽羅が教えてくれたその答えは、「国広の」。
伽羅は色っぽく笑って言いながら、呆気に取られる俺を布団へ沈めたんだ。それから、やわらかい筆先で散々肌を辿られて、それで、――。
あのときの感触を思い出してしまって、かっと頬が熱くなる。
『――国広、今、何思い出してる?』
「……っ」
スマホ越しに伽羅へこの体温が届いてしまいそうで、そんなことはあるわけがないのに、俺は思わず少しだけスマホから耳を離そうとした。なのに。
『えろいこと、思い出してるだろ』
追い打ちをかけるように伽羅が囁く。伽羅の甘い声が耳に響いて、ぞくっと背中が震えた。
「……な、……そ、」
『ふうん?』
伽羅は鼻を甘く鳴らす。他愛もない話をするときとはまた違う、スマホ越しの伽羅の声。吐息。意識しているのかどうかはわからないけれど、ちょっとだけ、ベッドで聞くそれと似ていて、俺は早々に白旗をあげた。――もう、伽羅に、取り繕っても無駄だし。
「……筆ペンまでえろさにリンクさせるのは、やめてくれ……」
『――くっ……』
さっきまでの妖しい雰囲気も一変して、伽羅が笑った。あっ、くそ。伽羅の笑う顔、見たかったな。
『悪かった。でも、あんなにえろいいたずらしたのに、国広が全然思い出してくれなかったらどうしようかと思った』
「なんだそれ……」
『あんた、ほんと、かわいいな』
だから、なんだ、それ……、と、思ったけれど、それは言わないでおいた。伽羅だって笑う顔がすっごくかわいいんだ。今もかわいい顔をして笑っているに違いない。
ああ、年末年始は長く一緒にいたせいか、もう伽羅に会いたくなってる。
そんなことを言ってしまったら、伽羅は困るだろうか。それとも、無理をしてでも会いに来てくれるだろうか。次の休みに会えたらいいなって言ったら、伽羅は、……。
――あのときの化粧筆を持ってくると思う。たぶん。
■■■■
「素直に最初から印刷すりゃいいじゃねぇか」
昼間の顛末を話すと、呆れたように返した南泉を睨んでから、長義はラーメンをずず、と、すすった。昼に食べるラーメンは天津飯がマストアイテムだけど、夜に食べるなら生ビールと餃子だ。翌日が休みならキムチも添えたい。
「それか、おとなしく国広に頼めばよかったんじゃねえの。あいつ、そこそこ骨太の字書くから、格好はついただろ」
「えっ。猫殺しくん、なんで国広の字知ってるんだよ。いつ。どこで。何なのきみら。どういう関係?」
「……。送り状に書いていらっしゃいますでしょう、お客様」
「そうだった」
南泉に依頼する宅配便の送り状は、印刷できる部分もあるけれど、手書きも多い。ところであの四枚複写の伝票って、下へ行けば行くほど字の汚さが際立つのに、客先へ行くのが複写のほうっていうのが長義には納得がいかない。一番上の伝票は、比較的、きれいに書けているんだよ……。
「まあ、お前の字、お前らしくていいじゃん。オレは好きだぜ」
「あー。はいはい。国広にもよく言われるよ」
「オレ、たぶんお前の字、真似できる。勝手にお前の代筆できる気がするにゃ」
「俺の代筆なんか何に使うの」
仕事帰りの夜ラーメンデート。南泉は車の運転があるのでビールはなし。その代わりに大盛りライスに明太子トッピングだ。白いご飯の上に明太子を黄金比で乗せて、南泉は、ばくんと一口ご飯をほおばった。
「婚姻届、出すわ」
あ、ご飯もおいしそうかも……、そんなことを考えていた長義は、南泉の言う意味が一瞬わからなかった。
――え? 今、何を出すって?
end
(2022.01.09)