二時間だけのバカンス やたらと重いドアを開けると、狭い部屋の真ん中にキングサイズのベッドが鎮座していて、その露骨さに思わず苦笑を浮かべた。当然、こういう施設があることも、自分が利用できることも知識としては知っていたが、どこか都市伝説のような存在で、いざ自分が今そこに居るのだと思うと軽く眩暈がした。
そして隣に立っているのが、数年越しに会った高校の頃の部活の後輩、流川であることもいまだに信じられなかった。
俺は高校時代、流川のことが好きだった。と言っても、それが恋なのだと受け入れたのは高校を卒業し、数年経った後だった。
触れてみたいだとか、笑わせてみたいだとか、もっとよく知りたいだとか、人生で初めて抱いた感情だった。それ故に、高校生の自分はそういう感情を抱く相手が部活の後輩の男だと信じたくなかったのかもしれない。
高校を卒業した後は、流川と会わなくなった。元から二人だけで会うような仲ではなかったから当然といえば当然だった。
月日は流れていった。大学生、社会人と新しい環境に身を置くたびに、居るはずのない流川の姿を探した。もし、今流川に会えたら、自分の思いを伝えようと思っていた。流川が気味悪がっても、自分のことすら忘れていたとしても。錆びついて、でも捨てられないこの気持ちをいつまでも抱えているよりマシだと思った。けれどどこかで、もう自分の人生に流川が交わることなどないのだろうと、理解もしていた。ずっとこの錆臭い想いを携えたまま生きていくのだろうと、静かに覚悟していた。
しかし、それはあっさりと崩された。
日が沈んだ都会のスクランブル交差点、俺は夕飯のことを考えていた。一度だけ奮起して自炊をして以来、キッチンはほぼ使っていなかった。家になにか残っていたっけ、それとも何かコンビニで買っていくか。
そんなことを考えながら歩いていると、まるで人混みの中、そこだけスポットライトが当てられているかのように、俺の目は一人の男に吸い寄せられた。息が止まり、足が動かなくなった。縦横無尽にうごめく人の中で数メートル先に流川を見つけた。動けないでいると、後ろから歩いてきた男がぶつかり、舌打ちをしていった。それでも、俺はただ突っ立っていた。
何年も会っていないから見た目だって変わっているかもしれない。そもそも人が多すぎるし、暗くて顔もよく見えない。けれど、絶対にそれは紛れもなく流川だった。
「流川」
俺は目の前にいるかのような声で呼んだ。こんな雑踏の中で聞こえるわけがない。なのに、流川はこちらを振り向いた。流川は人混みを掻き分けながらこちらに歩いてくる。なんだかブルトーザーみたいだなと思った。
「センパイ」
俺を見下ろす男は、間違いなく流川だった。学ランかユニフォームの姿しか見たことがなかったが、今は襟付きのジャケットを着ている。久しく自分より背の高い人間に合わなかったから、余計にでかく感じる。
「一人ですか」
「え、あ、ああ……」
本当に、本物の流川が目の前にいる。俺は呆気に取られたまま立ち尽くしていた。視界の隅で、歩行者用の信号機が点滅する。
「飯はもう食いましたか」
「いや、まだ……」
「じゃあ、今から行きましょう」
手首を掴まれ、引っ張られた。
行きませんか、とかじゃないんだな。
揺れる流川の襟足を見ながら、引っ張られるままについていった。俺は今、運命に手を引かれていると思った。
高校時代、流川もまた自分を好いているのではないか、と思ったことがある。
流川にじっと見つめられていることがあった。それは野良猫が少し離れたところからこちらを窺っているような、野性的な習性だと思っていた。しかしふとそちらを見れば、流川もふいと視線を外した。
俺が視線を外せば、流川は俺を見る。俺が流川を見れば、流川が視線を外す。
「なんか用か?」
直接訊ねると、流川は何故か少し不機嫌そうに
「別に」
と答えた。
「センパイこそ、なんか用すか」
と言われ、流川と目が合うということは自分もそれだけ頻繁に流川のことを見ている、ということに気づかされた。それからは、流川に尋ねはしなくなったが、それでも一瞬だけ視線が絡むことはよくあった。
どこまでも引き込まれそうなあの瞳が自分を見ていることに、不思議な優越感を抱いていた。同時に、あの瞳が別のものを映している時間を嫌った。流川の視線を奪うものに嫉妬した。それが恋だと、よく気づかなかったものだと今なら笑える。
「酒、飲みますか」
成り行きで入った居酒屋で、向かいに腰掛けた流川が尋ねてきた。いつの間にかお互いに酒を嗜める年齢をとっくに超えていた。あの頃の毎日に、酒なんて存在しなかった。あるのはバスケと、つまらない授業と、仲間と、短く熱い一日の連続だけだった。
「流川は普段酒とか飲むのか?」
「いえ、そんな飲まないっすけど、まぁ、付き合い程度には」
目の前に、店員が生ビールのジョッキを二つ置いた。軽くぶつけて乾杯すると、それを喉に流し込んだ。キンと冷やされた液体が腹の中に落ちていくのを感じて、身が震えた。流川はそんな俺を眺めながら、こくこくと一口ずつビールを飲んでいた。
互いにぽつぽつと近況を話しつつ、肌で探るように時間を気にしていた。終電の時間などではない。二人きりになれる時間があとどれだけ残っているのか、ということだった。まだまだ話せることはあるというのに互いに沈黙したところで、流川が立ち上がった。その手にはレシートの挟まったバインダーを持っていて、慌てて奪おうとしたが敵わなかった。宙を掴んだ俺の手を、流川はもう片方の手で握った。節のある指が俺の指の股に差し込まれるだけで、馬鹿みたいになにもできなくなった。
メッセージの着信を知らせる音がラブホテルの部屋に鳴り響いて、我に返った。全身の酔いがすっと冷めていく。まるでこれ以上立ち入るなという警告音のようだった。
俺は部屋の入口で突っ立ったまま、スマホを取り出さなかった。その代わり、流川がスマホが入っている俺のポケットに目線をやった。
「三井さんってもしかして、今付き合ってる人いるんすか」
「……ああ」
観念したように呟いた。
高校を卒業した後、流川が自分にとって「特別」なのかどうか調べるためにいろんな女性と付き合った。可愛いと評判の子、自分を好いてくれていた人、逆ナンしてきた人。手当たり次第、「恋人」というものになってみた。
けれど、それはただ「恋人」という肩書きを手に入れただけで、本当に心動かされることはなかった。付き合っているうちに好きになっていくかもしれない、という希望も打ち砕かれた。結局、新しく付き合うたびに、流川が特別なんだということを色濃く思い知らされただけだった。
そうと分かってからは、流川を忘れるためだけの恋に切り替えた。何度も何度も塗り重ねれば、いつか流川のことも忘れられる。そう信じていた。今も、二つ下の女性に告白されて付き合っている。けれど、結局本当に恋をしたのは高校時代の流川、たった一人だけだった。
付き合っている人がいるのを黙ってここまで来たことを、流川は軽蔑するだろうか。
窺うように、隣を見る。流川は相変わらず深海のような瞳でまっすぐに俺の目を見た。
「俺も今、付き合ってる人いるんで、それなら良いっすよね」
「……は?」
「共犯」
俺が口を開く前に、手首が引き寄せられた。唇が重ねられ、隙間から舌が差し込まれる。流川の口の中は熱く、舌は柔らかかった。俺は溺れて必死に浮き木に掴まるみたいに舌を絡ませた。それだけで、俺の下半身は痛いほどに主張していた。酒など一滴も飲んでいないような硬さだった。
シャツの裾から流川の手が滑りこむ。掌が脇腹の肌の上を撫でただけなのに、俺は情けない声をあげた。乾いてひび割れた地面に水が染み込んでいくような快楽だった。
確かめるように流川のズボンに触れると、人体と思えないほど硬いものがそこにあった。流川も勃起するんだなぁなどと思うと少し可笑しかったし、自分と同じように興奮していることに驚いた。
流川の指が俺の着ているシャツのボタンを外す。焦っているのか、うまく外せないらしい。その様子が可愛くて、俺は耐えきれずに声を上げて笑った。流川はむきになって、ボタンを引きちぎるんじゃないかという勢いで引っ張った。俺も流川のシャツのボタンに手を伸ばしたが、指が震えて外せなかった。
ようやくボタンがすべて外されると、身体をドアに押しつけられ、剥き出しになった首筋を舐められた。全身が震え、腰が抜けそうだった。
きっとこの部屋を出た後、俺たちが「恋人」になっていることはないだろう。それは予感というよりも確信に近かった。
無我夢中で舌をむさぼった。そしてベッドにすらたどり着けないまま、ベルトがバックルから引き抜かれ、床に落ちる音が響いた。
(終わり)