夜の海(アシュフェリ)真っ暗な闇。寄せては返していく波の音がいつまでも経っても消えない。目を閉じると深い深いところまで沈んでいきそうな意識をゆっくりと浮上させる。
波打ち際から海を見る。月明かりだけがぽかんと浮かんだ海に、白い泡がぼこぼこと散っていく。夜の海は、少し怖い。なにもかも飲み込まれてしまいそうで。
海の泡となって消える人魚のお伽話を思い出す。あのお話の結末はどうなったのだろうか。
「フェリクス」
海に泳ぐ美しい人魚の名を呼ぶ。波打ち際で掌を海にかざす。月明かりの中、ひとつ高く高く影が立ち上ったかと思うときらきらと反射してまたすぐにばしゃりと水面を揺らす。
それきり静かになった。ざぶざぶと、海に入っていく。手を伸ばしてみるが届きそうにはなかった。
ぴちょん。
天井から雫が床に落ちて、小さく響く。
明かりも点けない中、三角座りをしたアッシュはそこが自分の家の浴室だと気づく。
「やっぱり、夜の海は嫌いだな」
怖くてたまらない。シャワーの栓をひねって冷たい水を出す。掌を十分に濡らして、そっと浴槽に手を伸ばす。ひたり、と。滑った冷たい体温が心地よく。どくどくといつの間にか早まっていた鼓動を静めていく。
首筋に手を当てるとざらざらとした不可思議な感触。きらりと反射して、鱗が何枚か落ちていった。
「寝ぼけているのか?」
浴槽の中に住まう人魚がこちらを見る。ひらりと落ちた鱗が浴槽内に浮かぶ。
「うん」
そうかもしれない、とアッシュは言った。浴室内の小さな窓からは街の明かりが漏れ出でていた。
「俺はどこにも行かない」
どうせ、どこにも行けないから。ばしゃりと尾びれが水面を跳ね上げた。