疲れた時はお互いさま「つるまるさん」
不意に名を呼ばれ、俺は顔を上げて振り向いた。
細く開いた戸がそろそろと滑り、ひょこっと半身が覗く。やっぱり加州だ。
穏やかな昼下がり。俺は書庫に篭って過去の出陣の記録を閲覧していたが、加州は手入れ明けにわざわざ捜しに来てくれたらしい。陽の光を背にしてこちらの様子を窺っている。
「いま忙しい?」
「出陣までまだ時間はあるが……、体の方はもういいのかい?」
「それはもう大丈夫なんだけど……」加州はチラリと廊下に目を遣ると、やけに慎重に敷居を跨いで戸を閉めた。「ちょっと、お願いが」
「お願い?」
歩幅もいつもより小さい。そんなに言いづらいことなのだろうかと考えて、もしや加州の言うところの『わがまま』の類かと思い至る。
驚いたことに、驚きすぎて逆に慣れてしまったほど、加州は肝心な時に俺に対して遠慮しがちだ。ここ最近は忙しくてすれ違いが続いていたし、わがままなんてむしろ大歓迎である。
浮き足立って待ちきれずに加州に歩み寄ろうとしたが「そこにいて!」と制止を食らってしまい、踏み出しかけた足は大人しく元に戻した。
さて、加州はようやく俺の傍まで辿り着くと、俯いたまま言った。
「……できたらでいいんですけど」
「ああ」
「その、ええと」
襟巻きを握り込む白い指をじっと見つめる。
「——ちょっと、ぎゅっとしてもらってもいいですか」
続く言葉はない。
返事も忘れてポカンとしている俺と加州のあいだに沈黙が生まれる。不安げな視線を受けて、やっと我に返った。
「……お願いってそれか?」
「うん」
加州はこくりと頷く。拍子抜けした俺は思わず笑ってしまった。
「あのな加州、そういうのはもっと気軽に言ってくれていいんだぜ? お願いとかじゃなく」
「都合とか気分とかあるかなって……」
「時と場ときみさえ許せば四六時中そうしてたって構わないぞ、俺は」
はあ、と溜息をついたが、まあ今に始まったことではない。
しかし何だ。
そんな加州が、抱きしめてくれと。
「まったくきみは……」
俺は熱を持った頬を誤魔化すように片手で顔を覆った。しばしば加州から燃え移ってくる炎は、時に年の功をも焼き尽くしてしまいそうで非常に困る。それを気合いでどうにか鎮め、俺は両腕を広げた。
「ほら、おいで」
優しく笑いかけて促す。
「……うん」
おずおずと近付いて、加州は俺の肩口にぽすんと顔を埋めた。両腕で包み込むと、俺より小柄な痩身は誂えたかのようにぴったりと収まった。何やら甘くて瑞々しい香りがして、柔らかな黒髪に鼻先をうずめてみる。美味そうだ。
加州は躊躇いがちに俺の背へと腕を回してきたきり動かない。
「出陣続きでお疲れかい?」
返事は期待せずに訊いてみたら「んー……」と喉を鳴らしたような声が返ってきた。
訥々と語られたことを要約すると、ここ一週間、限りなく実戦に近い演習場への出陣を繰り返していた。槍の攻撃がどうしても躱しきれず、怪我を負って帰城しては急いで修理されてまた出陣。己の不甲斐なさに腹が立つやらボロボロになった姿に気が滅入るやらで流石に堪えた、と。
戦場には一番可愛くして行きたい、と出陣前は特に念入りに『お手入れ』をしているのを知っている。どんなに戦闘で汚れるのを覚悟していても耐え難いものはあるのだろう。
「頑張ったな」ゆっくりと頭を撫でてやる。
「しばらくまともに会えもしなかったしなあ。帰城してもすれ違いばっかりで」
「……会わないようにしてたし」
「えっ、寂しいじゃないか」
「可愛くないとこ見られたくないから」加州はくぐもった声で言った。「我慢してた……」
「我慢」
すかさず復唱する。ただ何の気なしに口に出しただけだったのだろう加州は「え、あっ」と遅れて動揺しだした。我慢ということは、つまり。
「……本当は会いたかった?」
ややあって、加州は小さく頷いた。
「そ、そうか」
じーんと胸が熱くなる。この手の甘えるような台詞は普段なかなか聞くことができない。加州には悪いが疲労の蓄積に少し感謝してしまった。せっかく恋仲なのだから通常時にだって甘えてほしいものだが。
「たとえボロボロだって幻滅なんかしないし、可愛くないなんてことも無いんだからな。避けられるのはつらいなあ」
「……ごめん」
「今後はないように頼むぜ?」
「善処します」
ふふ、と小さな笑い声が聞こえた。いくらか元気にはなったようだ。
触れた場所から溶け合った体温が身体中に染み渡っていく。
ここは公共の書庫で俺は出陣を控えている。自室に連れ込んであれこれしている時間も余裕もない。身勝手な欲求のために刀の本分を疎かにしてしまったら本末転倒だ。
——けれど、明日からまたしばらく触れられないと思うと。
「ごめん、ありがと」と離れようとする加州を、脳内で言い訳を重ねながら更にぎゅっと両腕に閉じ込めた。
「ちょ、鶴丸さん?」
「……もう少しだけ、このままで」
驚いたのだろうか、加州は何も動かずにいたが、やがて突っ張りかけていた腕を再び俺の背に回した。今日出陣したら、おそらく昨日までの加州よろしく戦場と手入れ部屋との往復生活だ。加州もそれは分かっているのだろう。
「今のうちに補給させてくれ……」と先程とは打って変わって弱音を吐く俺の背をぽんぽんと優しく叩きながら、「出陣がんばれ~」とゆるい調子で激励してくれた。
「間違いなく強くはなるよ」
「やり方は考えてほしいけどな……」
「ほんとそれ」二振りで苦笑いを共有する。
離れ難くて仕方ないが、俺は加州の髪をぐしゃぐしゃとかき乱して額を擦り寄せると、「よし!」と己を鼓舞して加州を解放した。
「引き留めて悪かった」
「おじゃましたのは俺の方だし」
手櫛で髪を整えながら加州は微笑んだ——と思ったらすぐに真剣な顔になって「あのっ」と続けた。
「今日の恩は必ず返すから。帰ってきて何かご要望があれば、何でも言って」
「何でも?」
「俺にできる範囲でだけど! 考えといてね」
じゃあ出陣頑張って! と加州は胸の前で拳を力強く握ってみせた。
出陣記録を棚に戻しながら恩返しについて考える。「ぎゅっとして」に続いての進歩は大変喜ばしいが、その言葉につけ込んで色々されるかもしれないのに些か不用心じゃないか? 俺があんまり悪人ではないからよかったものの。借りとか貸しとかの発想もなかった。
「何でも、なあ」
まずは気合いを入れて出陣して誉を驚くほど獲って、強くなって帰ったら、——ご褒美の意味もちゃっかり込めて、今日の続きをさせてもらってもいいのだろうか。
俺は昼寝から目覚めた猫のように大きく伸びをして、息をついた。
たぶん加州にとっても悪い話じゃあないだろう。