タビコに髪を切ってくれと頼まれた。いつもは自分で切っているが今はこの通り不自由だからと、タビコは数日前に折った右腕を三角巾ごと掲げてみせる。
「いつもは自分で切っている??」
「そうだ。意外と簡単だぞ」
新聞紙を床に広げてその上に食卓の椅子を持ち出したタビコはなんでもないように言う。
「側面は耳がでる長さで、前髪と襟足は眉と項が隠れる程度。あとは任す」
「任すって…髪は女の命だろう」
はぁ?と顔だけで言ってくるタビコに黙らせられる。
「髪で仕事をしている訳でもなし、邪魔にならなければなんでもいい」
穴の空いたゴミ袋をがさがさと被ったタビコは玄関から姿見を持ってきて椅子の前に置いた。
「怪我が治ってから自分で切るなり、理髪してもらうなりできんのか?」
「今切りたいんだ今」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしり出したタビコに困り果て、わかったからやめろと言うしか無かった。とりあえず櫛と霧吹きを取ってきて見よう見まねで鋏を手にしたはいいものの、どこから手をつけていいのかわからない。
「さほど伸びてはおらんではないか」
「いや、目に入る」
「前髪だけなら何とかなりそうだが…」
「どうせなら一気に済ませたい」
説得は諦めて「苦情は受け付けんぞ」と一思いに鋏を入れると思った以上にざくざくとした切り心地がして取り返しのつかないことをしでかしたんじゃないかと不安になってくる。タビコはくすくすと笑っている。
「…何がおかしい」
「いや、お前が戸惑ったり困惑している所は至極だなぁと思って」
「鏡には写っておらんだろう」
「見えなくったってわかるさ」
背筋に冷たいものが走って鏡に写った。「なに尻に力入れてるんだ?」と聞かれるが無視して散髪に専念する。
後頭部はなんとか見苦しくない範囲におさまった。元々伸びた分を切ればいいだけの話だ。私にかかれば造作もない。我が家の庭いじりを思い出しながら切り進んでいくと持っている鋏も剪定鋏のように思えてくる。そういえば庭の柘は元気だろうか?そろそろ形を整えてやらねばなるまい。
今度は側面を切ろうと鏡を見るとタビコは下を向いたままうたた寝をしていた。「タビコ」と呼びかけ両方のこめかみを人差し指で固定する。
「動かれては手元が狂う。少しの間起きていろ」
「いやーなんだか気持ちよくてな」
ふにゃふにゃと笑うタビコは珍しくて拍子抜けする。お前、刃物を持った吸血鬼が背後に立っているのだぞ?もっと緊張感を持ってくれ。
「お前だからいいんだ」
タビコはふにゃふにゃと続けて、私は思っていたことが口から出たのかと驚いた。だがタビコの言葉の続きらしく、「お前だから気持ちいいんだ」と付け加えた。
「そんなこと余所で言うんじゃないぞ」
耳の上を切りながら私は答えるとタビコはぐるりと横を向いて、その弾みで鋏を落としそうになった。
「切ってる最中に動くんじゃない!」
「お前、私がこんなに隙を見せているのにひと噛みもしないのか?!」
「はあ?????」
「据え膳だ!」
「はあ???お前自分が何を言ってるのかわかっているのか??」
「百も承知だとも!まったく吸血鬼の風上にも置けないやつだな!」
「退治人としてその発言はどうなんだ!」
「うるさい!吸え!」
左腕を捲し上げたタビコが毛まみれのまま近づいてきて私は逃げた。一目散に逃げた。1匹の鴉になって窓に向かったがいいものの、風が入らぬよう締め切っていた窓ガラスに激突した。嘴が折れたかと思った。しおしおと人型に戻った私を息切れしながらタビコが見下ろしてくる。
「そんなに嫌か」
「いや、いやというほどでも…」
なぜだかこっちが申し訳なくなる。
「じゃあ何でだ!」
「声が大きい…」
嫌とか嫌じゃないとか以前に、吸うという選択肢がなかった。そう言ってしまえばもっと怒らせそうでシチュエーションがとか、合意がないととか、言ってみるがタビコは憮然としている。
「…とにかく散髪を進めていいだろうか?」
左右非対称のタビコを見ていたたまれなくなる。
「終わったら吸うか?」
「…掃除が終わったらな」
辺り一面に散らばった髪の毛を見ながら言う。
左右の側面を切り終え、前髪を整える。切り終わったあとのことを考えるに気が重くて可能な限り時間をかけて切っているとしびれを切らしたタビコに唇を奪われた。細かい髪の毛が入り込んだ最悪なキスだった。