タツリュウ②風呂で汗を流したというのに、廊下の蒸し暑さで汗がまた噴き出してくる。一番風呂はミユと決まっていた。そのあとは俺か母さん。そして最後に兄貴が入る。なんとなくそれが清洲家のルールのようになっていた。今日は俺が三番目に風呂に入ったから、次は兄貴だ。風呂が空いたことを知らせるために、熱気の篭った短い廊下を歩いている。あぢぃとボヤきながら歩いていけば、すぐに兄貴の部屋の前にたどり着く。ドアの隙間からは冷気が漏れて出ていた。
あれから兄貴が志望校をどうしたか知らない。家でそんな話題にもならないし、俺も俺でなんとなく訊くことができなかった。兄貴に対峙する度に、今日こそは訊いてやろうと思ってはいる。それなのに出てくるのは、今日は暑いなとかあそこの饅頭が美味かったんだせとかそんなどうでもいいことばかり。それにふわりと笑いながら、そうかと返してくれる兄貴が無性に好きだった。
今日こそは、今日こそは志望校を聞いてやる。もうすぐ夏休みなのだ。そろそろ決まっているはずだ。意を決して兄貴の部屋のドアノブに手をかける。
「兄貴、風呂空いたぞって、あれ?」
勢いよくドアを開けたが、そこに兄貴はいなかった。兄貴の部屋はクーラーが効いていて、無駄に熱が篭っていた俺の体を冷やしていく。勉強机に目を向ければ、問題集やシャーペンなどが出しっぱなしだ。トイレにでも行ったのかもしれない。その問題集やシャーペンに混じって、何気なく置いてある赤本が目に入った。
「タツミ?どうした?」
「あ、兄貴っ!」
赤本に釘付けになっていると、いつのまにか兄貴が戻ってきていた。その手には麦茶が握られている。
「風呂空いたから」
「わかった。ありがとう」
麦茶を勉強机に置き、兄貴は風呂に入る準備を始める。こんな会話も、もしかしたら次の春にはできなくなるかもしれない。それを想像するだけで耐えられない。どうか何かの間違いであってくれと、兄貴の背中に向かってあのさと呼びかける。
「どうした?」
「兄貴は、A大学受けるの?」
俺がそう問い掛ければ、兄貴は一瞬動きを止めた。その一瞬を俺は見逃さない。
「A大学の赤本あったから」
「買ってはみたが、まだ受験すると決めたわけじゃない」
本人はそう言っているが、兄貴の机に名古屋の大学の赤本や資料は一切ない。きっともう兄貴は決めてしまっている。
「俺は兄貴が家を出ること、反対だから」
「タツミ?」
「兄貴と離れるなんて嫌だ」
振り向いた兄貴に向かって、俺はそう言いきる。
「空手もシンカリオンの運転士も一緒にやってきたじゃん。これから先も俺は兄貴と一緒にいたい」
兄貴が空手をしていたから、俺は空手を始めた。兄貴がシンカリオンの運転士をしていたから、俺も運転士になった。あれもこれも兄貴と一緒にいたいから。兄貴の隣にいたいから。だって俺は兄貴のことが…。
「好きなんだ」
「なんだ、突然」
「家族とか兄弟だからじゃなくて、俺は清洲リュウジという一人の人間として兄貴が好きなんだ」
俺の告白に兄貴は目を丸くしている。そんな兄貴に触れたくて、だからと手を伸ばす。しかし、兄貴に触れる前に、その手を取られてしまった。さっきまで丸くなっていた兄貴の目が、真っ直ぐ俺を見つめている。その真っ直ぐすぎる目が自分だけに向けられることをあんなにも望んでいたはずなのに、なぜか目を逸らしてしまう。
「俺はお前のことを、弟として大切に思っている」
そして告げられたのは俺にとって最も残酷な言葉。聞きたくもない言葉。
「やっぱり俺は家を出るべきだな」
「えっ?」
続く兄貴の言葉に、俺の身体が固まる。
「俺たちは近くにいすぎたんだ。家でも空手道場でも超進化研究所でも」
「そんなことっ」
「俺に対する執着を恋愛感情と勘違いしているだけだ。いい機会だから俺たちも少し距離を取ろう。そうすれば、冷静になれる」
「ふざけんなっ!勝手に決めつけんじゃねーよっ!」
俺は兄貴の手を振り払い、勉強机に置いてあった赤本を投げつけた。
「小さいときからずっとずっと兄貴のことを見てきたんだ。ずっとずっと兄貴のことを追いかけてきたんだ。それは兄貴のことが好きだから。俺はずっと兄貴の隣にいたいんだ!」
そこまで言い切ったところで、タツミと兄貴に名前を呼ばれる。恐る恐る兄貴へ視線を送ると、いつにもなく優しい顔の兄貴がいた。
「俺たちはもう高校生だ。そろそろ大人になろう」
まるで駄々をこねる子どもを諭すような口ぶりに、俺は怒りで震えが止まらなくなった。
「兄貴のバカっ!わからずやっ!もう勝手にしろっ!」
そう言い捨てて、俺は兄貴の部屋を飛び出した。