リップクリーム/キラ門 目の前の尖った下唇に指を押し当てる。この男の唇は薄く、それは舌や耳と同じで、どことなく頼りない。指先に少し力を入れると湿った粘膜が見え、放すとぺこんと上唇に被さるように戻った。半刻前までは必死に吸い付いて舌を捻じ込んでいた隙間も、仮寝から覚めたばかりの頭では乾燥ばかりが妙に気に掛かる。薄皮を剥いたら痛がるだろうか。意地悪をしたいような、怒られたくないような。寝こけている呑気な顔を眺めながら唇に触れる。薄くて柔らかくて、どことなく可愛い。冴えないジジイのくせに。唇の裏に走る細い血管に微かな欲情を覚えた頃、唸るように喉を鳴らしたので指を離した。片目が薄く開いてキラウㇱの顔を捉える。
「……何してんの……」
わざわざ説明するほどの事でもない。
「乾燥してる」
それだけ伝えると、門倉はしばらくキラウㇱの口元を眺め、それから同じように指を伸ばしてきた。色気の欠片もない触り方でキラウㇱの唇をぐいぐいと揉み、歪ませる。
「お前も乾燥してる」
三寒四温の季節、まだ雪も溶け残っている。そういう季節だ。割れて血でも滲まないかぎり自分ではあまり気にならない。しばらくキラウㇱに触れていた指が遠ざかり、ずるりと炬燵から出ていった。いつのまにか寝てたなと伸ばした腰がばきばき鳴っている。隣の温度がなくなって、身体の一部をゆっくり引き剥がされたかのように寂しくなった。洗面所へ向かう靴下を見送って目を閉じる。心底好いて甘えてしまっているのだと自覚するのは未だに恥ずかしい。
程なくして、戻ってきた門倉が頭の近くに腰を下ろす気配がした。瞼の向こうが陰り、髪を掻き分けられる。そういえばヘアバンドはどこだろう。寝てる間に外れたのか。されるがままになっていると何かが唇に触れた。指ではない、ぬるりとした不思議な感触。微かに清涼感のある香り。それがキラウㇱの唇の上をじわじわと移動していく。
「ん?」
瞼を持ち上げると、存外真剣な顔で覗き込んでいる門倉と目が合った。
「何してるんだ」
「んー……あれよ、リップクリーム。ほら、口閉じな」
言われるままに唇を結ぶとリップクリームが塗りたくられる。念入りに下唇、それから上唇へ。口角からはみ出してべたべたする。
「ほらよ」
心なしか満足そうな声だ。天板に置かれた緑色のリップクリームは詳しくないキラウㇱでも知っている。
「リップクリームなんて持ってたんだな」
「職場で割れてさぁ……あんまり痛々しいっつって部下が買ってくれたの」
「でも使ってないだろ」
「俺みたいなジジイがこんなの塗ってたら気持ち悪くない?」
「別に。血が出てるよりマシだ」
「あ、そぉ?」
でもべたべたするの嫌なんだよな、とキラウㇱの髪を手櫛で漉く。こっちはべたべたにしたくせに。このままキスのひとつでもしてやろうかと頭をよぎったが、身体を起こすのが面倒でやめた。這いずるようにして門倉の膝に頭を乗せる。
「甘えてんの?」
返事はしない。唇に張り付いた髪を取り除く指が優しくて目を閉じる。出しっぱなしの湯呑みに手を伸ばす気配がした。