参どこかで猫が鳴いていた。
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お山のお稲荷さまに童だけで行ってはならんよ。
童はまだけがれがないから、お狐さまに好かれてしまう。
お狐さまに連れて行かれたらもうこちらへは戻ってこれん。
もしお狐さまに手をひかれたら
──を探しなさい。
そうすれば戻ってこれるじゃろうて。
真純は先日死んだ老婆の言葉を思い出していた。庭に一本の柿の木がぽつんと立っているだけのもの寂しい家に、老婆も独りでぽつんと住んでいた。屋敷から寺子屋までの道すがらにその家はあり、真純は時折干菓子などを貰いながら老婆の独り言のような話を聞くのが好きだった。
ある日、老婆はお稲荷さまの話をした。川向こうのお山の麓にある小さな稲荷社のことで、その社には真純も兄と訪れたことがあった。細い参道を兄に手を引かれ覚束無い足で歩いたことを覚えていた。連なる真っ赤な鳥居と白い石畳。厳かな気に包まれた真純が足元の影の正体を見上げたとき、眼に映ったのはぎょろりと睨むお狐さま──
あの日、狐に怯え泣き出した真純を抱えた兄は参拝を諦め家路についていた。まだ早かったかなぁと笑いながら呟く兄が不思議であった。あの場所は真純にとってどうしても怖ろしく重々しく、そして 霊びな処であったのだ。
老婆の言葉を思い出した真純は、しかしひとりで社に向かった。あの頃より背も伸びた。足も速くなった。きっときっと怖くない。連れて行ってくれた兄ももう家を出て行ってしまった。だからひとりで行ってみよう。
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神社へと続く石段を上ればあの時と同じ白い石畳の参道と朱に塗られた鳥居が出迎えた。
よく晴れた昼間であった。
人気は無く虫と鳥の微かな声だけが風に乗り聴こえていた。
参道の端をそろそろと歩き、途中にあった小さな手水で手と口を濯いだ。鳥居を一つまた一つとくぐっていく。時折、木の葉の揺らぐ音に心の臓が跳ねたが、どうにか小さな社──拝殿の手前まで来た。頭の先に麻縄で作られた鈴緒がぶらりと垂れ下がっている。腕を伸ばし鈴緒を前へ後ろへと揺らした。
そうすると鈴はカランコロンと涼しげな音で鳴り、真純はようやく安心を覚えたのである。
賽銭は持ちあわせていなかったが、一礼二拍手……と心で唱えながら小さな手をぱんと合わせた。とくに願い事は無かったが、ふと老婆の最後の言葉を思い出し、(ちゃんとお家へかえれますように)と唱えておいた。
頭を下げて一礼すると、体がすうっと軽くなったように思えた。後ろへ振り向き、昔怯えていたお狐さまの居る方を見た。少し遠くに見えるお狐さまは、記憶にあるそれよりも小さく見えた。なんだ、やっぱり怖くないじゃないか。
一度そうと思えば不思議なもので、今度は知らないところを知りたいと思うようになった。
拝殿の後ろへと回ってみると、拝殿とさして変わらぬ大きさの本殿があった。本殿の扉は閉じられており、その中に神さまが居ると云われていても、当時の真純にはただの小さな建物でしかなかった。
ふと、本殿の裏に草が茂って判りづらいが、人の歩けるような道が一本伸びていることに気がついた。裏参道であろうか。真純はその道を迷いなく駆けた。
裏参道かと思った小径は山の方へと続いていた。段々と傾斜がきつくなり、流石に汗が滲んだ。もう辺りは人の手が入らぬ木々や石ばかりで、木の葉が掠れる音、鳥や虫の声もどこかよそよそしく、自分が吐く息が取り残されたように大きく聴こえている。真純は気づかぬうちに、何か正体の知れないものに山の奥まで誘われているのではないか、という感覚に陥った。
──お狐さまに連れて行かれたらもうこちらへは戻ってこれん。
怖いもの知らずは束の間のことであった。老婆の言葉が頭をぐるぐると回りだして、いよいよ真純は泣きそうになった。それでも人の歩くような道は紐のように細く長く続いている。襲ってきた心細さから後ろを振り向くことも、道を戻ることも出来ず、足元を見ながら道を外れないよう進むしかなかった。
今となれば、知らぬ山の中、しかも子供の足であるからひどく遠くに思えたのであって、神社から歩いた距離は十町もなかったであろう。とにかく、真純がようやく開けたところへ出たのは、泣くまいと噛みしめていた唇が綻びそうになったときであった。
そこには大きな岩だけがあった。真純の背丈の倍はあろうかという、妙に鋭さのある岩であった。ぐるりと巻かれているのは白い注連縄で、それだけが新しく、子供ながらにちぐはぐな印象を覚えた。
そのような岩を真純は朧げに知っていた。確か、いわくら、と言ったはずだ。磐座は神さまの依り代として祀られているものだと、教えてもらったことがある。
やはり此処は神さまの通い路なのだろうか。眷属のお狐さまに見つかってしまうと、家に帰れなくなってしまう。何とかして誰にも見つからないようにこっそりと山を降りなければ──真純がそう考えたとき、一際強い風が吹き、辺りの木々が一斉に騒めいた。
「ひゃっ─!」
ざざざ、と無数の葉が立てる音が獣の笑い声かのように聴こえ、その恐怖から真純は耳を塞いだ。風は尚も続き背を執拗に追いかける。地面へと倒れ込んでしまいそうであった。足が絡れ、くらりと視界が弧を描く。
とん、と手のひらに冷やりとしたものが触れた。瞑っていた目を開ければ、つるりと艶やかな岩肌が見えた。風の勢いに耐えきれず支えとしてしまったのが、この磐座らしかった。
陽の差し込まぬところでもないのに、岩は夏になろうとしている今でも湧水のように冷たく、鬼気森然とするものを覚え肌が粟立つ。
真純が岩から手を離し早々に立ち去ろうと決めたとき、先ほどの風の名残りで舞い上がっていた木の葉が一枚、ひらりと注連縄へ触れた。
瞬間、まだ白く新しかった注連縄がぷつりと切れた。
ふわりと、身体が浮くような感覚が襲った。階段を踏み外してしまったときのような、腑を蛇が這う嫌な気分であった。真純は奥歯を噛み締めながら、注連縄が地面へ落ちていくのをじっと見ていた。それは正しく蛇の抜け殻のように力無く土の上へ横たわった。
「おや? ずいぶんと小さい子だな」
突如、頭の真上から声が降ってきた。
それは柔らかく、温かく、穏やかなものであった。
見上げると、岩の上に男が座っていた。今まで誰も居なかったはずであるのに、まるで初めからそこに居たかのように、男は悠然とした表情で真純を見ている。
「君がこれを解いたの?」
そう訊ねる男は江戸の人間にしては変わった髪の色をしていた。淡黄に染め上げられた絹糸が木漏れ日を拾いあげるように輝かしく煌めいている。まるで母の髪のようだと真純は思った。
「ぅ……」
母の顔が頭をよぎったとき、これまで堪えていた不安や恐怖、得体の知れない奇怪な感覚へのざわめき、そういったもの全てが強く結んでいた唇から洩れて押しころし損ねた嗚咽となって溢れ出した。
「うっ……ふぇ……」
大声は上げるまい。それは真純が幼いながらも持つ矜持であった。漏れ出そうになる声を必死で抑えようと息を飲み込むと、喉がひっくと震える。そうして何とか喚き泣くことを耐えた代わりに、眦からは大粒の涙が溢れてしまうのは真純にはどうしようもないことであった。
「ええぇ……」
男は目の前にいた幼な子が突然肩を震わせてぽろぽろと涙を零し出したものだから、流石に状況が掴めないといった表情で困惑の声を上げた。
「参ったなぁ」
ふわりと何か風のようなものに優しく肌を撫ぜられ、真純は面を上げた。岩の上に居た男が音もなく真純の元へ降りてきていた。肌を撫ぜたのは、ゆったりとはためいた男の着物だったのだろう。今までに触れたどんな薄絹よりも軽く柔らかで、まるで天の羽衣のようだと真純は思った。
「泣くのはおよし。捕って喰ったりしないから」
男はあやすように囁いた。袖で目元の涙を拭うと、眉を下げて困ったようにこちらを見下ろす男の顔が見えた。
男は背が高かった。六尺はあるだろか。真純の兄たちと勝るとも劣らずの上背で、男の顔を見上げようとすれば涙が耳の方へ伝っていった。
「君がこの縄を斬ってくれたんだろう? 礼をしようと思っただけだから、怖がらないでいい」
「なわ…?」
心細さと恐怖が一度決壊してしまった今、真純の頭は上手く働いてくれなかった。男が誰で何を言っているのかよく解らず、男の言うことを一つひとつなぞっていく。
「これのことだよ。斬ってくれたんだね」
男は岩の側に落ちていた注連縄をどこか慎重な手つきで持ち上げ、少し手で弄ぶように触ってから不意にぽとりと落とした。
「ボク、きってない……葉っぱが、」
「葉っぱ? 君、この岩に触れてただろう?」
「え…ちょっとだけだよ」
ほんの刹那、風に押されて転ぶように岩に手をついてしまっていたが、岩の冷たさにすぐ手を離したではないか。それを言うと、男は垂れた眼を丸くした。
「はぁ、こんな小さいのに凄いね。……いや、むしろ小さいから出来たのかなぁ」
男は独り言のように呟くと自分の座っていた岩の方へくるりと向いた。
そうすると男の背中側が少し見えるようになる。夏だというのに綺麗な羽織を肩にかけている。男は全く涼しい顔をしていたが、その腰の方でそよそよと揺れているものは随分と暖かそうであった。
なんだろうこれ?
真純は目の前で揺れる毛の塊に呆気に取られていた。色は男の髪と同じで、艶やかに波打っている。犬がよく付けているもののように見えるが、真ん中あたりは犬のそれよりもふくよかに膨らんでおり、毛先の方でようやくピンと纏っていた。今日日、江戸中を探してもこれほど立派な毛皮は見つけることすら出来ないだろう。
いや、そういうことではない。これは
「しっぽ……」
ぽつんと呟いた真純に男はあぁと思い出したように背中の方へ視線をやり「よかった、減ってない」とひとりごちた。
ようく見れば、男の頭にも何かとんがったものが付いている。陽の光の色の頭に気を取られて気づかなかったが、それは三角の形をして毛に覆われている、獣の耳であった。
金色の耳と尻尾。真純の中ではた、と老婆の話と男が繋がった。
「お、きつね…さま?」
「うん? ……あぁ、そうだよ」
尻尾までちゃんと見えてるんだ、ほんと凄いねぇと男は感心したようだったが、真純は少し前の男の言葉で頭がいっぱいになっていた。
──捕って喰ったりしないから。
とって! くったり!
「…ふっ……うっ……ぅうう」
「えっ!?」
ぶり返した恐怖で止まっていた涙を再び溢れさせた真純に男──お狐さまは一体何なんだと慌てたようにしゃがみ込む。
「ええと……あそうか、僕のこと妖怪だと思ってるのか」
真純が再びしゃくり上げている間、男はどう説明したものかと頭を捻っていた。真純は真純で当の狐本人に何と言えば見逃してもらえるだろうか、お礼とか言っていたけれど、やはりこのまま家に帰してもらえないのだろうかと不安が渦巻くのが止められず、男が何とも言い難い顔をしてこちらを見ていることに気づかなかった。
「僕は…この神社の神さまにお仕えしているんだけど。お仕えってわかるのかな。……つまり、狐だけど野狐みたいに悪いことや怖いことはしないから、安心おし」
慌てたように男は言葉を組み立てたが、泣きじゃくる真純の耳には大して伝わっていない様子だと解ると、ううんと少し考え
「ええっと、君のお名前は?」と訊いた。
「っう……ます、み……」
真純は自分へ向けられた問いにびくりとしたが、嗚咽の合間に答えた。この時母に言われていた教えは頭から消え、答えなければ狐を怒らせてしまうかもしれないという思いからであった。
「そう、良い名だね。何と書くのかな? 平仮名かな」
男は更に優しげな声を出し、真純はふるりと首を横に振って傍らに落ちていた木の枝で地面に字を記す。
「へぇ、真にけがれ無し、か。良い字を貰ったね」
この名は大切におし、とそれを見た男は目を細めた。
嗚咽は知らぬ間に止まっていた。男の向ける言葉が徐々に真純の内へと沁み渡り、真純は少しずつ頭が働くようになってきていた。
「真純、歳はいくつ?」
「……ご…、あ、もうすぐろく…」
「そう。此処へはひとりで来たの?」
「……うん…」
どうやら直ぐに連れて行かれるわけでもなさそうだと、真純は頭の中がしゃんとしてきたのを自覚する。
「でも、家には母さまがいるの」
「? うん、そうか。なら心配させぬうちに帰らなきゃね」
「……帰ってもいいの?」
「え、うん、そりゃあね。……もしや迷子だったのかい?」
男は少し眉を下げたが、真純は今度は勢いよく首を横に振った。
「まいごじゃないっ、帰れるっ!」
「あぁ、なら良かった。僕はまだ此処から離れられないから……あ、そうだ、帰す前にお礼をしなきゃいけなかったんだ」
「お礼、いらないよ?」
そもそも真純は手を僅かに触れただけであり、その時も少し怖いと感じてしまったのだから、何か礼をという男に多少むず痒い気持ちにもなっていた。
「それがそういう訳にもいかなくって。僕らの理では、借りにはそれなりの礼をして返さないといけないんだよ」
「ことわり…?」
「決まりみたいなものだよ。しかも今回は数百年ものの封印だからなぁ……おそらく一生ものの礼に相当するぞ……」
最後は殆ど男の独り言のようなものであった。それを聞く限りどうやら真純がこれから一生を全うするまでの礼になるということだが、そんなことを急に言われても幼い頭で思いつく筈もない。
「嫌いな人間を祟るとかなら……数世代ぶんで済むか?」
物騒な言葉が聴こえた気がした。
「嫌いなヤツはいないよ! いじわるされたら蹴っとばしてやるから!」
「ほぉ、元気なことだ。では例えば……後々出世したいとか?」
「出世……? ボクは女だから、母さまはいつかお前もとつぐんだ、って言ってるよ」
「……ごめん、君女の子か」
目覚めたばかりで眼がちゃんと働いてないみたい、と男は言い訳のようなものをして、そして気を取り直したように真純へ向かい合った。
「では、嫁ぐか」
「……?」
「君を大きくなったら娶る。そうすれば間違いなく不幸にしないことは約束する。これなら一生分の礼を返せるけど、どう?」
めとる、とは何だろうと思ったが不幸にしないという言葉は嘘ではないと思えた。
「……ボクをくわない?」
「喰わないよ」
「じゃあ、めとる? それにする」
「……よし、では決まりだ。……流石にまだ小さいし、契りは干支がひと回りした頃に結ぼうか」
「……うん?」
実のところ、男が何を言っているのかよく分からないまま頷いてしまっていたが、兎に角これで家へ帰れるのだと心が逸った。
「さて、ではそろそろ帰ったほうがいい……帰り道も一人か?」
「うん……」
早く帰路に着きたかったが、そう訊かれるとあの細い道を一人で歩く恐怖が舞い戻ってきた。
「……送ってやりたいけど、どうしようかな」
真純の声が萎んでいったことに気づいたのであろう。男も何か迷っているようだった。お狐さまに連れて行かれると恐れていた道を、そのお狐さまに送ってもらうのも奇妙だなと真純の頭は勝手呑気に考えている。
がさり。
そう頭を悩ませていると、岩の後ろから草をかき分ける音がした。てっきり二人(?)きりだと思っていたその音に真純の心の臓は飛び上がった。
「わぁっ!」
真純の膝ほどまで伸びた草から出てきたのは、一匹の大きな三毛猫であった。真純は音の正体が他の狐でも人でも無かったことに胸を撫で下ろす。
「ひ……」
男は猫を見るや、驚いた表情とそして何よりも嬉しげな表情をして何かを口にしようとしたが、その時猫がひと鳴きして口をつぐんだ。
「……そうか、……真純、君の家の近くまでこの猫が一緒に行こう。それなら安心だろう?」
狐は猫と会話が出来るのだろうか。突然現れた猫は男のその言葉にもうひと鳴きし、真純の足元へ擦り寄ってきた。
「ねこ……」
「猫は平気?」
「うん……好き」
真純が答えると猫は嬉しげに尻尾を真純の脚へ絡ませる。そうして真純が登ってきた道を先導するように背を向け歩き出した。
「さ、一緒にお行き。日が暮れる前には送り届けよう」
「うん」
真純は首だけ振り向いて待っている猫の後を追う。男とその後ろの岩に背を向けたとき、この不可思議な空間から離れるのだと本能に近い部分が理解したが、それが何故か少し寂しいことだと思った。
「では十二年後に迎えにいこう」
男の声は風に舞い上がり、真純の耳へ届くことはなかった。
真純は猫と共に神社に続いていた石段を駆け下り、小さな川を渡った。途中、あの老婆が住んでいた家の柿の木が見えた。もうすぐ家だ。あと角を一つ二つ曲がれば住み慣れた家に続く道が見えてくる。陽はまだ高く、真純は早く母の腕の中へ飛び込みたいという思いで足が急いた。猫は真純が小走りになろうと静かな顔で着いてきている。
屋敷の瓦屋根が見えたとき、真純はようやく脚を止めた。息が切れ喉がからからに渇いていた。足元の猫にもう大丈夫だと言えば、猫は人の言葉も理解するのか、真純の脚に身体を擦り寄せ、短く鳴いて反対の方向へと帰っていった。
真純は中の口から家の中へと入った。使用人たちは忙しなく働いている中、次々と真純へ声をかけてきたが、いつものように返している余裕もなく母の姿を探す。
「母さま!」
陽の光を存分に浴びて煌めく母の髪を見つけ、真純は普段走らぬように言われていることも忘れ廊下を駆け走った。母は真純の立てる足音に眉を吊り上げて叱ろうとしたが、その前に真純は母の胸へと飛び込んでいた。
「母さま、あのね、」
真純が先ほどのことを母へと勇んで伝えようとしたとき、その記憶は真純の中からぷつりと消えていた。
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