弍──狐の嫁入り。
暗闇の向こうに怪火が連なり揺れる様をいつしか人はそう呼ぶようになった。
「嫁って、マ……あ、いや、母さまを!?」
「違う。面白い方向に勘違うな、君は」
狐は大きな耳をぴくぴくと動かして、そんな訳無いだろうと丁寧に否定する。
「違うの?」
「違うに決まってるだろう。というか、僕が娶りにきたのは君だよ」
気づいてなかったのかと狐は初めて呆れ顔を見せた。
「え、やだ」
「やだじゃない。……忘れているようだから後で話すけど、これは神約に近いものだから、やだでは済まないよ」
「しんやくって何だよ?」
「神との約束事」
「アンタは狐だろ?」
「だから近いものだと言っただろ。つべこべと言うならこのまま拐うぞ小娘」
「狐に小娘呼ばわりされる覚えはないよ」
「僕も狐呼ばわりされる覚えはないんだがな」
「気軽に名前呼んでもいいのかよ」
「呼ばれて怯えてた小娘がよくいう」
言い争いながらも狐は大きな牡丹が描かれた一際華やかな襖の前で足を止めた。一瞬、襖の前で何かを考えているような素振りを見せたが、そのまま襖が滑るように開いた。狐の腕は袖の下で組まれたままである。
中に居た母が襖を開いたのかと真純はまず思った。しかし目の先に閃いたものに、それは否定される。狐の眉間のほど近くに、母の構える薙刀の先が突きつけられていたからである。目にも止まらぬ速さであり、且つ吸いつくような正確さであった。
「おやおや」
膚から一分も離れていないであろう切先に狐は怯えるでも怒るでもなく、愉快そうにくちびるを歪ませた。この男はそういった 表情をよくする。
「狐か」
母が短く、そして刃の先と同じ鋭さで発した言葉に真純はぎくりとする。狐は気分を害した素振りもなく鷹揚に頷き「そちらはこの娘の御母堂ですか」と嫌に丁寧な口調に変えて問うた。
「化け狐の問いには答えん。が、こちらの問いには答えてもらおう」
「ほぉ、何でしょう?」
「今すぐこの家から去る気はあるか?」
「無い。無ければ、どうする?」
「言わん」
真純には母が何を案じ、何故頑なに狐の言葉に答えようとしないかがよく解る。狐が家を去る気は無いと答え、母がそのことにどう対処するかを口に乗せてしまったならば、この狐の前でそれは否応無く言霊となるのだ。母が「出ていかぬなら殺す」と答えたとき、相手の神格によっては怒りを買い母の命が危ういこととなる。
「何故そいつの背にいる。離れなさい」
名を呼ばれずともそれは真純へと向けられた言葉であった。母の視線は狐から一寸とも逸らされてはいない。
「離れなさい」
母の声に揺らぎはない。真純が元々この男は自分の居室の庭に現れここまで追ってきたのだと母へ伝えようとしたとき、狐が袖をはためかせた。
「その必要はない」
庭で最初に聴いた、鈴のように清らかな声色であった。幾度も口に乗せていた面白がるような色は消え、ただ清冷たる声が響く。
「この娘のことで僕は此処へ来た。去る気は無い。この家の者へ害を加える気もない。──その刀を下ろせ、人の子」
最後は紛うことなき、言の呪であった。構えた体勢からぴたりと刃先を動かすことのなかった母が、ゆっくりと刃先を床へと下ろしたのだ。母の目は未だ狐を睨みつけたままであったが、穂が畳へと触れ、柄も手から離れ落ちる。
「良いでしょう」
そうして狐は落ちた薙刀の穂を二本の指だけでひょいと持ち、危ないのでしまっておきますねと言い、──消した。
「えぇっ!?」
「話の間預かるだけだ。後で返すよ」
真純が驚いたのはそういうことではないと言えば、一体何に驚いたのだと問い返される。
「ええと…今の妖術ってやつ?」
「少し違うけど、人から見れば同じようなものかな」
「怪しなんだろ?」
「さあ?」
「さあ? って──」
「九尾の狐、話とはなんだ」
痺れを切らしたかのような母の声が割り込んだ。母の方へ視線を向ければ腕を組みこちらを睨んでいる。
「娘のことで来た──確かにそう言ったな。なら、とっとと話をしろ」
「ああ、けど昔話もありますし女性を長く立たせるのも本意ではなくてね。……奥の座敷をお借りしても?」