Drop it 前編「もうホームズ気取りの探偵ごっこは辞めろ」
きっかけは降谷のその一言だった。
その時の言い草ときたら読み飽きた三日前の新聞を放り投げるようにぞんざいで、その声ときたら投げやりな上に取りつく島もなく乾いていて、挙句の果てには視線すらこちらに向けず無表情で言い放たれたものだから、流石の真純も即座に反応することが出来なかった。
「……なんで」
たった数秒。しかし沈黙としてはそれなりに長い時間が流れてようやく絞り出した台詞がそれかと、脳味噌の回転不足を真純は呪った。何故今、どういった理由で、アンタは何を思ってその言葉を口にした?
「なんで? 明らかだろ」
この男は言語野がそこらの人間よりよっぽど発達していて、本人すら気づいていない本音を言葉の裏から読み取っては薄い唇から甘い言葉を紡いで意のままに相手を操ることにすら長けているくせ、そのスキルを真純に対して発揮しようとしたことは一度もなかった。今だって真純の拙い疑問文に納得するのに充分な装飾を付けた解答を用意するなんてこの男にとっては造作も無いことのはずなのに、放たれたのは匙を一つも二つも投げた成れの果ての言葉だけだった。
明確な敵意に対して血が昇りやすいのが自分の悪い癖だと分かってはいる。それでも相手が赤の他人なら、多少憤りを抑えて相対することだって出来る程には大人になった。敵意を受け流して自分の思うように誘導することの有利性も知っている。ただそれが通用しない人間のうちの一人が、目の前にいる男だというだけで。
「明らか? 今明らかになったのはアンタが他人の仕事に口を出すような男だったってことだけだ」
狭量だなと最後に付け足してみれば、多少不愉快になったようで降谷は形の良い眉を顰める。
「仕事? そもそも君の仕事は学業だ。東都大学の学生なんだから」
「探偵業だって立派な仕事だよ。時風で言うなら副業かな。そりゃあ工藤くんには実績も知名度も敵わないけど、それなりにクライアントはついてる」
だからいくら恋人とはいえ口出しされる筋合いは無いと言い捨てれば、まるで分かってないとばかりに小さなため息が返ってきた。
「そういうことじゃない」
「じゃあどういうことだよ」
「……君には荷が重い」
そう言いながら降谷は感情の読めない表情のまま真純の目の前に立った。視線がかち合う。おそらく意図的に感情が消された眼、色を乗せない頬、軽く閉じられた唇。まるで人形のようだった。
「探偵というものは……君には荷が重い」
人形が再び繰り返した。真純は意味が解らず首を左右に振る。
「さっきから明らかだとか重いとか随分とボクのことを知ってるような口ぶりだけど、アンタとボクの関係はただの恋人ってだけだろ…………いや、それ以下かもな」
最後の言葉は正鵠を得ているのではないかと、そう言ってから気づいた。そうか、そういうことかと自嘲の笑いが洩れる。降谷を見れば眼を見開いていて、その眼の奥には消していたはずの感情がじりっと音を立てながら舞い戻ってきているようだった。
「何を……」
珍しく掠れた声で降谷が何かを言おうとしたが、身を翻し無言の拒絶を示すとそれ以上の言葉は聴こえてこなかった。
「…………じゃあな」
散らばっていた荷物を拾いながら部屋を出る。ドアの閉まる音。部屋の中に取り残した男を振り返ることはしない。そして廊下を歩く間、ドアの開く音も呼び止める声も背中の向こうから追いかけて来ることはなかった。
あの時、降谷の眼に宿ろうとしていた感情は一体どのようなものであったのか。思い起こそうとする度に胸の内側が抉られるように痛み、真純は結局その記憶を閉じ込めた。
探偵ごっこを辞めろと言われてから、真純はその言葉に反抗するように依頼を探していた。だが意気込みの激しい時ほどその熱に見合うような依頼は少なく、ここ一月はモノ探しや浮気調査、果てはペットの一時預かりと、看板としては便利屋の方が近いのではないかというものばかりだった。
真純が降谷に背を向けたあの日から一月という時間が経っていた。
一月の間に降谷からは三度連絡があった。最初の二度は翌日に着信が、三度目はその次の日メッセージで「電話に出ろ」の一言だけが送られてきていた。そのメッセージも無視しているとそれ以降連絡は無く、向こうもあっさりと諦めたのだと解った。
彼との関係性をよく振り返ってみれば、恋人以下という言葉が嫌にしっくりくる。真純がイギリスの大学から東都大へ編入する為に帰国した際に再会し、特にどちらから告白するでもなくキスやらセックスやらをして、それから定期的に会うようになった仲だ。彼の職務上仕方の無いことではあるが、遠出などしたこともない。今更ながらこれはセックスフレンドと言うやつではないのかと自分自身でも突っ込みたくなるような、重さの無い乾いた関係だった。
「それにしても君のような若い女性が僕の本を読んでくれていたとは嬉しいねぇ」
すぐ横から聞こえてきた粘ついた声に真純は意識を浮上させる。
杯戸町にあるシティホテルに併設されているバーのカウンターに真純は座っていた。左隣の椅子では五十代半ばのスーツ姿の男が自尊心を満たされた顔をしてウイスキーを口にしている。
男は今回探偵として受けた依頼の標的だった。
依頼主は三十代前半の女性で、泣き腫らした赤い目を隠そうともせず真純の前に座り依頼を託した。標的の男と依頼主は元教師と教え子の関係であるらしい。男は東都北にある私立大学の教授職に就いており、依頼主は十年程前に男が担当するゼミに所属していたという。彼女が大学を卒業してから十年、男との関係は恩師と元生徒というありふれたものであったが、彼女が出版社の人間として男と再会するようになった時それは簡単に崩れ去った。
『最初は私も彼もあの頃が懐かしくて思い出話に花が咲いて、それで少しお酒を飲み過ぎてしまっただけだと思ったんです』
彼女は掠れた声で、しかしはっきりとその時の状況を口にした。
『職業柄、お酒の席は少ないわけではないので弱いつもりもなくて……彼も柔かにお酒を注いでくれていたので酔った自覚はあったんですけど、無碍に出来なくて……』
そうしている内に目眩を起こし、焦ってタクシーを呼んで帰ろうとしたところから記憶が曖昧だと言う。
『気がついたら家にいました。ちゃんと鍵もかけて……けど、どこか違和感があって兎に角シャワーを浴びようとして服を脱いだら……』
その先は説明がなくとも女である真純には想像がついた。それ以上は言わなくていいと言えば彼女は涙を堪えながら『すみません……』と消え入りそうな声で謝罪を告げた。男の罪を立証したいのかと訊けば、混乱して証拠となるようなものは消したり捨てたりしてしまったと思う。けどもし、あの時薬のようなものを盛られていたのだとしたら、それを手に入れることが出来れば裁判まではいかなくとも謝罪の一言は請求出来るのではないかと思い、真純に依頼をしようと思ったのだと言った。
『弁護士さんにお願いすることも考えましたが……それでは家族や職場にも伝わってしまう可能性がありますよね。この期に及んでとお思いかもしれませんが、やはり抵抗があるのです。探偵さんにお願いするのなら、私一人の問題で済みます。……薬があるかどうかの確証だけでいいんです! 無ければ自分の不注意だと諦めもつきますし、有ればひと言謝ってもらえるかもしれない。今私が動くことで次に誰かが同じような被害に遭うのを防げるかもしれない。だから……薬を手に入れては貰えませんでしょうか』
長い時間考え抜いて出した結論だろう、隈の濃いやつれた顔で眼の奥だけが怒りと決意に燃えていた。真純はなるべく早く報告すると約束して彼女の依頼を受けた。それは同じ女としての男に対する憤りや正義感は勿論だったが、探偵という重い荷を背負うことが出来るのだと自分自身に証明したいという思いからでもあった。
そうして真純は依頼主からもたらされた情報と独自の調査で標的の好むバーを探り当て、さも男の著作に感銘を受けたいち学生のフリをして接触することに成功していた。
「だって、授業で使う教科書は小難しいことばっかりでよく分からないもん。なのに先生の本は分かりやすくって! ……先生の本を参考にしたレポート、珍しく褒められたんだから」
実際彼の著作に目を通したところ、確かに分かりやすい言葉選びで書かれた本で普段堅苦しい表現に苦戦していればこの感想はそう的外れではないはずだ。男の研究分野は真純の専攻外だったが、初心者にも読みやすく真純は参考にしたという節をそれらしく取り上げてみせた。
「いやぁ、よく読み込んでくれてるね。うちのゼミの子たちは担任の本というのは逆に読みづらいものなのかな……感想を貰える機会が少なくて嬉しいよ」
男の反応も大したもので、台詞だけなら若い世代と健全に語り合う勤勉な教授という体を崩していなかった。カウンターの上に置かれた真純の左手をいやらしく擦る、その手つきさえ無ければ。
「こんな感想でいいならまだまだ出てくるよ……あ、ちょっとお手洗いに行ってくる。話はまた続きね……」
椅子から降りながら、手にしていたグラスをこれ見よがしに空にしてバーテンダーの方へ滑らせる。
「同じのを頼んでおいてあげよう……ここは奢りだ」
狙ったとおり、男は早速ドリンクをバーテンダーに注文していた。真純は無邪気を装ってやった! と小さく呟きトイレのある方向へと向かう。今日はホテルの雰囲気に合わせたシンプルなワンピースとヒールの組み合わせで動いているから、いつものように走ることは出来ない。これは酔わなくてもそのうち転びそうだと細いヒールで毛の長い絨毯を慎重に踏んで進み、男の視界から消えたところで手鏡を開いて手元の動きを観察した。
ビンゴ……。男はさりげなく携帯で時間を確認するフリをしながら、鞄のポケットから小さな薬が連なって入っているシートを取り出していた。そこからは男の身体に隠れて見えなかったがおそらく片手で薬をシートから取り出し、自分のドリンクを持ち上げるときに真純のドリンクへ落としたようだった。ちょうどバーテンダーは他の客の注文を受けていて男の動きに気づいた様子はない。マジシャン並みの早業でよほど練習したのか常習犯なのか。どちらにせよ褒められたものではないが。
腕時計の針がそれから一分を過ぎた頃、男の元へと戻った。男は自分が薬を盛ったことなどおくびにも出さず、かつ性急にドリンクを勧めることもせず愛想のよい顔で出迎えた。
グラスに注がれたオレンジジュースをベースにしているカクテルを僅かに持ち上げ、こちらも愛想良くいただきますと言って口に含む。先ほど飲んでいたものと味も匂いも変わらない、薬のような舌触りもない。確実に何かを入れられたとは分かっているが、その情報が先にあっても舌で捉えることは出来なかった。
──厄介な薬だ。
思わず舌打ちしそうになり、唇を舐めることで誤魔化す。男はその様子に満足したようで、ますます顔の皺を深くした。
そこから少しの間また男の自尊心を満たし続けておけば、徐々に男の眼に映る欲に変化が見てとれた。どうやら次はもっと本能的な欲を満足させて欲しいらしい。温厚さを装っていた眼が爬虫類のように冷たく肌を騒つかせる温度となり、潮時かと真純は男の耳許に唇を近づける。
「まだ話し足りないんだけど、先生はどう?」
男以外に聞こえるはずもない囁きに、彼はにんまりと笑って頷いた。
男がいそいそと案内したのはデラックスランクの部屋だった。高層階だけあって眺望は悪くない。女を連れ込むならせめてエグゼクティブかラグジュアリーにしておけよとも思ったが、そもそも女を連れ込む予定は無かったのかもしれないと思い直す。立場的には出張中の営業マンと何ら変わりない男だ。今夜、真純の存在は男にとって棚ぼただったのだろう。
窓からの景色に喜ぶフリをして部屋の様子を確認する。不審な荷物はない。スーツケースが一つベッドの脇に置かれているだけだ。ドアの方は男がまだ塞いでいるが、あえて部屋の奥まで踏み入れれば逃げる気はないと思ったのか安心したように男も真純に近づいてくる。
「眺めのいい部屋だね」
「だろう? 杯戸町に来るときはいつもこのホテルでね……まさかファンに会えるとは思ってなかったが」
「ボクもだよ」
男の行動は全て予測通りでもちろんこのホテルに泊まることも調べた上での接触だった為、真純はスラスラと嘘を吐く。ファン、という単語はこの男にとって素直に嬉しいものであるらしく、その言葉を聴いたとき真純の頭にカン、と罪悪感のようなものが響いたが当初の目的とは関係ない。男は早々にスーツのジャケットを脱いでネクタイも取り払っている。うん、わかりやすい。
「さ、緊張しなくていいよ。君も……」
手を伸ばしてくる男に「そうだね」と軽い相槌を打ちながら腕時計を外す素振りをする。ええと、蓋を開けて照準をあわせてネジみたいなところを押して………
プシュっと微かな音を立てて麻酔針が男の首元に命中すると、スリーカウントも数えず男はどしゃっと床に崩れ落ちた。超即効型の麻酔は実際使ってみると恐ろしいほどの効果を発揮した。これを特定の人物に向けて打ち続けていたホームズの弟子の彼は見た目に反して相当肝が座っている。
「ちょっとゴメンよっ……と」
廊下に投げ出された鞄のポケットを探ると、狙っていた通りのシートがあった。青いシートに白い錠剤が九つ並んでいる。一つ足りないのは先程ドリンクに落とされた分だろう。見た目だけなら処方箋と変わりないそれをショルダーバッグの奥の方へしまい込む。
立ち上がるとクラ、と目眩が襲った。薬の影響か。飲んだのは大した量ではないが、酩酊後に記憶を失うとなるとそれなりに効果は大きいはずだ。万が一の避難場所として、同じホテルに真純も部屋をとってある。さっさと引き上げて水でも飲んで寝よう。そう思い男の部屋を出てエレベーターホールでボタンを押そうとしたときだった。
ガッと腕を強く掴まれ、咄嗟に男が追いかけてきたのかと脚の軸を移動させた。それで多少相手の体勢が崩せればなんてことはない。崩せなくても腕を引き剥がし腹に一発入れることは可能だろうと、そう瞬間的に判断して次の動作を繰り出す直前、違和感に気づいた。掴まれた手の方向と男の部屋は逆だ。いくら薬の影響があっても、流石に人ひとりいない廊下を追ってくる姿があれば気づいていたはずだ。それにこの手はあの男の脂ぎって膨れた指と違い、節立っているのになめらかで、熱い。
腕を掴む指は嫌というほど見覚えがあった。見上げなくても誰のものか分かる。この一ヶ月、その男を思い出さない日は無かったのだから。
そろりと視線を指から腕、肩、首筋へと滑らせていく。首にかかった淡い髪の向こう、その眼に痛いほどの怒りを滲ませた男がそこにいた。