壱 幽幽たる夜である。
藍を幾重にも染め抜いたような空に、月白を刷毛でひと塗りしたような淡い月が浮かんでいる。じめりとした生温かい風が木斛の枝葉を撫でればザァザァと雨音めいた音を立てて騒めき、呼応するように遠くで犬が鳴いた。
夜が更けても閉じぬ 木槿の白い花弁が微かな月明かりを受けて濡れているように光るのを真純はぼんやりと眺めていた。物思いに耽るには良い夜である。
今宵、嫁ぐはずだった先の家のことを思った。年の暮れより縁があり、家と家とで話が纏まっていた。無論、真純も相手の男も互いの顔は知らぬ。武家の一人娘であれば、この世ではそれが当然の道理であった。
しかし、突如先方のご隠居──嫁ぐはずだった相手の祖父にあたる──が病で逝去、同時に家の中で次々と不穏なことが起こり、これは故人を丁重に偲ばねばなるまいと破談となったのだ。そしてこうしたことは、これが初めてではなかった。最初に決まった嫁ぎ先は話を聞いてから十日と経たないうちに召放しとなり、次の家はもうしばらくといったところで相手が水の事故で亡くなった。もう、これは一種の祟りではないかと周りの者からお祓いを勧められたりもしたが、母はそれらの提案を「祟れるものなら祟ってみよ」と鼻で嗤っていた。真純はそろそろ十八になる。世間ではあと一、二年もすれば行き遅れの扱いとなるが、不思議と焦りのない母や兄たちを見習って、真純もその内に適当なところに娶られるだろうと呑気に構えている。
不幸なことになった向こうの家へ弔いの文を送らねばなと、文字をつらつらと頭に浮かべては消し去っていたが、ふと、辺りを取り巻く空気に違和感を覚えて庭を見る。
不思議と音がしない。
風がぴたりと止んでいる。
先ほどまで開いていたはずの木槿はその花弁を固く閉ざし、草木も囁きを止めた。ぞうっとするほど静かである。おんおんと響いていた犬の声も聞こえてこない。
刻が止まったようであった。
「月出でて皎たり、とは上手くいかぬものだな」
完全な静寂。それを切り裂いたのは鈴の音のような清しい声であった。弾かれたように声の方へ視線を転じれば何処からかふわりと蓮の香りが漂い、そしてその先に一人の男が立っていた。
うつくしい男であった。すらりとした身を銀白色の着物で包み、紺青に見事な金刺繍が施された羽織りを肩から流している。袴は履いておらず町人のような着姿ではあるが、男の纏う気は真純が怖気を感じるほど清廉に張り詰めており、人ならざる存在だと突きつける。その証しであるかのような獣めいた大きな耳とたっぷりした尾が月明かりの乏しい夜にあっても眩く、耳と同じ色に染まった髪とともに透きとおって見えている。一二三四と数えれば九つに分かれた金色の尾が 薄のようにゆらりと揺れた。
「 窈糾とするには月が足りない」
唄うように呟いた男はこちらへと足を踏み出した。さく、と草が踏み分けられる音が聴こえたと思ったがそれは幻のようで、男は間違いなく土を踏みしめているのに静寂はそのままだ。
こくり。喉を冷えたものが伝う。指先を動かしただけでも、ぷつりと皮膚が切れてしまいそうなほどの緊張。それゆえに、男──狐と思しき怪しから目を逸らすことは叶わず、青灰の眼に己の姿が映るほどのところまで狐が近づくのをじっと見つめるほか無かった。
「深き夜の あはれを知るも 入る月の」
「え……」
かたちの良い唇が唐突に歌を紡ぎだした。祝詞を唱えるかのようにその声は滑らかで朗々と響く。上の句で終えた先に狐は口を閉ざし、促すように視線を寄越されたことで、下の句を求められていることを理解した。覚えのある歌だ。それがどのようなものであったか、万葉か古今集か、古びた記憶を探る。狐はどうやら人よりも気の長い性であるのか、戸惑う真純に機嫌を損ねることもなく腕を組み下の句を待っている。
──返事をしてはなりませぬ。
不意に。菩提寺の住職がいつか兄に向けていた言葉を思い出した。父の四十九日が明ける前のことであったと思う。幼い頃より勘の鋭かった兄に向けて「正体のない者に返事をしてはなりませぬ」と、住職はそう言ってはいなかっただろうか。正体のない者。幽霊、鏡の向こう、影、妖、怪し。
「……」
思い出した幼い頃の教えに従い沈黙を選んだ真純に狐はほぉ、と面白げにうつくしい唇を吊り上げ「思ったよりも利口に育った」と笑った。
「そう…こちらの者からの問いかけに、軽く応えてはいけないよ」
狐は声色を優しげなものに変えて、よく出来ましたと手を打った。パァン、と心地の良い音がしたと同時に風が舞い込み頬を撫ぜる。狐が掌を合わせたことで刻が戻ったようである。
「では、やり方を変えよう」
狐はいつの間にか縁側に腰掛ける真純に己の影がかかる程近くまで寄り、月を背に見下ろしている。
ますみ、と狐の唇が形をつくり、今度は幼な子に訊ねるかのような甘ったるい声を出した。
「歳は幾つ?」
名を呼ばれたと気づいたのは、歳の数を応えた後であった。は、と口を手で押さえたがもう遅い。
「怖がらなくていいよ。昔、君自身が教えてくれた名だからね」
狐の声は 清浄であるが、言う事はどうにも理解し難い。だがこのまま、それこそ狐に化かされたような刻を過ごすことはどうにも真純の性に合わぬ。毒を食わらば皿までと真純はこの狐に相対することを選ぶ。
「……狐に名乗った覚えはないんだけど」
他人に名前を教えてはならない。幼い頃からそう言われて育ってきた。特に言いつけを厳しく教えたのは母であった。真純、人に本名を教えてはいけない。奪われてはいけない。奪われてしまえばそれは支配となり、呪いとなる。
狐は果たして真純の名を唇に乗せた。
それは正しく言霊であった。狐に名を呼ばれたことで、閉ざしていた口を開くこととなった。狐はそうなる知っていて、真純の名を呼んだのである。
「忘れているだけだよ」
狐はこともなげに応える。
「まあ、その話は後だ」
「へぇ…本題に入ってくれるのか?」
そもそも、何が目的で怪しが真純のもとへやってきたのか。もし家族に危害が及ぶのであれば、ここで食い止めねばと真純は拳に力を込めた。
「零」
「れ……何?」
思いもよらぬ狐の短い言葉に眉を顰める。
「零。僕の名だ。ちなみに 字じゃなくて諱(本名) 」
「はっ?」
言は 事。隠された名である諱──忌み名を知ることは相手を支配する意味を持つ。狐のような怪しものにとって、その呪の効果は人よりも顕著なことであろう。それを会ったばかりの人間に教えるというのはこの狐にとっても深刻なことである。もっとも怪しの名を知ったところで、真純に狐をどうにか出来るとは限らないが。
「僕に名を呼ばれたことが不安なんだろう? なら君も僕の名を呼ぶといい。それでお相子だ」
「……れい?」
恐る恐る名を呼んでみれば、狐は嬉しそうに唇で弧を描いた。ふふふ、と男にしては艶やかな笑いを喉の奥から洩らしている。狐の顔を見た真純は静かに息を呑んだ。その眼は既に人のものではなくなっていた。眼の中心が猫のように縦に長く伸び、先程まで確かに深い青をたたえていたが、今は金色に光っている。
背筋を冷たいものが這った。人らしく 顔貌をつくり振る舞っているが、"これ"はやはり怪しものである。
「さあて、では早速話をつけようか」
言うやいなや、真純の様子は歯牙にも掛けず狐は履いていた下駄をぽいと地面に転がし、縁側から居室に上がり込んだ。
「ちょっ……!」
嫁入り前の娘の居室に出会ったばかりの男(の形をした狐)を入れることは流石の真純にも咎めるものがある。別の意味で背筋が冷えた。
「母家は向こうか」
相変わらず狐は真純の顔色に知らぬ振りをし、百合の描かれた襖を開け廊下へと進む。
「お、おい」
慌てて狐の後を追うが、狐は勝手知ったると言わんばかりに母家の方、真純の母が居るところまで迷いなど無いように足を運んでいる。
「そっちには母さまが居るだけだって!」
この家の主である長兄はしばらく家を空けており、次兄もとっくに家を出た。父も早くに亡くなり、この家には使用人以外女しか居らぬ。
「ああ、この家の主は留守か。それは重畳」
「はぁ!?」
「御母堂が居れば充分充分」
「母さまに何するつもり!?」
狐の後を少し足を速めて追う。狐はさもゆったりと歩いている様であるのに、どうしてか追いつき越すことが出来ない。
「ぴぃぴぃと五月蝿いなぁ。話をつけるだけだよ。さっきそう言ったろう」
「だからっ……狐がうちに何の話をつけにきたんだよ!」
「何の話?」
そんなもの、決まっているだろう。狐──零が振り返ってぴたと視線を合わせた。その眼は人のものに似た、青に戻っている。
「嫁取りだ」