偉大な悪魔のその終わり【偉大な悪魔のその終わり】
死神が鎌を振りかざす。高く掲げられたそれは一切の迷いなく、振り落とされる。腐った牛の皮は鋭利な刃に引き裂かれ、破れ萎んだ風船のようになる。ペンギンさながらのガワだけが地上に取り遺され、裂け目からは魂がゆっくりと起き上がる。魂は朧げな光をたたえ、ゆらり、あの赤い月まで昇っていく。その光景は此処が地獄であることを勘案してなお、ある種の神々しさすら携えている。
誰も止める者はいない。止められる者はいない。何処からか、赤い月を歌う少女たちの囁くような声だけがこだまし続ける。
赤い月に導かれ次々に抜け殻になっていくプリニーたち。それをツインテールの少女は頬杖をつき、ぼんやりと見つめている。
「人間の魂は罪を償って、こうして一度終わりを迎えるのよね」
厳かな月の夜に彼女の声は妙に響いた。返事をする者はいなかったが代わりに草木が噂話をするよう、生ぬるい風にそよめいた。
「ヴァルっちたちにもいつか終わりって来るの?」
ゆっくりと少女の方を振り返るのはヴァルっち……ではなく、その執事である狼男。一度は顔を背けたがそれでも向け続けられる純粋な視線に耐えきれず、諦めるかのよう呆れた声を出した。
「……悪い物でも拾って食ったか?」
「失礼ね! 拾い食いなんかしないわよ!」
フーカはいつもの調子で野球バットを振りかざす。静寂が切り裂かれても儀式が途切れることはない。転生は止まらない。視線の先でまた一匹、プリニーは赤い月へと誘われていく。
もう! と頬を膨らませると少女は被っていたトレードマークの帽子をぐしゃと鷲掴み外す。そのまま背をそらし夜空を仰いだ。瞳には大きな赤い月が映り込んでいる。
「ふと思ったのよ。悪魔もいつかは死んじゃうのかな? って」
「当たり前のことを一々聞くな。悪魔にも寿命はある」
「別魔界の魔王が饅頭を喉に詰まらせて死んだとかいう話もあったな」
「あ、そんなしょうもない理由で死ぬんだ」
餅を詰まらせる人間を彷彿とさせるエピソードはほんの少し、悪魔を身近なものにした。かたく腕組みをして考え込むフーカは眉間に皺を寄せる。
「なんかさ、ヴァルっちもフェンリっちもいつかは死んじゃうのかなって思ったら変な気持ちになったのよ。全然実感が湧かないっていうか……」
フーカの膝の上から帽子を奪い取った狼男は彼女の頭にめり込ませるようプリニー帽を被せ、言葉を遮った。
「小娘……人間風情が悪魔の心配などしている場合か? まずは貴様らの脆弱な命の心配をしたらどうだ」
「痛い痛い! アタシだって分かってるわよ! おかしなこと言ってるなって!」
フェンリッヒとフーカがぎゃあぎゃあと言い合うのを横目に吸血鬼は白手袋の手で己の両耳を塞ぐ。そのまま喋り出せば、ヴァルバトーゼの声が彼自身の頭に直接響いた。
「云千年を生きる悪魔であろうと永遠などない。どんな魂にもいずれ終焉は訪れるものだ。その時が来れば当然、俺も終わりを受け入れるのだろうさ」
「お言葉ですが、閣下。ノーライフキング、不死の王の名を冠するあなた様に終わりなど……」
「いいや、お前は良く知っているはずだ」
「……ヴァル様」
二人の間に訪れる沈黙の意味の全てを汲み取ることは出来なかったが、それでも伝わるものはあった。血を断ち、魔力を喪えば不死の王と称されたヴァルバトーゼにすら終焉は訪れるのだろう。そして現に終焉の一歩手前をフェンリッヒは目の当たりにしたのだろう。そんな過去がフーカにも察して取れた。
「だが、到底受け入れられない終わりもある」
「……お饅頭を食べて喉に詰まらせるとか?」
「うむ。それは格好がつかん、受け入れられんな」
フーカの隣にやって来てすとんと腰をおろし吸血鬼は愉しげに笑う。そして、表情を変えて少女に放つ。
「俺が危惧しているのは寿命などという当然の『終わり』のことではない。命賭して戦った果ての『終わり』でもない」
「あれ、受け入れられないことって負けることじゃないんだ」
「敗北を恐れてどうする。正々堂々と勝負して散ったのならそれもまた誉れだ」
「ヴァルバトーゼ閣下ー! 本当にお世話になりましたーッス!」
話の途中、張り裂けそうな声でこちらへと感謝を叫ぶプリニーがいる。ヴァルバトーゼは右手を上げ、小さく振った。もう戻ってくるなよ、フーカにしか届かない声量でそう呟いて手を下ろす。
「悪魔にとって本当の『終わり』は人間が畏れを忘れたその時にこそ訪れるのだろう。意外にもそれは……悪魔の寿命よりも早くやってくるかもしれん」
「どういうこと?」
「人間の進化。それは事実、めざましいものだ。だが、全ては解明できる、全ては意のままに操ることができる……そんな思い込み、万能感に飲まれれば、人は畏れを忘れていく。同時に敬いさえも失くすだろう。いずれ悪魔も天使も忘れ去られてしまう」
フェンリッヒは険しい顔で、それでも二人のそばを離れない。首を傾げるフーカの反応を気にせず、吸血鬼は続けた。
「畏れエネルギーも敬いエネルギーも生成されることがなくなれば俺たちは魔力の根源を絶たれ、立ち行かなくなる。忘れ去られるどころか、その存在はいずれ消滅する。悪魔や天使、或いは神ですら……それを信じる人間がいてようやく成り立つのかもしれんな」
「天使や神はともかく、少なくとも悪魔は人間如きに振り回される存在ではありません」
苦言を呈するフェンリッヒに吸血鬼はクックと声を出して笑う。現にこうして振り回されておるではないか、そう指摘すれば狼男は恨めしそうな視線を元人間の少女に向けた。
「まあ、そんなこともあるかもしれぬ、と言うもしもの話だ。俺がいる時代には有り得んさ。人間が幾百回の生まれ変わりの中で畏れを忘れようとも……幾千回、畏れを思い出させてやるまでのこと。出来の悪い魂には再教育だ」
立ち上がり、白手袋を嵌め直す彼の横顔は実に晴れやかなものだった。月の光をものともしない、閃光を放つかのような眩さ。その光に見惚れていると、間の抜けた声が吸血鬼の口から発される。
「して、小娘。何故そのようなことを聞いた?」
「……ホント、なんでかしらね」
なんとなく、聞いてみたくなったの。そう呟いて少女は宙に手を伸ばす。見上げた先で形を取らない魂は弾け消え、夜の空に溶けて行く。
人間の魂の輪廻のため、教育を施す悪魔たち。この世界を断罪者ネモによる破滅から救った英雄たち。……偉大な悪魔のその終わりが、少女にはやはり信じられなかった。地獄に教育係がいなければ人の転生にはもっともっと時間がかかるのだろう。人が罪を償うのには。
彼等がいなければ、アタシは今この時を受け入れることが出来ていただろうか。
らしくもない感傷に浸りかけた時、苛立ちを帯びた声が耳をつんざき、我に帰る。
「うるさいぞ、お前たち!」
一人前に死神の仕事をこなすようになったエミーゼルがいよいよ我慢の限界とばかり声を上げた。人間を戒め、その魂に教育を施し、赤い月まで運ぶのは悪魔の役割だ。だのに、悪魔の魂はその人間にこそ翻弄されるというのか。
畏れを忘れた時、人類は誰しもネモのようになってしまうのかもしれない。その時偉大な悪魔がいないとなれば──人は、今度こそ人自身を滅ぼすだろう。
「恐ろしくなったか?」
悪魔に人の心など読めるはずもない。けれど訊ねるヴァルバトーゼの柔らかい声色はまるで少女の心を見透かしたようだった。慣れ親しんだ悪魔からの問いはちっとも恐ろしくなどなかった。
けれど、悪魔たちの終わり。その可能性が途端に現実味を帯びて頭にまとわりつき、フーカはそっと首を縦に振った。
「……ほんの少しだけ」
「良い心掛けじゃないか」
「クク、これならしばらくは悪魔も終わるまい。安心して罪を犯すが良い、人間」
一同の笑い声にもう一度、今度は呆れた声でエミーゼルが文句を垂れる。ようやく口をつぐんだ悪魔たち。その輪郭を赤い月が等しく照らしている。