凛と一緒(15) 五月のゴールデンウィークも部活はあるが、フルではない。偶には息抜きも必要ということで休暇が与えられている。休みの日はどちらかの家に入り浸るか、公園でサッカーするか、東京の街に繰り出すかだ。その日、凛と一緒に映画を見る計画を立てていた為、地元の映画館へ行くことになっている。筈だった。
「で、お前ら何観に行くんだ?」
「ピエロが出てきてめっちゃ襲ってくる映画だって」
「趣味悪い。どうせそれ凛の趣向だろ?あいつに合わせてると甘える一方だぞ。嫌な時は嫌だってはっきり言え」
「これでもホラーには慣れて来たところなんだよ、凛のお陰でさ。それに凛も楽しみにしてたんだし……な、凛!」
潔は左隣に顔を向けて声をかけた。並列して歩く凛の顔はかなりの渋顔で、負の感情をまき散らしていた。
「おい凛。俺と潔がいるっていうのにその態度は何だ?不満があんなら先に帰れ。俺が潔とデートする」
凛とは反対の、潔の右隣を歩いていた人物が、不機嫌丸出しの凛に抜け目のない台詞を吐きながら、ちゃっかりと潔の肩を抱き寄せた。瞬間、驚異的な反射神経で潔の肩を掴む不埒な手を、凛はばしっと払った。
「何で俺と潔のデートに付いてきてやがんだこのクソ兄貴」
滅多に感情を荒げない凛が、しれっと同行していた人物――――兄である糸師冴に大声を上げて吠えた。
「一時的に帰ってきた兄ちゃんがいて嬉しくねえのか?」
「邪魔でしかねえんだよ帰れ」
「断る。俺も未来の義妹との時間を楽しみてえ」
「呼んでもねえのに来てんじゃねえ」
スペインから一時帰国していた冴は東京での用事を済ませた後、しばらく鎌倉に滞在していた。それが先日……一難高校サッカー部練習中に突然姿を現したのだ。
そこそこ強豪の高校に、日本の至宝がやってきた。パス練習に励んでいた部員たちはこぞって二度見三度見した。マイペースに個人練習に励んでいた凛はげっと苦虫を噛み潰した。誰よりも先に冴の存在に気付いた潔は素直に喜んだ。
「冴―!」
「おう。がんばってるな」
練習から抜け出して冴の元へ駆け寄るどころか親しみを込めて呼ぶ潔もだが、駆け寄ってきた可愛いペットを誉めるように潔の頭を撫でる日本の至宝にも、一難高校サッカー部は驚愕した。
「馴れ馴れしくすんな馬鹿潔てめえも潔に触んなクソ兄貴」
「お?喧嘩か?久しぶりに兄と喧嘩するか?俺の拳を受ける覚悟はできてるんだろうな?」
千切も真っ青な速度で疾走した凛が潔の頭を容赦なく叩いて、兄に向って吠えた。凛の口から出た兄貴という単語と、拳をぽきぽき鳴らす日本の至宝の口から出た固有名詞に、まじであの糸師冴か、と現実を目の当たりにしたサッカー部は白目を剥いた。監督は気絶した。
そのまま冴は潔家のお世話になり、そのまま泊まった。潔を兄に独占されることを恐れた凛も強引に泊まった。兄弟仲良く客間で寝て朝を迎え朝食を頂いて…………今に至る。
「潔、その服、やっぱりお前に似合ってる。俺の読みは外れてなかった」
「本当にありがとう。これ、服代に見合わないけど、冴にあげる」
「いらねえ。お前が使え」
「そんなことできないし、気持ちだから。凛と一緒に選んだんだ」
「しょうがねえな。もらってやる」
と、アクセサリーを冴に渡す潔。傍からみたら彼氏にプレゼントをあげる彼女の図である。
「何回も言うが気にすんな。お前の為に金を使うことに意義があるんだよ」
「そう言われると凛も嬉しいんじゃない?」
「こいつは当たり前だとしか思ってねえ」
「俺を差し置いて二人で話し込むな」
少し目を離しただけなのに直ぐに二人の世界に入っている。これが、凛が冴に来てほしくなかった一番の理由である。冴は潔のことを義妹と呼んでいるが…今まで弟以外の人間に対して辛辣で興味の欠片も抱いたことのない、過剰な自己意識の集合体であるあの兄が、弟の恋人って理由だけで贔屓すること自体があり得ない現象であることを、凛は知っている。兄が本気になったら弟から潔を奪うなんて簡単にやってのける。現に接触禁止を服着て歩くあの兄が自分から潔に触れていくあたり、かなり危険だと見ている。潔も潔でピッチ上だと視野が広くて五感が鋭いのに、普段がぽけぽけしてばかりで(凛評価)警戒心もがばがばで(凛評価)すぐ男を引っかけて思わせぶりな態度を見せるで(凛評価)、冴が肩を抱き寄せようが腰に手を回そうがなーんも不思議に感じてない。つまりは馬鹿である(凛評価)。
映画館に到着後。またもや冴が嵐を生んだ。
「じゃ、チケット出してくる」
「ん」
「待て」
ネットで仮予約したチケットを出そうとした寸前、冴が一枚の広告に指を差した。
「これを見る」
潔と同時に目を向けた凛は思考が飛びかけた。冴のチョイスはなんと―――――ドラえもんである。
「高校生にもなってドラえもんとか餓鬼すぎるだろ」
「俺の勘がこれって告げてんだよ」
「知るかよ。見たきゃひとりで見てろ」
すぐ自分のペースに巻き込もうとする兄を置いて潔と一緒に向かおうとするが、潔の足が止まっている。
「ごめん……実は、私も、こっちが見たい…」
赤らめた頬を指先でかきながらそんな言葉を言い出した。凛はがつんと頭を横殴りにされた。
「はあ?お前、ホラーでもいいっつってただろうが」
「実はさ、蜂楽から今年のドラえもんは泣けるって聞いてて、前から見てみたかったっていうか…」
だったらそれを先に言えよと文句つけたかったが、先に冴が割り込んだ。
「お。お前も観るか?」
「観たい!」
「決まりだな。つーことだ凛。俺は潔と一緒に観てくるから、お前は一人で見てろ」
と、潔を連れて行こうとしたので、かなり腹の底が煮えくり返っていたが、抑え込んで楽しみにしていたホラーを封印した。
「俺と潔は席取りにいくからお前はポップコーンと飲み物買って来い」
「なんで俺が」
「俺のカード預けておくからな。ポップコーンはハーフアンドハーフのLサイズだぞ」
当たり前のようにこき使い潔をかっさらっていく兄に、本日何度目になるか分からない殺意が湯水のように湧いてきた。だが悲しいかな。刷り込まれた弟の習性に抗えず、兄の指示通りに身体が動いてしまう。しかも列が込んでいた為、凛が劇場に足を踏み入れた時には、予告が始まっていた。
「遅せえ。ちんたらすんな」
兄に反発しようにもすでに映画が始まっていた為、凛はぐっと堪えた。握り過ぎた拳の血管が破裂しかけた。壁際に冴、真ん中に潔、廊下側に凛の順で座る。
凛が最後にドラえもんを視たのは、冴がスペインに渡るまでである。サッカー漬けの毎日で土日の定番アニメは毎週視ていたけれど、兄が視るので自分も視る体だったので、口には出さなかったけれどそこまで好きではないし、今でもそうである。なので現在、オープニングが開始した時点でげんなりしていた。どうして高校生にもなってまで金を払って観ているのか、意味が分からない。ホントはホラーが観たかったのに。今すぐ兄を置いて潔を連れて帰りたい。思えば兄はいつだってそうだ。弟の意見ガン無視で自分の思うまま気が向くままにいつも振り回してた。まじで帰ろうか。
もしここで潔がつまらなそうな反応をしていたのなら、腕を引っ張って劇場を後にする気でいた。いたのだが。凛の予想を裏切り、目を若干見開いてワンシーンワンシーンを頭に刻むように集中する兄の横で、潔は目を輝かせて巨大スクリーンに釘付けになっていたのである。見るまでもなく、夢中になっていたのだ。まじかよこいつ…っ!彼氏がげんなりしている横で、映画に没頭しているのである。挙句には終盤に近くなるといきなり涙ぐんだ。意味がわからない今のどこに涙を誘うシーンがあったのか。潔の他にも涙を噛みしめる声がところどころ聞こえる中で、凛はキレそうになった。自分がつまらない時間を過ごしている横で有意義に過ごしていることがめちゃくちゃ腹が立つ。もし兄がこの心の声を聴いていたのなら、それはお前の勝手だろうが愚弟と制裁していたところであろう。
二時間の間ずっと、凛は時間が過ぎるのを遅く感じながら、この地獄の時間が終わるのをひたすら待った。エンドロ―ルが始まる頃には精神的に消耗しきっていた。なのに、冴と潔ときたら、ほくほくさせていたのである。
「よかった~~~~~!ほんとによかった~~~~~~!ありがとうドラえもん!今年一番の感動をありがとう!」
「マジな。人生で初めて泣きそうになったぜ」
嘘つけ。泣く気配なかっただろうが。てか潔と一緒に余韻に浸ってんじゃねえクソ兄貴。さらっとありもしない事実を口にする冴に凛は心の声で突っ込んだ。
「久しぶりに見ると泣けるな」
「確かに今年のドラえもんは最高だった…っ」
「のび太を筆頭に力を合わせてスネ夫を助けに行くのは最高だった」
「ジャイアンが宇宙船から落ちそうになったスネ夫を助けたところが最熱だったっ。映画になるとジャイアンって良い奴になるよなっ。映画のジャイアン好き」
「これは間違いなくヒットするな。俺の勘は冴えてる」
「冴だけに勘が冴える」
「つまらねえギャグ言うな」
ぺしんと軽く冴の手刀が潔に下ろされた時、彼氏を差し置いて仲睦まじさを見せる二人を、凛は今すぐ両方殺して自分も死んでやろうかと考えた。
「もっとドラえもん語りたいんだけど、良い?」
「そうだな。移動するか?」
「良いね!凛も行くだろ?」
当たり前だ。ここで二人きりで行くと言ったら、凛は本気で殺人を実行するところであった。
行く前にお互いにトイレに行った。用を済ませ、手を洗いながら鬱々としていると、隣で指を丹念に洗っていた冴が口を開く。
「凛」
「あ?」
今度は何の苦言を放ってくるか、と凛は冴を睨む。冴はガラスに映る凛の表情を伺っていた。
「お前、まだ言ってねえだろ?」
冴の言葉に、少しだけ、凛の胸が騒ぐ。だけどそれは大したことのない程度で終わる。
「いい加減にさっさと言え。このまま先延ばしにしたところで何にも変わらねえだろ」
「…………」
「お前がこのまま何も言わないんなら、俺が代わりに言うぞ?いいのか?」
「うるせえ」
少しだけ気の抜いた声色が出たのは無意識だ。
「自分で言う」
「だったらさっさとしろ」
兄はそれ以上は言わなかった。そのやり取りを忘れたかのように、合流した潔と映画の感想を伝え合う兄が、凛は心底胸糞が悪かった。ドーナツを食べた後もゲームセンターに遊びに行くし、プリクラまで撮影し始める始末だった。身長百八十オーバーの凛には箱はとても窮屈でずっと前かがみを強制させられることとなる。
冴が去ったのは夕食の後だった。冴がマネージャーから聞いたとてもうまいスペイン料理店でのディナーは舌鼓を打った。潔は帰路の間もほくほくとしていたが、凛はげんなりと消耗していた。冴はいつも嵐のようにやってきて嵐のように去っていく。
「冴って本当に良い兄ちゃんだよな~!ああいう優しいお兄ちゃん欲しかった」
それはテメエだけだ。凛は心の中で吐き散らした。今後は兄と一緒に三人でおでかけなんて御免被る。
「冴、しばらく日本にいるんだろ?一緒にサッカーしてくれるかな?天才MFとサッカーできるなんて、夢みたいだな」
何も知らない潔は喜々と余韻に浸っていた。
「勿論、凛も一緒だよ。今日はごめんな。冴に会うの久しぶりだったから思わずはしゃいじゃってさ。明日は二人であの映画観に行こう」
あどけなく笑う潔は、凛のこれからを、知らない。
脳内で兄の言葉が木霊する。言うなら今しかないと判断した。
潔。
潔には優れた洞察力がある。相手の反応や言葉使い、微々たる表情筋の反応を逃さない。凛を相手においてもそうであった。サッカーの時だって、凛との連動を可能にしたのは広い視野に加えたそれであり、普段だって言葉が圧倒的に足りない凛の気持ちを敏感に悟ることができ、凛をいっぱいに甘やかし、受け入れた――――そして今、凛が言わんとしていることを、言葉にする前から悟っている。
「――――U―20の招集がかかった」
表情が抜けた潔に、凛は続ける。
「俺はU-20に入る。だから、ここにいられるのは、夏までだ」
一緒にサッカーが出来るのは、インターハイ予選まで。
残された時間は、あと二か月近くしかなかった。