凛と一緒(16) 潔は解っていたつもりだった。女子である自分と、男子である凛が、一緒にプレーできる時間は限られていることを。今年が最後の一年間で、高校を卒業してしまったら、選ばれなかった自分はサッカーから離れることになる。だから、せめて冬まで。最後の最後まで、凛とプレーできればと願っていた。
潔の願いと裏切って、残された時間は少なかった。慢心していた。こんなにも早くその時が来るとは思わなかったのだ。
凛の口から告げられた時――――潔の心の中は、不思議と凪いでいた。
「そっか…………すげえじゃん。すごいや」
その言葉を無意味に何度も口で繰り返し。繰り返して。最適な言葉を発する。
「凛ならできるよ。凛なら、世界一になれる。私はそう信じてるよ」
潔。凛が呼んだ。
「てか。今のうちにサインもらった方がいいかな?実はこいつとチームメイトでしたって自慢できるかも」
潔。凛がまた呼ぶ。
「ユニフォーム出たらサインもらってもいい?ずっと大切に飾るからさ。てかやば。そんな奴の人生初めての彼女とか。まじでやば」
ぽたり。地面に水滴が零れた。視界が潤んでいるのは雨が降っているからではない。雨は今、降っていない。降っていたのは、潔の目から零れる雨だった。
凛の右腕が、無言で潔の背に回り、軽い力で抱き寄せられた。ぽすんと、硬い胸板に額が当たる。上下する肺の動きと心臓の鼓動が伝わる。額の箇所が一番熱く感じた。
潔は静かに涙を流した。凛に身を預けながら。凛は何も言わず、潔が泣き止むのを待っている。
「…今日は、ずっと、一緒に、いてもいい?」
掠れるぐらいの潔の声に、凛は少し間を置いてから、答える。
「ちゃんとお前の両親に連絡しておけよ」
当たり前すぎる言葉に、潔は珍しく苦言を返さず、素直にうんと答えた。
監督から正式に凛の脱退が発表された時、初めて聞かされた部員は皆一様に驚きと戸惑いを隠せないでいた。凛という主戦力を失うことが一番の衝撃のようであった。全国への切符が手に入れられると期待していた分、喪失感が大きい。練習は誰も彼もが意気消沈していて集中力が欠けている様子であった。練習の合間、主将の多田が潔を呼び出した。
「潔も、凛のこと知ってた?」
「うん…まあ」
まじかよ…。多田は項垂れた。
「俺…あいつにFW盗られて悔しかったけどさ…今年の一難は過去最強のチームだって思ってたし、これでやっと全国優勝できるんだって期待してたんだよ…っ」
多田の気持ちは、チーム全体の声であった。
サッカーは十一人でやるスポーツ。チームが大切。ワンフォーオール・オールフォーワン。
でも実際は、たった一人のストライカーが点を取っていくスポーツである――――凛という天才によって、それが証明された。
その事実の証明は、潔が封印してきたエゴに影響を及ぼしていた。
チームは凛に依存していた。凛がいなければ機能しない。
――――それは本当なのか?
そもそも何故凛は一難高校(ここ)に来たのか。何故凛は潔を選んだのか。潔は知らない。というより、答えをもらっていない。
今まで何度か凛にそれとなく聞いてもはぐらかされてきたので、潔は知らないでいた。
――――こんなにたくさん凛と過ごしたのに、凛のことを何も知らない。
凛が何を考えているのかわからない。どうして潔を求めてくるのかも。
――――考えたところで時間の無駄だ。
今は少しでも長く、凛と一緒にプレーをする。凛の間近でプレーをして。それから。凛のサッカーに適応する――――いや、喰うんだ。凛のサッカーを喰う。
凛という存在によって揺さぶられていたものが、開花を始めていた。
「潔?どうした…?」
潔の顔を見つめていた多田が血の気を引かした。眼光を宿らせた目は、凛を向いている。
――――誰がいようとも関係ない。俺が、ストライカーだ。
典型的な日本式組織的サッカーに殺されていたエゴが目覚めた瞬間であった。
時は流れて、インターハイ予選が開幕する。
この予選が、凛と一緒にサッカーができる期間。最後のサッカーだ。
予選は順調に勝ち進んでいた。
順調――――いや、順調という言葉はもはや生ぬるい。
大差での勝利をそう呼ぶのであるなら、前座に等しいというべきである。
一回戦目開始早々。ペナルティーエリア外から、凛のアウトサイドシュートが放たれた。美しい放物線は敵味方全ての目線を奪い、風のようにゴールポストへと入った。
「ぬりい。ぬりいんだよ。どいつもこいつも」
ピッチの上に立つ凛は、破壊者として君臨していた。
「こんなぬりいサッカーじゃあ、俺の心は踊らない」
ピッチに立っていたものも、ベンチの控え選手も、指導者ですら、凛に畏怖する。
恐怖を集める凛の視線は、真っすぐ潔へと降り注ぐ。
視線を受けて、潔の身体が震える。
味方すら破壊し尽くす糸師凛の力を前にして、潔は今までにないぐらいに高揚していた。
「面白れぇ」
喰らいつこうとしていたのは潔だけではない。凛も、潔を喰うつもりで戦っていた。
前半五点、後半三点の、八―0で、一難高校サッカー部の大勝。
しかし、一難高校の士気は低かった。試合後ミーティングの空気は、勝者のものではなく、まるで惜敗した兵士のようにくたびれていた。圧倒的サッカーを前にして精神的に消耗したのは、敗軍だけではないということだ。
監督の声も暗く、チームメイトらの顔色も青い。そして、凛の周りだけが空白になっている。凛から放たれる闘気に恐れをなして近づけないでいたのだ。
その空気を潔も感じ取った。感じ取った上で、凛の中へ飛び込む。
「おい、凛!」
首に腕を回してぐいっと引き寄せて、若干目を見張る凛の顔に向かって、潔は得意げに言い放った。
「次は負けねえ。勝つのは俺だ!」
口元を釣り上げて笑えば、見返していた凛の目が鋭く細まった。
「言ってろヘタクソ。テメエが俺に勝てる日は永遠に来ねえし、俺の掌の上で踊り続けてろ」
「はっ。ほざいてろ」
誰もが潔に敬意を示した。すげえ、あいつ…。凛と堂々と話してる。もうやっぱり潔いないとあいつの相手は無理だ。潔最高…。敬念の視線を送られていることに気付かずに、ぐいぐいっと凛のつむじを指で押しつぶしていると、顔面を鷲掴みにされて引き離された。
ピッチから降りれば、凛と潔は恋人に戻る。共に潔の家に帰り、母の手作り料理を食し、今日のプレーについて話し合い、夜が更ける前に別れる。
いつもなら家の前で凛を見送るのだが、コンビニに行きたいからと理由をつけて、途中まで凛に付いて行った。
「なあ、コンビニ寄ろうよ。アイス食べたいからさ」
部活帰りにコンビニに寄ってアイスを買い食いするのも、すでに日常の一部と化している。
凛が高校に来るまで、潔は孤独だった。
「はずれだ。凛は?」
「あたり」
「すっげえじゃん!ほんと、凛ってよくあたり引くよな」
凛が来るまで、潔は一人でずっと、誰もいなくなるまでずっと遅くまで、まだ誰もいないずっと早い時間から、サッカーに打ち込んでいた。夢を追い続けるため、男子の中でも通用することを証明するため、自分の価値を見出すため――――大好きなサッカーを追いかけ続けるため、ずっと一人でサッカーをしていた。
そんな潔の前に突然現れたのが、凛。
しゃくり。コンビニの前で行儀悪くアイスを食べながら、やっぱり今日は、っとサッカーの話に逆戻り。みんながうんざりして最終的には別の話題に変えようとするのに対して、凛は静かに聞き、聞いた上で的確過ぎる指摘を言い放つ。言葉使いは乱暴だけど、慣れてしまえばかわいいもので……一時間も二時間もずっとサッカーのことを語り続ける潔と付き合えるのは、凛しかいなかった。
ははっ。今日のプレーがどれくらい酷かったのかを暴言にも等しい言葉で語る凛のあまりの酷さに呆れを通り越して笑いを溢していた潔は、風のように差し込んだ寂しさを、突然に胸に感じてしまった。
「潔」
「ん?なに?」
潔のその、無意識による一瞬の動きを、凛は見逃さない。
折り曲げた指の背で、潔の頬に軽く触れる。当てられた感触を、潔は受け入れて、好きにさせる。
「なんだよ?甘えてる?」
からかうといつもなら暴言が返ってくる筈が、無言の視線が投げられる。涼やかな目元の向こうに見えたのは熱情だ。読み取ると同時に、潔は笑顔のまま固まった。
すっと、滑らかな動作で顔を近づけられて、一瞬で唇を軽く奪われた。ここ外だとかコンビニ前とか誰かに見られたらとか、それらの言葉は出る前に口の中で解けて、熱い胸板に額を当てた。
「来い」
その言葉の意味を捉えると、頬に熱が集まった。
「明日、試合じゃん…」
「試合は昼からだろ。朝はなにもねえ」
「朝に集合だろ…」
「負担をかけねえようにする」
いつもと、なんか違う。いつもだったら有無を言わせない口調で異論は認めないとかいうくせに。
でも、こんな風に会話するのも、あと少しで終わるんだな。
無理強いをすることなく帰って行く凛の背中を見えなくなるまで見送った潔は、胸中に空いた空虚な穴に身を震わせるしかなく、今一瞬のことを考えることで現実逃避することしかできなかった。