ひとりぼっちの呼ぶ名前「青」
この世界でそう自分を呼ぶのはただひとり。
その声に青は振り向いた。
「王よ、老人の楽しみを横取りする気ですかな?」
「老人?城中の若者を泣かせておいてよく言う」
「ほっほ、力の無い老人は頭だけが取り柄ですぞ」
青は目の前の髭の老人を見る。次の手が止まっているのは王と話をしているからだろう、と思ってから次は自分の番だったと思い出す。トン、と駒を動かせば視線だけを下げた老人が笑って駒を倒した。
「あ、」
「あまり青を泣かせるなよ」
「随分と過保護ですな」
「泣かれると言葉が通じないからな」
負けたことにもう一度と駒を並べ直そうとして、その腕を男に取られた。名残惜しそうに老人を見れば、彼は笑うだけで青はそのまま連れて行かれた。
「楽しかったか?」
「たのしか……くやし?」
「悔しい、か。自分の感情に疑問を持つな」
「流石に文章は分からない…」
「そう落ち込むな」
男は先程の負けを気にしていると取ったらしく、鼻で軽く笑いながら小動物にするように頭を撫でた。
青は老人に言葉を教わっており、少しずつではあるが単語を覚えている。それを繋いでの辿々しい会話は不可能ではなかったが、流石に流暢に話されると理解不能の言語に戻ってしまう。それにこの男は青相手に遠慮がない。普段のように話されてはたまらない。
森へ帰れない。それならばとこの世界で生きることを決めた。
生活には困っていない。砂漠に放したのは王であるのに、連れ戻してからもこの宮殿に住まわせる気らしく、壁の壊されたあの部屋を使うように連れて来られて促された。
「ファラオ」
呼んでから思う。この砂漠で初めて知った単語だ。王さまのこと。
「なんだ」
「えっと……ひげ、なく?」
「泣きはしない。泣かせた。盤上遊戯で彼奴に敵うものはおらぬ」
やっぱり分からない。けれど老人は泣かないらしい。たぶん。
「服を着替えて晩餐だ」
「ふく、かえ…きらい」
「慣れよ」
「ばんさん、すき」
「ならば仕方あるまい」
青が砂漠から戻って暫くすると、青を見る目が変わった。今までの珍しい物を見る興味深そうな視線ではなく、羨望に似た類の眼差しを感じる。青にはその理由に心当たりはないが、その頃から晩餐で服を替えられるようになり、その他でも丁寧に扱われている気がした。
青は王に自室に放り込まれると待っていた女達が青を囲んだ。この服を1人で着るのは難しい。もう王は青がどれだけ嫌がっても制止の命令は出さない。最近は諦めてる。渋々なされるがままにして部屋を出ればぞろぞろと人を従える支度を終えた王が部屋の前に止まる。煌びやかな羽織を肩に掛けた王は青の姿を認めると歩き始めるので少し駆け足でそれに付いていった。
「王の寵愛を受けし神秘的なお方よ、どうぞ此方をご覧ください」
「あ、え、その…」
「東から仕入れた織物で肌触りは最高級です。きっと御御足にお似合いになります。どうかお触れになられて」
「え、え…あっ」
目の前にずい、と出された高そうな絨毯に青は怖気付く。
此処に来た初めは気付かなかったが、晩餐には必ずと言っていい程商人や使者が王との対話の為に訪れている。王は少し離れた場所で客人の話を聞いている。毅然とした表情を崩さずに何か言えば、相手は何度もお辞儀をして離れていった。しかし王の前は直ぐに他の客人が埋めてしまう。
いつもは王と付かず離れずの距離にいたため取っ付きにくかったのか、晩餐で話しかけられたのは初めてだった。団体の客の為に少し傍へズレたのがいけなかったのだろう。
「ど、どうしよう…」
「お気に召しませんか?ではこの彫像など。細かな装飾を是非その月の如き瞳でご覧下さい」
商人の言葉は難しい。謙り相手を持ち上げる表現に慣れていない青は困惑する。独特の話し方と少しの早口が相まって青にはおかしな単語が色々混ざっているように聞こえた。
牛タンとか、お見合いとか、草食とか。
関係のない言葉の空耳で全く意味が取れない。
元々人見知りの青はこの場から逃げてしまいたくて仕方なかった。それでも、と決心する。
ここで生きていくんだ。頑張らないと。
しかし青には商人の対応など経験もないからどうしようもない。お金も無いし何も買えない自分と話して良いことなんて無いのに。何をしていいのか分からなくて申し訳なさと情けなさで泣きそうだった。
こんな時にいつも考える事がある。
明瞭ならどうする?
差し出された彫刻を恐々と手に取った。案外重くてずし、と腕に負担がかかる。それに負けずに勇気を出す。
明瞭なら人見知りなんてしない。目の前のお客さんを喜ばせる言葉が言えるはず。
「っえっと……しろ…お、おもい」
「お分かりになられますか、流石は風にさえ愛されし麗しきお方!この真昼の太陽のごとき白は大変珍しいのです。この重量も中々のものでしょう」
あまりに重いので商人に返しながら言えばその感想は間違ってないらしく、またよく分からない言葉遣いで嬉しそうに捲し立てられた。
「アヒルの大砲の多い城…?わ、分からないけど…えーっと………、」
「大いなる川の使いのような不思議なお方、此方は如何です」
言葉を探しているとまた新しい商品を見せてくる。
そろそろ料理に手を伸ばしたいのに。でもきっと明瞭ならお客さんに敬意を払って蔑ろにはしない。
まだまだやれるぞ、と意気込んで笑顔を作る。と、荷物の中を探った商人の手の中に目を惹かれる。
「わ……!」
「どうでしょう、高価な装飾も集めて参りました。きっとその細くも美しい首元を際立たせ飾る事ができます」
「すごい、綺麗……」
沢山の金細工。首飾りから腕輪まで、ぴかぴかと輝いて美しい。それでも青は欲しい、と思わなかった。先程の彫り物よりずっと褒めやすい、なんて頭を過り、少し気分が浮つく。
うん、上手にできそう。
「ひかる、……んと、…おおい、いし」
「ええ、ええ!希少な宝石を扱っておりますゆえ。細かく削る技術を持つ職人に作らせた希少なものでございます」
さあさあ、と献上するように差し出すので、そのままに首飾りを取ろうとした。
「貰おう」
それは指先に触れる寸前に横から取られてしまった。見上げれば先程まで遠くにいた王が立っている。商人はサッと頭を深く下げた。
「ああ、凛々しき太陽の子ファラオ。お目にかかれて光栄でございます」
「長旅ご苦労。下がるがよい」
商人は道具を手早く纏めると腰を屈めたまま後ろへと下がる。よく見れば商人の背後にも沢山の同じような人々が並んでいた。最前列になった男は礼をしたままほんの少し王の様子を伺った。王は何も言わずに青の隣に立ち男を見ていた。それに気付くとスス、と青の前に進み、先程の商人のように荷物を解く。
王は商人の差し出す商品に何か言い、青の隣に置かせた。その奥には記録らしき物を付けている人が見える。青は皿に乗るデザートに手を出したいものの、なんだか少し気が引けてその様子を見ているしかできなかった。
いつまで続くのだろうと思っていれば、同じように数人を相手にしたところで王は皆を帰らせてしまった。それを見ると少し可哀想だなぁ、なんて思うけれど、やっと夕食の再開だ。そう喜んで皿へ伸ばした手は皿を掴めず攫われる。
「あっ」
「終いだ」
王は青を軽々横抱きにすると広間を後にしてしまった。
「…ばんさん」
「お前が商人の相手などするからだ」
「ばんさん」
「駄目だ」
「ばんさん!」
「果物で我慢せよ」
部屋に降ろされる。王の表情はそれ程豊かではないが、目元の化粧も相まってほんのちょっと威圧を感じた。
少し機嫌が悪そう。
でも、そんな顔されたって。
青にだって主張がある。
確かに部屋にはいつでも果物があるけど、そうじゃなくて。途中で連れて来られたのが納得いかなかった。戻ってやる、とすり抜けようとすれば胴に腕を巻かれて易々と捕まってしまう。
この男から逃れられないことくらい、ずっと最初から知っているけど。
青はむ、と拗ねる。王はそれを気にした様子も無く、手で何かを弄んだ。
「っわ」
首にヒヤリとした感覚が当たる。かち、と真後ろで硬いものを噛む音がした。片手で腰を抱いたまま王が首を傾けもう片方の手で何かしている。
「このじゃじゃ馬め。大人しくしておれ」
その声はいつも通りに戻っていた。
いや、ちょっとだけ楽しそうかも。
王は青の頭を適当にひと撫でして、扉の向こうで待つ兵士の群れの先頭へ帰った。首元を撫でれば青が手に取ろうとしていた翼を広げた鳥の首飾りがあった。
こんなの要らないのに。
首を傾げながらも服を散らかして脱いで元の服に替える。大きなソファへ腰掛けてクッションを抱いていると、暫くして食べ損ねたデザートが運ばれてきた。
「ありがと」
「何がだ」
「ばんさん」
「ああ、甘味か」
何かしたかと思考を巡らせてから理解する。後で作り直させて部屋に運ばせたのだった。
彼はかんみ、と復唱する。
今の此奴の機嫌を取るのは猫より容易い。彼が在るべき場所へ戻りたがった際とは大違いだ。
「入れ」
彼が余りにも目を散らすから普段は衛兵を払う。それを呼べばやはり少し怖気付く様子を見せた。
衛兵は青の部屋に荷物を運び込んで去っていく。商人から買った物だ。
「た、高そう…」
「好きにしろ」
緻密な模様の反物と、毛足の長い絨毯、それに宝石を埋め込んだ燭台。
最高級の品。それを前に困惑の表情をする彼に気に入らないかと声を掛けようとすれば、彼は此方を向いて笑顔を作った。
「ありがと」
その笑顔は不快だ。
彼は偶に誰かを模倣する。それは王を不愉快にさせた。
王はそんな感情を顔には出さない。兵に持ち込ませた壺に腕を入れる。青が無知な顔で此方を見るのを脳内で口角を上げた。
彼はこれで笑うだろう。本当の笑顔で。
ぬめるそれを掴み上げた。彼の為に壊した壁の先に広がる池に放る。
「あ、魚!」
水を得た魚達は八方に散ってからまた合流して泳ぎ出す。思った通り、彼は嬉しそうに笑った。彼は知らない言語で何か言って机へ向かう。果物を取ると池の淵にしゃがみ込んだ。手にしたそれをちぎって放ると魚は一度飲み込むもののすぐに吐き出す。
「あはは」
楽しそうにする彼を柱に寄り掛かって見ていた。彼の服の裾は水に濡れている。まるで幼子のようだ。彼の遠慮のない声は心地よい。胸元では金細工の鳥が揺れて不規則に光を反射している。
突然、池の中の魚がパッと散った。
「ッ下がれ!」
「え?………っ!」
大声に青が振り向く。と同時に大きな水飛沫が上がる。零れんばかりに目を見開く姿を脳裏に残して、池へ伸ばしていた腕から池の中に消えた。ボコボコと泡が出てやがて静かになる。
そしてゆっくり、大きな塊が池から頭を出した。
その口には腕を咥え、先には淡い青色の背中が見える。
「………離して下さらぬか」
王は静かな声で言った。
鰐は動かない。その口元からは鮮やかな赤が流れている。
「神よ、返して頂きたい」
ぎょろりとした目が王をジッと見た。王は目を離さなかった。
鰐は視線を外すと口を開いて腕から顎を外す。ず、と池に姿を消した。
「…感謝する」
躊躇いも無く池へ入り身体を抱き寄せた。左腕の噛み跡以外は無事だった。部屋へ上がりトンと強く背中を叩けばけほ、と水を出して呼吸を始めるが瞼は開かない。恐怖と衝撃で気絶したのだろう。力の無い軽い身体をベッドに横たえる。頬に張り付いた髪を撫で付けてやってから大声に部屋に入り待機していた衛兵達に医師を呼ばせた。
「う、う」
見慣れた部屋の天井が見える。腕が痛い。
「ファラオ、お気付きになられました」
隣から知らない声がした。顔を傾けると夕暮れが見える。その隅に人の影があり、指の触れる先は血塗れだった。
それに起きた事を思い出してゾッと背筋が震える。
「気分は」
声の方向へ顔を向ければ足元には王が立っている。彼が助けてくれたのだろう。
「げんき」
青は身体を起こそうとした。本当はクラクラするし、腕も叫びたいくらい痛い。でもウソをついた。
「大丈夫…げんき、げんき」
「…やめろ」
青の言葉に王の声色が下がる。
それに青の心がきゅ、と軋んだ。
自分が酷く駄目な奴に思えた。
迷惑を掛けている。心配させている。自分が情けなかった。
何もできない。着替えも自分でできない。商人1人まともに相手できない。言葉も分からない。誰か居ないと、何もできない。
全部が全部、自分を責めている気がした。
だから青は強がった。
「俺は、なんともない、から」
「……黙れ」
だまれ。
大丈夫、俺は喋れるんだ。酷い怪我じゃないんだ。
右手を付いて王を真っ直ぐに見据えて笑顔を作る。
明瞭なら。明瞭なら。
こんなの平気だって笑って、弱音を吐いたりなんてしない。心配掛けたりしない。
これくらい、耐えられる。
「痛くない……げんき、だ」
「───ッやめろと言っている!!」
王の怒鳴り声に青の肩が大きく跳ねる。こんなにも王が感情を顕にして声を荒げたのは初めてだった。王の怒りの理由を青は理解できない。
「お前は何時もそうだ。何故自分を隠す」
「っ、なに、?」
「誰を見ている?何を模倣している?偽りの姿などを相手にしたくはない」
「言葉、わからない、よ」
「そうやって振る舞うお前は酷く不愉快だ」
ふゆかい。
唯一聞き取ったそれは自分に向けられた単語だと分かった。
目の前の王の目線は冷ややかだった。目の下に血が上る。
ふゆかい。
俺の事、嫌い。
嫌いなら、嫌いなら。
「っそれなら、追い出せばいい!また砂漠に捨てればいいだろ…っ!おれも、俺も……ッお前のことなんて、嫌い、大っ嫌いだ!!」
大声で叫んだ。
嫌だった。ここに居たくなかった。
膝に掛かっていた布を握りしめたまま、腕の痛みも無視して駆け出した。
宮殿を走る青を王は追いかけもしなければ捕まえようと兵を動かしもしなかった。城を出た青は手に持った布を被って自分の姿を覆い隠す。堪えていた涙はすぐに溢れて、泣きながらずっと歩いた。
行く宛なんてどこにも無いのに。
気が付けばよく視察していた町の外れにいた。かなり遠くへ来ている。木の幹に背を預けた。もうすっかり夜だった。
自分はやっぱり駄目な奴だと思う。
売り言葉に買い言葉だった。王が自分を嫌ったって、自分は嫌いなんかじゃない。言葉はちゃんと通じないけど仲良くなれたようで嬉しく思っていたのに。
ああ、でも、『ふゆかい』が売り言葉かは分からないか。
ちゃんと話せば仲直りできたのかな。それともやっぱり、俺のことなんて嫌いかな。
ずるずる、と地面に尻をつけた。
憂鬱だ。俺はいつだって臆病で弱虫だ。
ぎゅっと布を身体に寄せる。左腕が痛い。寒さを凌ごうとはぁ、と息を吐いた時だった。
ざり、と真後ろで砂を踏む音がした。獣、と頭をよぎって振り向くと人影。
「…?っ、っん、んーーっ!」
黒マントが2人。いきなり口元を塞がれる。驚いてそれを外そうとする腕は簡単に掴まれた。身を捩っても力の弱い青は何もできず、ばさりと布が落ちるだけ。現れた首筋に手刀を打ち込まれ、青は意識を落とした。
「異国の者だ」
声に頭が覚めていく。朦朧としながらも視線を上げれば黒マント達4人がこちらに背を向けて話し合っているのが見える。
「何故こいつを?話にならないじゃないか」
「しかし王に寵愛を受けているのは異国の男らしい」
薄暗く冷たい場所だ。地中なのか窓が随分と高く、地面が近いようで偶に砂が吹き込む。窓の外は明るい。一晩中気絶していたらしかった。
「だが飽きた王に砂漠に捨てられて死んだとか」
「俺は商人が見たと話すのを聞いた」
「こんな所にそんな奴がいる訳ないだろ」
肩と腕が痛い。身を捩ると頭上からじゃらりと音がした。そこまで顔を上げる気力はない。
ここでやっと自分の状態を知る。今の今まで自分が手首を縛り上げられ立たされていると気が付かなかった。つま先で辛うじて体重を支えている。
黒服達は青が目覚めたのを見て取り囲む。
「っ、…なに…なんで、こんな…」
「ほら見ろ、言葉なんて分からない」
「一応やった方がいい」
「………?」
知らない言語だ。
王や周りの人々の使う言葉でもない。
誰?この人たちは、誰?
男が俯き加減の青の顔を鷲掴みにする。
「…あんた、ファラオ、知ってるか?」
「へ……」
聞き取れた。
ファラオを知っているか。
随分とゆっくりなのは自分への配慮で、訛ったような発音は母国語では無いからだろう。
ファラオ、の単語に動揺した青は目を見開いた。
「反応した。こいつ何か知ってるな」
「おい、これ」
1人が青の首に手を伸ばす。それに怯えて肩を跳ねさせると、掌は首元の何かを掴んでグイと引っ張った。首の後ろから何かが移動する感覚がする。その手にあるのは走ったせいで背中側に回ったらしい王が青に付けた首飾りだった。青のような異邦人にはあまりにも不釣り合いな金装飾。
「…寵姫なら兵士より都合が良い」
男は顔を離した手に鞭を持った。
「そろそろ言ったらどうだ?」
「ッ、ひ、…っゔう!」
ひゅ、と風を斬る音の次に痛みが走る。酷い声が喉から溢れでた。
経ったのは3日か4日か、もうよく分からない。
「王の側にいたんだ、何も知らないことはないだろう」
「う…、っあぁ!」
この男達は王の情報を欲しがった。
青にははっきりと言葉が通じなくても彼らが王の敵だと分かった。
「隠し通路、王の逃げ道、兵の少ない時間帯。なんでも良い。腕が使えなくなっても良いのか?」
男は鞭で二の腕を叩いた。傷の上からでは軽く触れただけでズキズキと痛む。青は何日も拷問を受けてボロボロだった。床に尻を着けるのは夜だけでそれ以外は吊られている。濁った水しか与えられず思考力も落ちていた。
それでも何も言わなかった。
知らない言語で王を知ろうと人を攫う。
そんな相手に言うことなんて無い。
「なぁ見ろよこの傷。こいつ鰐から帰されてる。なんて幸運だ」
「はは、このままだと膿むぞ。切り落としたくなければ口を開くことだ」
「ッい、ううぅ…!」
噛まれた左腕を狙って鞭を下される。
男達は青が王と同じ言語を話せると踏んだようで容赦はしなくなった。しかし訛った言葉は青には大体が上手く聞き取れない。なんとか意味を推測できても青は彼らが求める情報を持ってなどいない。
「何も吐かないぞ。人質にでもするか?」
「あんな場所にいた奴だ。王から見放されたんだろ。逃げ出したなら見つかれば打首行きだろうな」
「そもそも一国の王がたかが愛猫の為に動くわけがない」
「一理ある」
男達はこの半地下のような小屋を潜伏場所としているらしく、偶に出て行っては帰った仲間と何かを話し合う。
今この国に争いは起きていない。それでもこうやって狙うものがすぐそこにいる。
王さまが危ない。
何も言ってやらないぞと心に決めた。
だから失神するまでずっと痛めつけられている。
「お前は死にたいのか」
し。
死んだって、いいよ。
だって、俺には帰る場所なんてないんだ。
弱くて情けなくて弱虫の自分は王さまの隣には相応しくないから。嫌われたから。
それでも俺は、嫌いじゃないよ。
だから、ファラオのことを、守りたい。
これは明瞭を模しても他の誰でもない、青の心からの想いだった。
「ッ……ぁッ…、ぅ…げほ、」
腕、脇腹、太腿。鞭を振られて血が散っても痛みに目を開く事さえ億劫になった。声だけが勝手に出て乾燥した喉が苦しい。
意識を落とす事さえ許されない。
このまま、死ぬだけ。
死ぬまで、思い続ける。
どうかファラオが、危険な目に遭いませんように。
王は追わなかった。
沈みかけの太陽に照らされながら地図を広げて討論する。
ふと横目で脇を見ても無邪気に笑う彼はいない。
この感覚を知っている。
故郷へ帰そうと砂漠へ送り出した時、彼の進路は蛇行し迷っているようだったと尾行して護衛に付くよう命じた兵士が言った。水分補給もせず諦めたように倒れ込んで動かなくなった青を心配した兵士らは青を抱えて王の元へ戻ったのだった。
居場所の無いであろう彼は暫くすれば帰ってくるだろうと思っていた。左腕も痛むはずだ。しかし。
5日経った。
あの人見知りで臆病な彼が砂漠で生きていけるのか。
この国に青の言語を知るものは居ない。あまりの苛立ちから荒げた声の返答に彼が叫んだ言葉の意味は分からない。が、あれは誰を真似てもおらず彼自身の感情であっただろう。彼の模倣する相手は勇敢で自信の溢れた人物だ。感情に流されるようなことは無いに違いない。
王には『仲直り』という概念が無い。王にとって味方と敵は綺麗に区別される。仲を違えれば直様敵となった。好意か敵意か。その点他者と違いあからさまな好意を向けない青は王にとって特別な存在であった。
少し、胸の奥が騒つく。
「ファラオ…!」
「…どうした」
早足で此方へ向かう兵士に顔を向ける。兵は息を切らして焦っているように見えた。
「巡回兵が町でこれを…!」
「……!何処だ、示せ」
美しい膝掛け。青が部屋を飛び出た際に握りしめていたものだった。
王が短く命ずると卓上の地図に兵が指差す。
彼とも視察に行った場所。その地域はそれ程豊かでは無い。歩くには遠い。獣が出る。異国の服。言葉が通じない。傷が癒えていない。何も持っていない。それで5日間。
頭が情報を弾き出した、その最後。
近くには、敵の偵察兵の潜んでいた小屋がある。
「馬を引け」
「しかしファラオ御自身がこのような、」
「黙れ」
王の身を案じて止めようとする声を無視して部屋を去る。慌てて駆けつける衛兵らに外套を掛けられる。引かせた馬に跨り灯も持たずに橙に輝く砂を駆けた。
王の馬は国で一番早い。兵を置き去りにして町に辿り着く。馬で行けどもう日は落ちた。暗がりのなかを昔の記憶を辿って馬を進める。暫く行けば灯が見えた。町から外れながらも人の存在を示す小屋。
馬から降りて剣を抜く。
躊躇わずに扉を開けた。
石階段を降りれば錆びた香りがする。
「何者だ!…ッぐぅ、」
腹を一突きした。脇から出た男は喉を捌く。真正面から向かう短剣を払い落として袈裟斬りにする。
パッと血を払う。目の前を見据える。
鎖の下がる場所には錆びた赤色が染み付いていた。その床に最後の1人が尻を着く。
フードの下から目元を見た男が驚愕した。
「ッファラオ…!」
片手でくるりと剣を回して逆手にする。頭蓋を仕留めようと狙いを定めた。
その男の奥に、脚が見えた。
階段を降りる複数の足音が聞こえてくる。王は振り下ろす手を止めた。
「彼奴を捕らえよ」
男は王の後を追った衛兵らに取り押さえられた。それを背後に部屋の奥へ向かう。格子扉の脆い金具を壊した。
「……ゔ、ぅ…」
「…青」
青は、血塗れだった。
王は剣を落として膝を着いた。
鞭で打たれたのか、服は破れ、肌は裂け、目を背けたくなるような傷で覆われていた。
青は魘されたように酷い声を上げてから胸元に置いた右手に力を入れた。そこからは血が流れている。
王は血も気にせずその手に触れた。開かせようとする力に抗うように力を込める手を無理矢理離させた。
出てきたのはあの金細工の鳥だった。翼の部分が掌に食い込み血を流したらしい。
「ぅ、ゔ……ファ、ラ、オ…」
そのか細い声に王は目を見張る。
彼の意識は無い。それなのに。
「…っ、ラ、ぉ……ふぁ、…ら、…」
酷い痛みに魘される彼が助けを求めたのは故郷の誰の名でもなかった。
兄弟でも、友人でも、模倣する相手でもなく。
他の誰でもなく、私を呼んでいた。
「…この、じゃじゃ馬め……私を困らせるのが、本当に得意なようだ……」
羽織っていた外套で青を包む。ゆっくりと抱き上げた。
傷だらけの身体は何処を支えても肉に触れてしまい青は苦しそうに顔を歪めた。
「っうゔゔ、…ああぁ」
「…辛抱せよ」
フードを下げて顔を隠してやる。彼は人に注目される事が苦手だから。
「ファ、ラオ……っ」
「此処だ」
声がする。
王さまの声がする。
あぶない。
「にげて、…にげて、ファラオ、にげて…」
「大丈夫だ」
瞼が少し開く。涙でぼやけて白んだ視界がぐにゃりと曲がって戻るのを繰り返している。
沢山の医師に囲まれて治療を受けていることも、ここが自室であることも、まだ青には気が付けなかった。
いたい。くるしい。
「うゔ、…ううぅ」
「案ずるな」
頭がじんじんする。身体が熱い。全身が痛い。
無意識に指に力を込める。
掌に、何もない。
王さまのくれた、金の鳥は?
どこ、どこ、どこ?
くるしい、くるしい、くるしいよ。
「っうゔぅ……っ、い、いたい…っ」
額に温もりが乗せられる。
知っている。一度は逃れられないと絶望した手。それに今は安堵を感じた。
青の目はやっと王の輪郭を認識する。
「ふぁ、ら、お…っ?」
「此処に居る」
「くるし…っ、あぶない、だめ、…っ、ら、お、」
「私は此処に居る」
王を見ても、情けないからと強がれなかった。安心して、安心して、苦しい気持ちがたくさん溢れる。
しかし今の状況はぐちゃぐちゃの頭では整理できず、王さまが危ないと警鐘を鳴らす思考と安堵が混ざり合った。
「にげて…っ、うぅ、ああぁ…っ」
「治療だ」
震える指に冷たいものが置かれる。それはちゃり、と金属音を立てて、握らないように開かせたまま王の手で優しく蓋をされた。
その途端、左腕に激痛が走る。
いたい、いたい、こわい、こわい。
「っにげ、て…いたい…っ、こわい、ファラオ…っ」
「大丈夫だ。眠るまで側に居よう」
ぼろぼろ溢れる涙を拭われる感触がする。
王さまの声は優しくて、一緒に居てくれるような気がして、ほんの少しだけ、痛みが和らいだ。
「おいし」
「そうか」
笑えば王は簡単に応えて腰掛けた椅子から頭を適当に撫でる。その頬は少し緩んで見えた。
『ふゆかい』と言われてもう居場所が無いと思った。一度城から出ていることもあり追い出されると思った。
でも身体を起こせるくらいになっても、1人で食事を摂れるようになっても、放り出すような事は何もされなかった。代わりに沢山の果物が乗った籠を毎日持って来る。木の苗も置いていくので部屋は緑が増えた。動けない青に代わって水をやってくれる。
なんとなく分かった。
やっぱり、売り言葉だったんだ。
青には何故あの時王が苛立ったか理由は分からなかったが、別に良いかなと思っている。
時間は沢山ある。言葉を勉強して話が出来るようになろう。
「物で解決とは。なんてお方だ」
「言葉が通じぬにどうせよと」
白髭の老人は駒を進めながら冗談らしく言う。
青は老人の視線に気付いてベッドの上から食べかけの果物を見せた。
「おいし」
「それはよろしい」
老人の言葉は分かりやすい。意味が分からなくても、表情で何となく見て取れるから。
最近は老人を連れて来ることが増えた。2人で机で遊んでいる。時折ほんの少し話す程度でも、1人だとつまらないから青は嬉しかった。
近頃は自分が寂しくないように来てくれてるのかな、とか思っている。流石に自意識過剰かな。
「医師から聞きましたぞ。振る舞いが不愉快と仰られてこの青年は酷く傷付いた顔で何かを言い放ち走り去ったと」
ふゆかい、と聞こえた青の肩が跳ねる。そうっと視線で伺えば、老人は王と話しているようで自分に向けた言葉ではないらしかった。
ほっとして果物片手に首飾りを弄る。陽射しを乱反射するのが面白くてクルクルと弄んでしまう。
助けられた時より随分健康そうな体型に戻った。あと少しで歩けるようにもなるだろう。
老人はそんな青に目を細めながら王に言う。
「簡単な事。好ましいと仰ればよいではないか。このまま幾度も仲違いされては困りまする。それくらいの単語は教えました故」
青が籠に手を伸ばすと同時に王も手を出した。気付いた青はお気に入りの果物を掌に乗せてあげた。
それをひと口齧る。籠はまだ山盛り。青が幸せそうに果物を頬張っている姿から視線を老人に戻した。
「これが通用しなくなったらな」
王はそう言って老人の駒を倒した。