その絵は、あまりに美しくて、美しいが故に脆く見えた。
まるで弱さを掻き消すみたいだった。
階段の踊り場には絵を掛けていることが多い。
それは卒業生の作品だったり、現在在籍している生徒の作品だったり様々で、定期的に違う絵に掛け替えられたりもする。
そこを通る一瞬、ちらりとその絵たちを見やるのが、私は大好きだった。
だからびっくりしたのだ。
最近掛け替えられたのであろう、その絵はキャンバスの大きさを感じさせないほどに壮大で美しくて、圧倒的な強さを感じた。
「何してるの?早く行かなきゃ遅れるよ」
友人の声に、現実に引き戻され、そして自分が絵のすぐ側まで来ていることに気がついた。
そうだ、早く教室移動しないと、さっき授業が少し長引いたのもあって時間がないんだ。
『ごめん、すぐ行く』
そう言って友人のもとまで駆けて行き、2人でほんの少し息を切らしながら教室にたどり着いた。
「夢主、絵好きだったっけ」
お昼休み、友人とご飯を食べてると、そういえば、という顔をして聞かれた。
『絵?うーん、好きでも嫌いでもないけど、どうして?』
「さっき吸い寄せられられたみたいになってたじゃん。あそこに飾ってる絵、あんなに齧り付いて見てる人初めて見たもん」
口をもぐもぐさせながら尚も、いやあ、ほんとさっきのはほんとすごかった というように話を続けている。
なんだかちょっと恥ずかしいな。誰にも言わないでくれるといいんだけど。
『あれって描いたの在校生なのかな』
「どうだろ、名前見てないからわかんないな」
もし在校生なのであれば、会ってみたい。
できることなら、それを描いた意図を知りたい。
何を思って、何を隠したのか。
日直になった水曜日、5時間目の授業のために書類の束を美術室に運ぶ仕事を請け負ってしまった。
友人に付いてきてもらうのは申し訳ないので、1人で校舎を移動する。
というか、あれ、この階段って、
やっぱりそうだ、と顔を上げると あの絵 が飾ってあった。
何度見ても美しい。キャンバスに切り取られた別世界が広がっているようにも思える。
あ、と思い作者名を確認すると、そこには 幸村精市 の文字が載っていた。
幸村精市、聞いたことがある。
この前、テニス部が全国大会で準優勝したとかで表彰式が執り行われていた。この人は確か、その部長だったはずだ。
というか、その容姿や人となりからかなりのファンがいたような気もする。
文武両道とはまさにこのことか、と彼に二物も三物も与えたくせに自分には何も与えなかった神様を恨みながら、再度美術室に向かって歩を進め始めた。
誰もいない教室はいやに静かだ。
昼だというのにあまり光が入ってこないこの教室はなんだか物々しくて、できることなら1人きりにはなりたくない。
ちょっと早く来てしまったみたいで、授業が始まるまで何をして時間を潰そうかと悩んでいると、隣の美術準備室の扉が開いていることに気がついた。
画材やらなんやら置いてあるだろうに、上階とはいえ如何なもんかと思いつつ、なんとなく覗いてみると、驚いた。
いたのだ。人が。
見えてはいけないものな気がして、足りない知識を振り絞って除霊の方法を思い出す。
まあそんなことしても、ないものはないので、わなわなと震えながら目を凝らして、今起きていることを理解しようと試みる。
それ は、窓から差し込む柔らかな光に包まれながら、何かを掴んで、キャンバスに走らせて、制服を着て、青い髪で、あれ、あの人見たことがある。
今度はどこで彼を見たのか、思い出すことに努める。
彼は、この前の表彰式で体育館のステージに立っていた、そうだ、部長の
『幸村精市……』
「呼んだかい?」
その人は、差し込む光よりも眩しくて穏やかな微笑みでこちらを向いた。
どうしよう、あんなすごい人と話すつもりなんて全くなかったから心の準備が何も出来ていない。
なんで名前を口に出してしまったんだ。
ん?待って、さっきの、なんか気づいてたみたいな言い方だったような
『もしかして気づいてた?』
「そうだね、美術室に向かう足音が聞こえたし、なんならさっき君は俺の事幽霊とかそんな類のものだと勘違いしただろう?」
すごい、なんでもお見通しなんだな、と思っていると、ふふっという笑い声が聞こえた。
「君は嘘が下手だな。顔に全て書いてあるよ」
『あ、ごめんなさい。ここに人がいると思ってなくて、きっとここに違う人がいてもそういう風に見えてたと思うから気にしないで………』
声がどんどん尻すぼみしていく。
初めての会話なのに、これじゃ印象が悪いどころの話ではないだろう。本当に申し訳ないなあ
なんかもっと気の利いた事が言えたらいいのに、なんて思いながら思いを馳せているとあることを思い出した。
『あ、そうだ、あの絵、あの踊り場に飾ってある絵、すっごく綺麗だった』
そう言うと、幸村くんは少し目を見開いたように見えた。
「驚いたな、あそこに飾ってある絵の作者名まで見る人がいたなんて」
『教室移動の時とかに何となく見る程度で普段はそこまで見ないんだけど、でも、あの絵だけは違くて、なんていうか完璧なくらい綺麗で非の打ち所もないほどで、それがなんだか辛そうに見えたから』
だから、誰がどんな思いで描いたのか気になっちゃって、と言うと幸村くんの顔が少し曇った気がした。
もしかしなくても余計に墓穴を掘ってしまったのかもしれない。
取り返しのつかない状態にあたふたしていると幸村くんはゆっくりと口を開いた。
「そうか、バレちゃったんだね。」
「あれを描いたのは1か月前、2学期が始まってすぐの頃だよ。ちょうど8月末に全国大会があってね。そこで負けたんだ。」
『でも準優勝したんでしょ?私テニスのことよくわかんないけど、沢山ある中学校のテニス部の中で2番目になったって凄いことだよ。』
表彰式のとき、校長も言っていた。栄誉ある賞だって。皆で讃えようって。
「違う。俺はあいつから全てを奪ったのにその上で負けたんだ。惨敗だよ。そして、ようやくその事実を受け止められるようになった頃、忘れないようにと筆をとったんだ。だけど出来上がったものはあまりに酷くてね。我に返ってそれを見た時はびっくりしたよ。自分が生み出したものだなんて信じたくないくらいに。」
『でも、それとあの絵は』
「うん、描き直したんだ、上から。自分勝手だろう、見たくもないくらい酷いものを作っておきながら、どこかで残しておきたい気持ちもあったんだ。そうして閉じ込めたんだ。強くあるために、あの日を忘れないように」
その目はどこか遠くの何かをしっかりと見つめているようで、息を飲むほど美しかった。
「あ、ごめん、話しすぎちゃったね。気にしないで。」
そう言って、さっきの穏やかな表情に戻った幸村くんは筆を片付け始めていた。
『ごめん、変な事聞いちゃったかな』
初対面の人にこんなに内面的な話をさせてしまって申し訳ないどころの話ではない。
嫌な気分にさせちゃったかなあ
「全然。むしろ少し楽になったよ。こんな話、今まで誰にもした事がなかったから。」
その微笑みに嘘なんかなくて、本当に少しだけ、ほんの少しだけ肩の荷が降りたみたいだった。
『良かった。嫌な気持ちにさせちゃったかと思ったから。』
「最初にお化けだと思われたんだ、今更どうって事ないよ」
はははっと声を上げて笑う幸村くんに、はっとした。
『あ、あの、その節はほんとにごめんなさい……』
「いいよいいよ、そんなに謝らないで。そうだなあ、じゃあ代わりに来週の水曜日の昼休み、ここにおいでよ。その時間は決まって絵を描いてるんだ。」
『いいけど、でも私絵のことなんて何も知らないよ』
「大丈夫、君とは不思議とたくさん話したくなるんだ。花は好きかい?今描いてるのは秋の花の絵でね、」
『あの、お花も、その、あまりよく知らなくて』
そういうとまた、はははと笑われてしまった。
もしかして、幸村くんって結構いたずらっ子だったりするんだろうか。
「大丈夫だよ。教えてあげるから。それに、」
すっかり片付けを済ませた幸村くんは、私の横を通り過ぎざまに告げた。
「もうここへ来るのは平気だろう?」
ああ、やっぱりいたずらっ子だ。