体調不良 この日ばかりは、レオが家に居なくて良かったと思った。身体は鉛のように重く、布団から出るのも億劫だ。喉が痛く、気のせいか熱っぽい。扁桃腺でも腫れてしまったのだろうか。イタリアの空気は乾燥しているし、その上最近仕事続きだったしねぇ。いくら気をつけていても、体調を崩す時だってある。自分に少しだけ甘くできるようになったのは、あいつと一緒にいるお陰なのかもしれない。
レオは今日本にいる。この家にいるのは自分一人だ。咳をしても、大丈夫かセナ!? なんて飛んでくるやつもいない。とても静かだ。誰にも不調を知られることもなく、何日か大人しく過ごしてゆっくり休養を取ればそのうち治るだろう。
「食料の買い置き、あったかな……」
冷蔵庫の中が空っぽ、なんてことはなかったはずなのだけれども、今の体調に合わせた食材が入っていたかは覚えていない。トマトだけはレオが商店街に行く度に誰かから貰ってくるので、トマト鍋のリゾット、なんていうのもいいだろう。ただ、それを作る元気が自分にあるかどうか、というところだ。正直に言うと今日のところは、ない。
寝返りをうって、スマホを手に取る。新着メッセージを開くと凛月から、月ぴ~とご飯中。なんて、オムライスの前で盛大にピースをしているレオの写真が送られてきた。楽しそうでなにより。ご飯、ちゃんと食べてるんだねぇ。たまに、空腹で行き倒れてたよ。なんて他人から知らせが入るのだから、食生活を心配してしまうのだ。手短にメッセージを返していると、今日のご飯の写真送ってよ。なんて返ってくる。
女子じゃあるまいし、いちいちご飯の写真なんて撮るわけないでしょ。バカじゃないのぉ?
第一、今日はご飯も作らず寝ようとしていたのだ。ここで既読スルーを決め込むか、見栄のためにご飯を作るかは悩むところである。
ただそのあとに、セッちゃんのご飯見たら、月ぴ~霊感湧くかもって。なんて追記されてしまっては、もう作るしか選択肢が残されてないのであった。
トマトリゾットが出来上がる頃には、だいぶ身体が不調を訴えていた。写真を撮って送ったあと、なんのコメントもつけずに画面を真っ暗にした。
ひと仕事終えたあとは、目眩すら感じてすぐにまた布団に潜り込んで気絶するように眠った。やっぱり作るんじゃなかったかも。食欲もなく、ただゴミ箱に捨ててしまうことになってしまいそうなリゾットは、一口も体内に入ることもなく、コンロの上で寂しく、冷たくなっていった。
どれだけ寝ていたのかはわからないけれど、目が覚めると部屋は明るいままだった。仕事はなかったので何時まで寝ていても誰にも文句は言われない。親元を離れるとは、いい意味でも悪い意味でも自由だ。
昨日よりも幾分か体調はマシになったけれど、その分声が掠れていた。咳払いをしてみても、少しだけ違和感が残る。まぁ、この分なら次に日本に帰る頃には治っていることだろう。
「……れおくん……なんで……?」
「あ、セナおはよ~」
リビングに行くと、パクパクと昨日泉が作ったリゾットを口に放り込んでいるレオの姿があった。あれ、昨日は日本にいたよね? その上、しばらく帰ってこない予定のはずだ。なんで、どうして、の疑問が止まらなくて、上手く言葉にならなかった。
「セナのご飯、食べたくなったから!」
質問の意味を理解したのか、答えはすぐにレオの口から発せられた。ご飯食べたくなったからって飛行機に乗ってフィレンツェに帰ってくる奴がいるか! と言いたいところだったけれど、まさに目の前にはその信じられない光景がある。
「ん? なんかセナ、風邪っぽい?」
「……っ!」
ああ、嫌だ、本当に嫌だ。さっき一言しか発してはいないのに。いつもは全く泉の疲労度なんか、気にしない癖に。こちらを伺うような透明感のある瞳で見ないでよ。
「熱は?」
「……ないと思う」
「いつから?」
「……昨日から……」
「ふぅん? 昨日リッツと連絡とってただろ? その時に言えばすぐに帰って来たのに」
「……言わなくても、帰って来たじゃん」
体調が悪いから帰って来て欲しい。なんて、女々しくて言えないでしょ。別に一人で寂しいわけでもないし、重病でもない。あんたがあと三日くらい帰って来なかったら治ってたんだからねぇ。
「リッツが『今日のセッちゃん素っ気ない』って言ってたから、ちょっと気にはなってたんだけど帰って来て正解だったな~? リゾット、すごく美味しそうだったから食べたくなっちゃって」
「帰ったらなくなってるかもって、思わなかったの?」
「そしたらまたリクエストする! セナはきっと作ってくれるから!」
にぱ、と花が咲きそうなほどの笑みでこちらをレオは見てくる。日本とイタリアの距離をなんだと思っているんだろう。日本でもトマトリゾットを出してる店くらいあるでしょ。
「それより、お鍋の中全然減ってなかったけど、もしかして食欲ないほどしんどいのか?」
「ん……まぁ、今なら食べれそうだけど」
「じゃあ、リゾットおれ入れるから座って待ってて」
「え……うん、ありがとう」
せっせとレオはリゾットを温めなおして、お皿に入れてくれた。昨日は食べる気がしなかったリゾットも、今日なら味わって食べられそうだった。ただ、目の前のレオが食べる様子をニコニコしながら見ていたのは少し許せないけれど。
「せっかく帰ってきたんだし家事はおれが全部するから、セナは寝てて!」
「今日は元気だから、別にいいのに……」
「いつもはセナに任せっぱなしだからな~! たまにはちゃんとやっておかないと」
食べ終わったら強制的にベッドに連れて行かれて、一歩もここから出たらダメだからな! と言い残してレオは去っていった。ドタドタと、洗濯機の方へ行ってスイッチを入れる音がした。カチャカチャと食器を洗ったり片付けをしたりする音も聞こえる。ほら、帰ってきた途端騒がしくなる。ああ、うるさい。こんなのでゆっくり寝れるわけないでしょ。と思ったけれど、レオが一緒にいる生活音に、なぜだか酷く安心してぐっすり眠れてしまったのは、気のせいじゃないかもしれない。