目の前、正しく言うならば足元でこちらを見上げている物体を目にして、江澄は瞬きを繰り返した。
本来であればこの部屋は藍曦臣にあてがった部屋だ。日中は仕事で町のほうへと行かなければならないから好きに過ごしてくれと言っており、今までも江澄が不在の時に来た際は、この部屋で瞑想などをしていた。
だが今この足元にいるのは一体なんだ。
白く小さくふわふわとして、黒いつぶらな瞳とつんと上を向いた濡れた小さな黒い鼻。金凌に与えられたばかりの仔犬の頃の仙子と同じくらいの大きさの毛玉だった。
閉じていた口を開いて、小さな桃色の舌がはッはッと息を吐く。
犬だ。
おそらく犬だ。
初めて見る種類ではあるが犬だろう。
仔犬かと思ったが目がしっかり開いて、輪郭もしまっているためこの小ささで成犬だと江澄は判断した。
問題は、なぜこの藍曦臣にあてがった部屋。江家私邸の一角にあるこの部屋の中に、見ず知らずの見たことのない犬がいるのか。
「澤蕪君? 藍曦臣? 藍渙?」
藍曦臣が連れて来たのだろうかと名前を呼んでみるが姿も気配もしない。まだ来ていないのだろうか。だが先日の手紙のやり取りでは、午後には蓮花塢に着くと言っていた。
「藍渙!」
もう一度強く呼んでみるがやはり聞きなれた声の返事はなかった。その代わり聞きなれぬ声での返事が足元からあった。
「キャン」
仙子の鳴き声よりも高いのは身体が小さいからだろうかと思わずどうでもよいことを考える。
「いや、お前のことは呼んでいないんだ。俺は、藍渙を」
「キュウ」
白い毛玉が小さな首を傾げて鳴く。お座りをしていた状態から立ち上がりとことこと江澄の足元にまとわり付き、キュウンキュウンと鼻を鳴らす。なんだか何かを訴えているようだ。江澄はしゃがんで白い毛玉を抱き上げた。軽い。あまりにも軽い。三毒よりも軽い気すらする。顔の高さまで持ち上げると、ヘッヘッと短く息を吐いていた白い毛玉の舌が、ペロリと江澄の鼻を舐め口を舐めようと狙ってくる。ぱたぱたと前足後ろ脚尻尾を動かして、江澄の穴という穴をねらおうとしてくる。
「おい、ちょと待て! 落ち着け!」
慌てて顔からその身体を遠のけた。
「一体何なんだ。お前。藍渙は来てないのか」
「キュウン」
また鳴く。江澄が「藍渙」と名を呼ぶたびに、まるで自分の名を呼ばれたかのように、この手の中にある白い毛玉、もとい犬が鳴く。
「お前の名前が藍渙なのか?」
そんな馬鹿なこともあるまいと口の端を上げながら犬に尋ねると「キャン」とやけに嬉しそうに元気よく鳴いた。
「金凌」
ヘッヘッ。
「阿凌」
ヘッヘッ。
「魏無羨」
ヘッヘッ。
「聶懐桑」
ヘッヘッ。
「含光君」
ヘッヘッ。
「藍忘機」
ヘッヘッ。
偶然だろうと知己の名前を呼んでみても、犬は舌を出して短い息を吐くばかり。時折自分の鼻をぺろりと舐めるような反応しか返さない。
いやいや、まさか。そう思いながらも江澄は眉間にしわを寄せた。
「……藍渙」
「キャン」
嬉しそうに犬は尻尾を振った。江澄は思わず天を仰いだ。
江澄は犬を片手で抱いたまま室内の椅子に腰かける。じっと腕の中の犬を眺めた。そして最近やって来た商人に聞いた話を思い出す。
妖魔の仕業かはたまた怪鬼の仕業か。東瀛でおかしな奇病が流行しているらしい。その奇病というのが、疲れると人間が一時的に小さなふわふわとした毛玉のような犬に変じるという。
ふざけた奇病ではあるが夜狩で妖魔怪鬼を鎮めている仙師であればこそ、そういうこともあるのかもしれないと妙な納得をしたものだった。
犬に変じた人間は、甘やかしちやほやとすれば元に戻るらしい。なんだそれはと聞いた時は一笑に付したが、いざ目の前の犬を見ると笑っていられない気がしてきた。
左手で犬を抱き、右手で犬の頭を撫で、顎の下をくすぐる。
状況を落ち着いて整理すべきだと江澄は深呼吸をした。
数日前に交わした手紙によれば藍曦臣は本日、江澄が町へと出ている間に蓮花塢に到着するはずだった。今まで藍曦臣は早く到着することはあれど、遅くなることはなかった。なので本来であれば、藍曦臣はすでに蓮花塢に到着しており、この部屋にいるはずだった。
最終的に江澄の部屋で寝るとしても、本人不在の部屋に勝手に入り込むような不躾な真似はしない。魏無羨と違ってうろうろと屋敷の中をうろつくこともない。この部屋にいるはずの藍曦臣がいない。
そして藍曦臣の代わりに見覚えのない見たことのない白い毛玉のような犬が一匹。しかもこの犬は、他の名前には何の反応も返さないくせに「藍渙」と呼ぶと返事をする。
さらに最近耳にした東瀛の奇病。気にかかるのは、最近藍家宗主は酷く忙しいという噂も流れている。
疲れていると犬になる東瀛の奇病。
いるはずなのにいない男。最近忙しくてひどく疲れていると聞く。
いないはずなのにいる犬。いるはずの男の名前にこたえる犬。
これらのことから導かれる結論としては、今己の腕の中で腹を出して心地よさそうに撫でられているこの犬が東瀛の奇病にかかった藍曦臣である、ということだった。
じっと腹を出してる犬を見る。よくよく見ると雄だった。雄なら藍曦臣である確率があがる。真っ白な毛が姑蘇の藍氏である藍曦臣に見えなくもない。
「藍渙。貴方なのか。そんなに疲れていたのか?」
「キュゥン」
「この部屋に来て、犬に変じてしまったのか? その割に服も抹額も落ちてなかったな……。身に着けているものごと犬に変じるのか……。奇病というよりも呪いの類だな」
「キャゥ」
「俺が貴方を甘やかして、元に戻してやるから、心配するな」
「キャン」
返事をする犬に江澄はそっと微笑むと犬を抱いたまま部屋を出た。早く甘やかして藍曦臣をもとに戻してやらねば、とただそれだけが頭を満たしていた。
江澄は知らない。
最近。雲夢江氏の領内で起こる大小さまざまなことに翻弄されて、町の住人からも門弟からも「最近江宗主は酷くお疲れのような」と噂になっていることを。
江澄は気が付いていない。
自分がひどく疲れており、宗主としての仕事以外では正常な判断が割とできなくなっていることを。
犬を藍曦臣に戻すべく江澄は犬を甘やかした。それはもう甘やかした。望まれるままに撫でてやり舐めさせてやった。食事も柔らかく野菜と肉を塩抜きで煮込み、自ら食べさせてやった。風呂にも入れて洗ってやった。だが夜になっても犬は藍曦臣に戻らない。
江澄はだんだんと不安になった。何故戻らないのか。自分の甘やかしが足りないのか。それとも東瀛の奇病よりもさらに重いものにかかってしまったのか。
「藍渙。これ以上俺はどうしたらいいんだ? あと、貴方を甘やかすとしたら……」
牀榻に上げて一緒に眠ることだろうか。今まで仙子だって、甘やかしても牀榻に上げたことなどない。だがこれは犬ではなく藍渙なのだから、牀榻にあげたとて問題はないのではないか。別に一緒に寝るだけだ。何もやましいことなどない。江澄は自分に言い聞かせた。犬を抱いて牀榻へと向かおうとしたとき、扉がたたかれた。
こんな時間にいったい誰か。家僕は通いで寝泊まりはしていない。
「誰だ」
誰何する声がやや厳しくなる。左手に犬、右手に三毒を握り扉に近づく。
「江澄。申し訳ありません。遅くなりました」
聞きなれた声がして江澄は混乱した。扉の外から聞こえて来たのは、聞き間違えようのない藍曦臣の声だ。だが藍曦臣は腕の中にいるこの犬に変じたのではないのか。声真似をする妖魔怪鬼の類か。だが蓮花塢には妖魔怪鬼の類が侵入できないように、雲深不知処ほどではないにしろ結界が張ってある。結果が破られた様子もない。
江澄はゆっくりと扉を開けた。
「あぁ、よかった。もう寝てしまったのかと」
目の前に現れたのは藍曦臣だった。声も香りも顔も纏う雰囲気もすべてが江澄のよく知る藍曦臣で、これが幻だとしたらよほどの術師だ。
「藍渙?」
「ええ」「キャン」
目の前の藍曦臣と腕の中の犬が同時に返事をする。
「おや、可愛らしい。飼い始めたのかい? 見たことのない犬だけれど」
「本当に、藍渙? だって貴方は今日の午後に来るって」
「えぇ、その予定でした。ただ、遅くなりそうでもしかしたら今夜、もしくは明日の朝になるかもしれない、と急ぎ文を出したのだけれど、届いてなかったですか?」
そういえば家僕から文が来ていると声をかけられた気がする。犬を甘やかすのに夢中になって読んでいなかった。
「俺は、てっきり、貴方が……犬に……」
「何のこと?」
江澄はそっと腕に抱いていた犬を床に降ろす。犬は江澄の足にまとわりついた後、何事もなかったかのように、まだ薄く開いたままの扉から外へ出て行ってしまった。
勘違いだったのか。
藍曦臣だと思って膝に乗せ甘やかすだけ甘やかし、褥の中でもめったに言わないような江澄にしては精いっぱいの甘い言葉もかけてやったが、あれはただの見ず知らずの犬に言っていたのか。
勘違いだと気が付いた途端に羞恥で顔が熱くなる。
「東瀛の奇病に貴方がかかったのだとばっかり……」
「あぁ、小さな犬になるっていう? 姑蘇のほうでもその噂は聞いたことがあるけれど。あの犬を私だと思ったんですか?」
名前を呼んだら返事をしたのだ。江澄は羞恥で少しばかり涙を浮かべながら藍曦臣を睨んだ。
「じゃあ、あの毛玉はなんだ?! 妖怪の類か?」
なんで蓮花塢の奥にある江家の私邸に、ちょうどよく藍曦臣にあてがっている部屋の中にいたのだ。都合がよすぎるではないか。
思わず藍曦臣の胸倉をつかんだ。
「……ただの、通りすがりでは?」
「通りすがるか! どうやって通りすがるっていうんだ?! おい! 周り水だぞ?!」
「私に、聞かれましても……。って、痛い。痛いですよ。江澄。人の腹を正拳突きしないで」
いい加減なことを言うなと完全に八つ当たりではあったが、江澄は左手で藍曦臣の厚い腹筋を殴った。殴る手はすぐに藍曦臣に掴まれて止まった。三毒を取り上げられて、卓の上にそっと片付けられると、抱きしめられてなだめるように背中を撫でられる。
「江澄、貴方疲れているんですよ。ん? そういえば、私の代わりにあの犬を甘やかしたんですか?」
「仕方ないだろう! 元に戻してやろうと思って」
俺は被害者だ騙された。甘やかし損だ。ともうどこかに行ってしまったただの通りすがりだった犬にぶつくさと文句を言っていると、うん。と藍曦臣がやけに楽しそうな声を上げた。
「江澄。実は、言っていないことがありまして。あなたの目には私はいつもの、人間のように見えるかもしれませんが、実は、私今犬なんです」
「は?」
「なんで、人間に戻れるように甘やかしてください」
「そんなわけがあるか! おい! 放せ!」
「はははは。ワン」
「吠えればいいってもんじゃない! おいこの恥知らず! 降ろせ!」
ふわりと身体が宙に浮き、易々と藍曦臣に横抱きにされる。まっすぐに藍曦臣が進む先は犬と一緒に寝ようとしていた牀榻で、甘やかせといった割にもう嫌だと泣きが入るまで江澄は甘やかされた。