『禁じられた遊び』②三途春千代「乾赤音と乾青宗の話をしてやろうか」
深夜の東京湾。『梵天』を裏切った逃亡者の始末をして、迎えの車を待つ間。九井一はぽつりと言った。暗闇に紛れ九井の顔は見えない。声だけが響いている。
三途春千代は舌を打つ。乾姉弟は九井一の急所かと思っていたが、そうではなかったのか。腹の探り合いを楽しむ甲斐のない男に肩をすくめる。
「赤音さんはオレの初恋の女だ」
九井が知っているいちばん身近な女と言えば母親だが、はっきりといえば売春婦だった。九井をこの世に生んでくれたことは感謝しているが、それ以外のすべてを軽蔑している。ヤクザの情婦だったこともあり、そんなときは九井も麻薬の売買を手伝わされたこともあった。そんなとき稀に母親以外の女と接することがあったが、ろくな女ではなかった。あるいは不幸な女ばかりだった。
そんな女たちと乾赤音は真逆の存在だった。彼女の明るさや朗らかさはまばゆくて、九井の目を焼いた。
「こんな女を好きになりたいと思った」
「最低だな」
「ああ、赤音さんはそれを見抜いていた」
はじめくんにははやいんじゃないかな。ちゅーは好きな人とだよ。また今度ね。はじめくんが大人になったらね。
のらりくらりと逃げつづけた赤音とは、けっきょく手をつないだことすらない。
「乾赤音はまっとうな女だったということだな」
そのとおりだ、九井一は頷いた。
「赤音さんは知っていたんだ。俺がイヌピーを通して赤音さんを見ていたことを」
「どういうことだよ」
「イヌピーが赤音さんに似ていたんじゃなくて、赤音さんがイヌピーに似ていたんだ。」
でも彼女は俺のために墓を掘ってくれない。
夏祭りの金魚すくい。家で飼育していた金魚が死んだとき、乾は親に黙ってこっそりと公園の片隅に穴を掘り、金魚を埋めて、墓を作った。金魚の『ココ』の墓。
「馬鹿なイヌピー。公園に金魚を埋めちゃいけないんだぜ」
乾家で飼育されていた金魚はもう一匹。姉弟は一匹ずつ連れ帰ってきたのだ。姉は赤い金魚。弟は黒い金魚。先に死んでしまったのは黒い金魚だった。赤音さんはちゃんと飼育していたから、金魚は二年生き延びた。長寿を全うしたというわけだ。
ある日、腹を浮かせて水槽に浮いていた赤い金魚を見つけたのは弟だった。二度目の愚挙を侵そうとした弟を、止めたのは姉の赤音さんだ。だめだよ、青宗。かわいそうだけど、勝手にお墓を作っちゃダメなんだよ。
「赤音さんはきちんと分別して処分した」
「生ごみとしてゴミ箱にポイってしたわけか」
ウェ、と春千代は舌を出す。
「さすがに弟には見せなかったけどな」
「女は怖いな」
九井は首を横に振った。
「それがまっとうな生き方だ。赤音さんはきちんとした人だった。まちがえているのはイヌピーのほうだ」
でも。
「イヌピーならオレのために墓を掘ってくれるかもしれねぇ。なにせオレは『ココ』だからな」
そのために選んだ名前だ。そのためだけに。
「馬鹿なのか」
「ああ、知ってる」
九井は嬉しそうに笑った。
車のライトがふたりを照らす。ようやく部下のお迎えがやってきた。この話はこれでおしまい。
「オレの初恋とオレの純愛の話だよ」
「聞いてねぇし」
オェ、と春千代はえずいてみせた。