きみはのらいぬ 九井が職員室に呼び出されたのは、金曜日の放課後だった。まだ若い、新卒でこの高校に採用されて三年目の、いまどき珍しい熱血教諭というやつだ。正義感があり、教育熱心で、それでいてユーモアもある。イケメンとまではいかないが、そこそこに容貌もよいため、生徒から莫大な人気がある。そんな彼は、いわゆる優等生である九井を呼び出したことに、申し訳ないと謝った。呼び出したのは、おまえのことじゃないんだ。彼から呼び止められた時点で、ある程度のことは察している。
「じつは乾のことなんだ」
そうだろうな。予測していた九井に、ほっとしたような顔をして彼は頷いて、そして溜息をつく。
乾青宗。
彼の名をこの高校で知らぬ者はいないだろう。
火災に合い、姉を亡くし、家庭から顧みられない少年。
裕福な家庭の子息が通う私立の高校での彼は、まるで羊の群れの中に紛れ込んだ野良犬のようだった。
そんな彼に気兼ねなく話しかけるのは九井くらいで、彼と九井が幼馴染である事はこの教師を含め、周囲に知られていることである。
「なにか問題でも? 出席日数が足りないとかですか?」
「いや、まぁ、それはなんとか。乾もそのあたりはちゃんと把握しているようだしね。もしかして九井が教えてやってるだろ」
「まぁ、それは計算すればいいだけですから。じゃあ、なにが問題なんですか? 三者面談はけっきょく電話で済ませたと聞いていますが」
「ほんとうは駄目なんだけど、どうしてもご両親は都合がつかないらしく、特例でね」
どうしても都合がつかない、ね。
そのあたりの事情は彼もうっすらと把握しているだろう。なにせ乾の両親は息子に関することにいっさい口を出さない。
この呼び出しも、乾を指導しようにもろくにつかまらず、本来学園に来るべき両親が拒むため、しかたなく九井に切り出したというところだろう。
「先日、乾のクラスメイトがトラブルを起こしたんだ。知っているかな」
「喧嘩をしたという話なら聞いています」
口論ならともかく、手が出たという話は珍しい。九井の耳にも入っていた。
「それを止めたのが乾なんだ。なんていうか、喧嘩慣れしているだろう? 間に入ったらしいんだ」
「本人から聞きました。うるさかったからと言ってましたけど」
「うん。まぁ、そこまではよかったんだけど、どうやら止めてくれたことを彼らがひどく感謝しているようでね」
「はっきり言っていいですよ。そいつらのどっちかがイヌピーのことが好きになったんでしょ」
彼は二度三度またたきをした。乾の愛称がイヌピーであることを、いま知ったと言わんばかりに。そして気まずそうな顔をした。
「うん、まぁ、そうなんだ」
「喧嘩慣れしていないやつは喧嘩の強い奴に憧れるもんですよ」
「そういうものかな」
「ここのやつはエスカレーター式であがってくるやつも多いから、イヌピーみたいなのは珍しいんですよ」
「まぁ、乾はきれいな顔をしているしなぁ」
「それで、オレはなにをすればいいんです?」
「九井は乾と仲がいいだろ。教師の言うことは聞かなくても、友達の言うことなら聞くかもしれないし、それとなく注意をしてほしいんだ」
「わかりました」
九井は大きく頷いた。本当は笑ってしまいたかった。
あんた、なにもわかってねぇなぁ。
イヌピーのことも。オレのことも。
神妙な顔をしてみせる九井に彼は「頼むよ」と手を合わせた。
彼は教育熱心な若手で、ベテランの教師たちが見て見ぬふりをするのが歯がゆいのだろう。だから担任ではないのにもかかわらず、九井に声をかけた。正義感があってユーモアがあって、生徒から絶大な人気がある。そういう驕りもあっただろう。
なんて馬鹿な奴だろう。純情なクラスメイトを手を出すなと注意しろだって? 笑ってしまう。どんなに優秀な生徒だって、そんなこと友人に言うものか。おまえだって数年前は学生であったはずなのに、教師になると頭が悪くなるのか。しかもよりにもよって九井に声をかけるなんて、なんて馬鹿な奴だろう。
家庭が複雑で、親から顧みられない乾が、どうしてこの私立の学園に通っているのか。すこし考えればおかしなことくらいわかるだろうに。
莫大な寄付金を九井が払ったからだ。
羊の群れに紛れ込んだ野良犬は乾だけではない。優等生の皮を被り、水面下で金を稼ぐ九井こそ、質の悪い獣だった。
校舎から出ると、日は陰りはじめていた。グラウンドでは野球部員が声を張り上げている。この学園は野球に力を入れているため、彼らのために用意された枠がある。乾が入学できたのは、その枠にむりやり押し込めたからだ。グラウンドひとつ整備するくらいの寄付金がかかったが、さして問題のないことだ。
九井は制服のポケットからスマホを取り出した。どうせ乾はスマホを見てくれないので、さいしょからGPSのアプリを見る。どうやら乾は校舎裏にいるらしい。
業者が手入れしている花壇を横目に、足を動かす。擦れ違った生徒が九井を見て、さりげなく、しかし確実に道を譲った。顔を見ればいちど取引をしたことのある生徒だ。
裕福で何一つ不自由のない暮らしをしているはずのこの学園でも、九井の力を必要とする者はいる。逆になにも知らぬまま生涯を終える者もいる。あの教師はおそらく後者だろう。だからなにもしらない。なにもしらぬから、乾を「きれいな顔をしている」なんてしゃあしゃあと言えるのだ。
九井はいちども足を止めぬまま、乾がいるであろう場所に辿り着く。清潔に整えられた学園のなかでは比較的さびれた場所に、乾はいたが、彼ひとりではなかった。
靴底が砂を踏んで音を立てた。生徒が振り返って、九井を見て、バツの悪そうな顔をする。
「イヌピーになにか用でもあるのか?」
「いや、その、」
「黒龍に入りたいなら、オレに言えよ。イヌピーに言っても無駄だぜ」
しどろもどろになった彼はばたばたと去っていった。九井は芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「イヌピーのクラスメイト?」
「覚えてねぇ」
「はは、イヌピーらしいな」
ややネクタイの結び目が緩いとはいえ、制服がどこか怠惰に見えるのは、彼自身がそうであるからだ。
「イヌピーの副担任からクラスメイトを誑かさないでくれって言われたよ」
「誑かしてねぇよ」
「そうだな。イヌピーはなにもしてねぇ。勝手にこっちが狂っていくだけだ」
九井の声に乾は心底ふしぎそうな目をする。乾は他人に興味がない。彼が関心を示すのは、黒龍のこと。そして九井に関すること。自惚れではないことは、彼の顔を見れば分かる。では、黒龍と九井。どちらのほうが乾のなかで比重が大きいだろうか。ああ、これではクラスメイトらと同じだな。乾に惹かれてしまう気持ちは分からなくもない。おかしくなって、九井は笑った。急に笑い出した九井を乾はやはり不思議そうに見ている。年齢相応に見えて、かわいく思えた。野良犬なんてとんでもない。乾はいっとう美しい。磨き上げればますます光り輝くだろう。
「それよりさ、イヌピー、なんか食いたいものある?」
「なんだよきゅうに」
「イヌピーに美味しいものを食べさせたくなった」
幼馴染の手を捉えて、指を絡める。外にいたせいか、その指先はつめたい。こんな場所に乾がいたのはあのクラスメイトのせいだと思うと腹が立つ。
「そのあとセックスをしよう」
「……ボスに呼び出し食らってなかったか?」
「取引があったとか言えばなんとかなるだろ」
「ずるい奴だな、おまえ」
「それくらいイヌピーとセックスしたいってことなんだけど」
顔をあげ、乾が九井を見る。
たしかに乾は幼いころから整った容貌をしていた。けれどそれだけだった。影が生じたのは火事にあってから。乾が目を惹くのは傷跡のせいではない。彼の中にある濃厚な死の匂いを嗅いだ時から、乾から離れがたくなる。それだけならまだしも、九井と一線を超えてから、乾は性まで匂わせるようになった。しかも乾自身はその魅力を知らず、無防備で無造作だ。強かで危ういうえに、脆さと儚さまで兼ね備えた。むろん何も感じぬ者はいる。先ほどの教師のように「乾はきれいだからな」なんて言える連中もいる。それはけして少なくはないし、むしろ大多数だろう。
けれど一方で乾に焦がれ惹かれる者もいる。そのひとりが九井だ。最初のひとりであることは九井の誇りであり、最後のひとりになりたいと努力を重ねている。
そんな九井の懊悩を知らず、乾はあっさりと「下着を買ってくれるならいい」と言った。
下着。
買うけど、なんで急に下着。
「おまえがいつも駄目にするからだろ」
「うん……うん? ……え?」
皮膚のうちがわから火照って、乾のしろい頬が赤くそまっていく。それは目の端にうつる夕日よりも美しい。
「え、イヌピー、もしかして、いまなにもはいてないの?」
「出席日数足りないから、今日はぜったいに来いって言ったのココだろ」
たしかに言ったおぼえがある。乾の出席日数をコントロールしているのは九井だ。たしかに言った。
金の管理をしているのも九井だ。極端に物欲がすくない乾は滅多なことで金を必要としない。腹を満たす程度の小銭があれば十分だった。たまたまそれを使い切ってしまったのだろう。下着を買う金がなかった。
幼馴染がとんでもない思考をすることは知っていたが、まさか下着を履かず制服を着るなど予想外だ。禁欲的な制服が途端に直視できなくなる。いや、見るけど。なんならガン見してるけど。ぎゅっと手をにぎりしめる。
「やっぱ飯は後。そのまえにセックスしよう」
「ココ、やらしい顔してる」
「だれのせいだよ」
「オレのせいならうれしい」
男を誑かす性質を持っているくせに、乾は少年らしい顔で笑う。はい。オレの負け。降参。オレのイヌピーしか勝たん。
手に手を取り合って、校舎を出る。まだ校舎に残っていた生徒が教師が、驚いた顔をしてふたりを見る。もしかしたら駆け落ちのように見えるだろうか。それはさすがにロマンチストすぎるか。
やがて夜の帳はおりていく。九井はうしろをふりかえらない。迫りくるなにかに気づかないふりをして、強く手を握り締めた。