催眠術と降志宮野志保は催眠術など信じていなかった。
それは酔った戯れにやったこと。
正直効果など期待していなかったのに。
目の前で服を脱ぎ始めている恋人、降谷零の姿に、まさか、という気分になる。
二人でワインを飲みながら見ていたテレビでやっていた簡易的な催眠術の方法。
お互いに笑いながら、やってみようか、なんて。
***
「手を叩いたら、降谷さんは私の言うことをなんでも聞くようになるの」
テレビでやっていた手順を終え、最後の一言。
じっと彼の青い瞳を見つめながら、ぱちん、と手を打った。
かかった感じはしないな、と苦笑する降谷に対して、志保は試しに言ってみる。
「あなたは、これから語尾に必ず『ニャ』をつけて喋らないといけません」
ぶは、と降谷が吹き出す。
「はは、三十過ぎた男にそれはキツいニャ」
ぱちりと瞬いたのはかけた側、かけられた側の両方。
「……嘘でしょ?」
「嘘だニャ…………ッ!?」
降谷はぱっと両手で口元を押さえる。
その仕草にわざとらしさは見えなかった。
「志保……なにかおかしな薬でも僕に盛ったんじゃないのかニャ」
言い終わると同時に降谷は悔しそうな表情で唇を噛む。
「薬なんかでこんな効果出るわけないでしょ……え、どうしよう。どうしたらいい?」
「とりあえず、さっきの命令を取り消してくれ……ニャ……」
どうやら一瞬語尾を我慢したようだが、強迫観念が沸き上がっているのか、逃れることはできなかったらしい。
志保は慌てて、先程の命令を解除する。
「語尾に『ニャ』をつけるのはおしまい。普段通りに話して」
「……治った、か? あ、大丈夫そうだな」
降谷はホッとした様子で喉に手を当てた。
「あなたがこんなのにかかると思わなかったわ。大丈夫なの? 仕事に支障あるんじゃない?」
「い、や……多分かけた相手が君だったからだろうな。催眠って、かけられる側がリラックスしていたり、相手のことを信頼している、みたいな条件が重なって成功するものだから」
「なにそれ、怖いわね……。私がパンツ見せて、なんて言ったら、あなた脱ぎ始めるってこと?」
冗談めかして言った言葉だった。
かちゃり、という金属音は彼がベルトのバックルを外した音。
え、と目を見開いている間に、降谷はベルトを抜いてスラックスの前立てをくつろげる。そのまま立ち上がると、スラックスを脱いでソファの背にかけた。そして、ご丁寧なことに、ワイシャツを軽くめくり上げて志保に見せつけるのは、ピンクのボクサーパンツだ。
それはいつだったか、あなたベビーフェイスだからピンク似合うわよね、と志保が買ってきたものだった。
「これ、身体が勝手に動くわけじゃないな。君の言葉にすごく強制力がある感覚だ。逆らうこともできなくはなさそうだけど、すごく精神力が削られる」
降谷によって冷静に分析された言葉に、志保は声に詰まる。
どうやら、最初に言った『私の言うことを聞け』とい命令を解かない限り、彼は志保の言葉に従ってしまうらしい。
一体、どこまで彼が従ってくれるのか。
そんな好奇心がむくむくと湧き上がってくる。科学者としての性だから許して欲しい。
「……なにか良からぬことを考えてるだろう」
考えが顔に出ていたらしい。
「だって、あなたが私の思い通りになるなんて、こんな機会ないもの。せっかくだから、楽しませてもらうわよ。ちゃんと最後には解くから安心して」
「まったくもって安心できな……」
「シャツも脱いで、下着一枚になって」
言いかけの言葉を詰まらせると、降谷は徐にシャツのボタンを下から外し始めた。毎日していることなので手際はいい。数秒でボタンを外し終わってしまうと、彼はシャツを脱いで靴下と一緒にスラックスの上に置いた。
綺麗に筋肉のついた上体が志保の目の前に現れる。
「本当にかかってるのね」
「……不本意ながらな」
軽いため息を吐きながら、次の命令を待つようにこちらを見つめる降谷に、志保はどうしようかと思いを巡らせる。
突飛なことをさせたいというような考えはない。
だが、半裸の恋人が目の前に立っているのだから、なんとなく不埒な方向に思考が流れてしまうのは仕方のないことだ。
「……き、キスして……?」
降谷は志保に近づくと、ソファに片膝を乗せて顔を寄せた。躊躇いもなく、唇が触れてすぐに離れる。
「……もっと」
ふ、と降谷が笑った気がした。彼の指が志保の下唇を開かせ、そこから舌が侵入してくる。志保の舌を弄ぶように舐め、舌根を刺激するようになぞった。ソファの背もたれに志保を押し付けて、志保の深くまで舌が潜り込んでくる。
彼から唾液が流れ込み、志保は甘さを感じながらそれを飲み込んだ。
数秒ほどで深いキスは終わり、降谷は身体を起こす。
その頬はどこか赤らんでいて、優しく目を細めて彼は志保を見つめた。
「服を脱がされるから、何かの実験台にでもされるのかと思ったら、キスしてほしいって……君、可愛すぎるだろ……」
笑いを隠すように、降谷は片手で口元を押さえた。ぷるぷると肩が震えているのがわかる。
「う、うるさい。これからよ、これから!」
「パソコンのパスワードは言わないぞ」
「バカね。あんな薄氷みたいなセキュリティ、いつでも入り放題よ」
「待って、志保。それ詳しく……」
「その話はまた明日。さあ、お姫様抱っこして、ベッドルームまで連れて行ってちょうだい」