想い出の味昨夜しんしんと音を立てて降り続けた雪も止み、ほの白く夜空を覆っていた雪雲はどこかへ流れ行き、まさに晴雪。
柔らかく暖かな陽光が溶かした雪が、時折屋根や枝葉から落ちる音を立てていた。
雪の照り返した光が室内へと差し込み、華やかな切り絵や福画を照らし、飾られた水仙と共に春節の晴れやかさを浮かび上がらせているそんな日。
復興した四季山荘の一部屋では、白絹もかくやという美しい髪をふわりふわりと揺らしながら、忙しなく動く姿があった。
朝早くからずっとトトトトトと包丁がたてる子気味いい音と、ふんわりと食欲をそそる匂いが漂っている。
既に様々な料理が別室の卓の上に並び、調理の終わりが見えてきた温客行はふう、と満足気に息を吐いた。
「薬味はこれでいいし、魚、春巻き、汤もこれでよし。後は餃子で終わりだな」
「そうか、なら俺は成嶺の所へ……」
その声に振り返れば、餃子の皮を作るのを頼んでいた周子舒がニッコリ笑って立ちあがろうとしていた。
「もう皮は作り……終わっていないじゃないか阿絮〜〜?」
卓の上にはそれは不恰好な餃子の皮と思わしきものが散乱し、作ろうとした努力はわかる。
わかるが逃すわけにもいかない。
「せめて皮だけは手伝うって言ったのは阿絮だろ?」
「だがな、俺が作るとこれだぞ?お前が作った方がよほど早いじゃないか」
やれやれと頭を振りながら周子舒がベロンと持ち上げたそれは、穴が開き端もボロボロで確かに酷い。
温客行は苦笑しながら周子舒の向かいに腰を降ろし、まだまだ残っている小さく切られた皮の生地へと手を伸ばした。
「私も手伝うから、ほら。成嶺たちも飾り付けが終われば来るだろうし、これは家族で作る物だろう?」
「仕方ないな……春節だしな」
苦笑してため息をついた周子舒も再び生地へと手を伸ばす。
打ち粉を振り小さく切ってある生地を、小さな綿棒で丸く伸ばしていくだけ。
武芸に関してはあれだけ細やかな男なのに、なぜ料理に関してはここまで不器用で適当なのかと、温客行はいつも不思議で仕方がない。
こうして新たな四季山荘で春節を祝うようになって、まだ数年。
氷の世界でしか生きられないニ人だったが、成嶺が再興したここは武庫に近くなった事もあり、雪に覆われる春節だけでもと顔を出すようになった。
例え料理は食べられなくとも、初めてこの再興の地で成嶺と春節を祝った日、料理を食べた成嶺の顔を見てからは温客行が料理を作るのは恒例行事となった。
もう何年が経つのだろうか。
あの日それぞれが葛藤や秘密を抱えたまま三人で祝った春節。それぞれ胸の奥底であの日のことは優しい記憶として刻まれているのだろう。
そんなことを思わせるような、成嶺の表情だった。
今はさらに成嶺が娘として引き取った子までいる。
温客行は「料理をするのは好きだし、それを食べて美味しいと幸せそうに笑ってくれるのはもっと好きだ」と笑う。
だからこそ、料理をするのは全く嫌ではないのだが、疲れるものは疲れるのだとも。
「あ〜〜疲れたよ阿絮〜〜後で私を甘やかさないとダメだよ」
「はいはい頑張ったな。甘やかすかは別として本当にすごい量だな。弟子たちは皆家へ帰っているのだろう?」
周子舒は厨房を見渡し、別室の卓を思い出す。果たして何人分あるのだろうか。毎年量が増えている気がする。
「弟子全員分よりも食べるおいぼれ妖怪が来るだろうからな。文句を言わせない量を作ってやるさ」
ふん!と文句を言いながらも、手際よく皮を伸ばしていく。
手間がかかって仕方ないと愚痴る温客行だったが、毎年来年はあれが食べたいこれが食べたいと言い去っていく葉白衣の希望料理が、ちゃんと準備されていることを周子舒は知っていた。
会うたびに増えている白髪に、悪態はつくが会える限りは料理を振る舞おうと思っている事も。
だからこそ手伝いたい気持ちがあるが、いかんせん料理の技術は一向に身に付かなない。
何せもう氷雪しか口にしないから、練習の機会もないし尚更だと言い訳のように独りごちる。
「なんでお前はそんなにあっさりと丸くなるんだ」
「私はむしろ、なんでそんなに破れるのかが不思議でならないよ」
「……料理は昔からよく作っていたのか?」
ふと思った疑問を聞いてみた。谷主が料理を手ずから振る舞うとは思えない。
母親から教わったにしても、幼い頃のものだろうにと。
温客行はふ、と手をとめて視線を伏せたまま再び生地に手を伸ばす。
「……料理を覚えないと生きていけなかったというのもある。何せ、自分で作ったものでないと何を入れらたものかわからなかったし……食いしん坊もいたしな」
手を休めることなく話す温客行の切なくも優しい表情に、あぁ、と周子舒は腑に落ちた。
顧湘。
幼い頃に面倒を見ることになったというあの妹分を、まだ己だって子供だったこの男は必死に育てようとした。
(そういえば、はじめて粥をあげた時に火傷をさせたと言っていたな)
女衆が面倒を見てはいたのだろうが、生きる最低限の範囲だったのかもしれない。
鬼谷という過酷な環境で、あの子があれほど優しい娘に育ったのはこの男が優しいからだと思っている。
そういえばあの娘も料理の腕が良かった。
顧湘と共にこうして餃子を作ったこともあったのだろうかと、勝手に思いを馳せる。
「……誰かを想い覚えた料理だから、お前の飯は美味いんだな」
「阿絮も私のために作ってくれていいんだぞ?それとも作ったご褒美をくれる?」
温客行がニヤリと笑みを浮かべ、手を止めて顔を近づけてくるが手を振って追い払う。
ぐしゃぐしゃになった皮を再び丸め、仕切り直しながら周子舒もニッと口角を上げた。
「氷柱を折ってきて口に突っ込んでやろうか?」
「阿絮が折ってきてくれるのならご馳走じゃないか」
皮の生地は全て伸ばされ、途中から温客行は既に具を包み始めていて、みるみるうちに餃子の山を作っていく。
春節らしく様々な具を包みどんどん形になる餃子の横で、皮から具を盛大にはみださせて破っては唸る周子舒の元へ元気な足音が聞こえてきた。
成嶺はもうこんな足音は立てることはない。
となればそれは、
「いい匂い!」
鼻の頭とほっぺたを真っ赤にした念湘が、ひょこっと扉から顔を覗かせた。
春節にしか顔を出せない為に、まだあまり会った回数もなく少し人見知りをされるが、いつもなら少したてば本来の懐っこさを発揮してくるのだが。
料理中の温客行に駆け寄っては料理中は危ないと注意されるのが常だったというのに、今日はどうしたのか顔を覗かせたままモジモジとしている。
どうしたのだろうと温客行と周子舒が顔を見合わせていれば、念湘の上にもう一つの顔がひょっこりと顔を出した。
「いい匂いですね、師叔!」
「俺も手伝っているんだけどな?」
「あっすみません師匠!……食べれば味は一緒です!」
宅の上の惨状を一瞬で悟った成嶺は、慣れたように宣言して娘の横にしゃがみこむ。
「念湘、ほら」
「う〜〜でも」
「早くしないと溶けてしまうよ?」
ヒソヒソと話す親子に、温客行はどうしたのかと声をかけた。
「念湘、とりあえず寒いから中へ入りなさい。お湯の近くは駄目だぞ?」
ほらおいで、としゃがんで目線を合わせ手を伸ばした温客行に、念湘はどうしようと成嶺と温客行と周子舒の顔をぐるりとみてから、おずおずと何かを手にして中へと入ってきた。
「あのね、これ、あげる」
温客行と周子舒の顔を見ながら持ち上げたそれは、板の上に幾つも並んだ小さな雪の塊だった。
子供の手が握った形がそのままのようなそれは、小さな雪兎でも作ってくれたのだろうか。
周子舒も温客行の横にしゃがみ込み、受け取りながらお礼を言おうとしたが、続いた言葉に言葉が止まる。
「あのね、私餃子が大好きなの。それでね、前の春節で食べた餃子がとっても美味しくて、でも2人とも雪しか食べられないんだよって、父さんが言ってたから……これなら食べられるかなって!」
えへへ、と照れくさそうに笑った姿に、もしかしてこれはと周子舒は大事に板を受け取った。
「これは……もしや雪で作った餃子か?」
「うん!頑張って作ったの!」
チラリと扉をみれば、微笑ましそうな顔をした成嶺が覗いていた。
(すっかり父親の顔をするようになったな。身寄りのない赤子を引き取ると聞いた時はどうなることかと思ったが)
ふ、と微笑み雪餃子を摘んで口に運ぶ。
「よくできているな。……うん、美味いぞ!老温が作ったのより美味いかもしれないな」
「本当!?あのね、あのね、これはちょっと失敗しちゃったんだけどね」
受け取ってもらえた事に安心したのか、いつもの快活さを発揮して雪餃子の説明をする念湘に微笑む周子舒は、こっそり隣で唇を噛み締めている温客行を肘で小突いた。
(老温、感動して泣くなら後にしとけ)
(あ、阿絮……)
「ほら、老温口を開けろ」
周子舒は仕方ないやつだなと小さく笑い、雪で作った餃子を摘んで隣で泣きそうな顔のまま噛み締めている口元へと当てがう。
氷雪で生きていると言っても体温までが氷になった訳でもなく、唇の熱でスルスルと溶けていく塊に慌てて温客行は口をあけ、舌の上でシャリ、と雪を味わった。
冷たい雪が喉を通り過ぎて行くほど、喉の奥がツンと熱くなる。
「うん……うん、美味しい。すごく美味しい」、
「やった!父さん!美味しいって!」
念湘は料理のできる温客行にも誉められて、嬉しいと言わんばかりに成嶺に駆け寄り足元へ抱きつく。
成嶺はその小さな体を抱き上げ、温客行の背中をぽんぽんと叩く周子舒の元へと歩いてきた。
「前回お二人がいらした時、どうして一緒にご飯を食べないのかと聞かれ、話したことを覚えていたらしくて」
「そうか。優しい子だな」
周子舒が微笑みながらもう一つを口にする横で、潤んだ瞳で念湘を見上げた温客行は、整った指先で雪餃子を宝物のように摘み上げる。
外から入り込む光に照らされて、少し溶けかけたそれはキラキラと輝き、愛おしげに目を細め口に含んだ。
「……あぁ本当に美味しい。特にこれなんか、ほら、見てみろ阿絮。どう見ても餃子だ。しかも湯気まで見えるようだ!」
温客行は、軽口を叩きながらどんどん雪餃子を口にする。
「本当?本当に美味しい?」
「念湘が私たちのために作ってくれたものが、美味しくないわけがないだろう?来年も作ってくれるか?」
「うん!」
「あぁ、こんなに手が真っ赤になって……霜焼けになってしまう。おいで、薬を塗ってあげよう」
「師叔、それなら私が」
成嶺から念湘を奪い優しく腕に抱えた温客行に、慌てて自分がと再び抱き上げようと手を伸ばすが、くるりと楽しげに避けられてしまった。
「いいからいいから。あ、全部具は包んでおくんだぞ。……念湘、阿湘と呼んでもいいか?」
「いいよ!あ、いいですよ!」
念湘を抱っこした温客行は、ニコニコと念湘と微笑み合いながら厨房を出て行った。
「全く、相変わらずあいつは母親のようだ。成嶺、念湘が嫁にいく時は大変だぞ」
どこか嬉しそうに氷水の入った徳利に手を伸ばす周子舒を見て、残された成嶺は餃子の皮を指差し、にっこりと笑い返した。
「さ、師匠も一緒に作りましょう。誰かを想い作れば、なんでも美味しい……かもしれませんよ……師叔が味付けしましたし、まぁ、大丈夫かと……後、念湘は嫁には出しません」
「ははッ!お前もか。さてうまい雪餃子をご馳走になったしな。頑張るとするか」
残された2人は、棗や落花生をボロボロと落としながらなんとか具を包んでいく。
周子舒は思う。
きっと念湘が結婚する時がきたら、温客行は様々なことを思い出すのだろう。
辛い事が沢山あった。
それでも、新しい思い出の前で幸せな涙を沢山流させてやりたいと思う。
「師匠、流石にこれは酷すぎます」
「茹でれば食える。お前もさっきそんなような事を言ったろう」
「そうですけど……」
どっちもどっちな師匠と弟子が苦戦していれば、外から賑やかな声が響いてきた。
「葉先輩が来たか」
相変わらずの口喧嘩に被さる念湘の楽しげな笑い声。
聞いているだけで二人の口元は緩んでしまう。
喜びも悲しみも、笑い合うことも泣くことも出会いも別れも、過ぎ去っては思い出として新しく降り積もる。
まるで武庫の万年雪のようだ。
「さて、これを茹でればいいんだな?」
「し、師匠!師叔を待ちましょう!呼んできます!」
慌てて厨房から出ていく成嶺に、流石に茹でるぐらいは俺だってできると思うぞと鼻を鳴らす。
ふと外を見れば澄んだ青空が広がり、蝋梅が雪の中で綻び始めていた。
念湘が花火を楽しみにしていたのを思い出し、今夜の花火はさぞよく見えるだろうと安堵する。
いつかこの日のことを懐かしく思う日がきっと来るのだろう。
その時には、ニ人で雪餃子を作ってもいい。
「老温、お前とならどんなに降り積もる雪でも耐えられるさ」
賑やかな足音と口喧嘩が近づいてくるのに頬を緩め、周子舒は大量の餃子を湯の湧いた鍋へぶち込んだ。
終