真の良薬とは「魈様!ああ、よかった。おいででしたか」
「……重雲か。何度も言うがお前を妖魔退治に連れては行かんぞ」
「うぅ……わ、わかってます。そうじゃなくて」
これを届けてほしいと頼まれまして。
そんな言葉と共に差し出された見覚えのある箱を受け取りながら、目の前の膨れ面に気取られぬように息を吐いた。
――連理鎮心散。背負った業障に毒された気と精神を正常なものへと整え、我が我のままでいる為になくてはならないもの。
そろそろ切らしそうだと思っていた矢先の届け物。送り主など、聞かずともわかる。御力を手放されても尚、何もかも見通されているのだろうか。ありがたいことだ。
……そう、実にありがたいことではあるのだが。
今日はまだ服用していなかったことを思い出し、心に若干の陰りを落とす。
しかし服用を怠ればどうなるかなどはわかりきっているし、何よりもあの方が手ずから用意してくださったものを無下にするなどありえない話だ。
飾り紐を解いた箱の中から、三角に折られた小さな薬包紙を一つ取り上げる。中にはごく小さな丸薬が三錠入っていて、手に広げたそれを口へ放り込む。相変わらずの味に思わず眉間に力が篭もる。
傍らの重雲から差し出された水と共に、一気に胃へと流し込んだ。
嚥下するまで此方を眺めていた重雲がどこか申し訳なさそうな面持ちで口を開いた。
「あの、魈様。その薬……連理鎮心散、ですか」
「ん?……ああ、そうだ」
「…………」
「鍾離‘殿’から聞いたのか」
「あ、いえ、あの方からは何も……ただ、大切なものが入っている、とだけ……」
凡人の口から薬の名称が出て来たことに些か目を見開いたが、名を口にした少年の出自は我も知ったる長く続く方士の一族。
仙薬の存在と、それぞれの効能や由来に明るくとも何ら不思議ではなかった。
途中で言葉が途切れてしまった重雲の顔は、伏せられた目から今にも涙が零れだしてしまうのではないかと思わせる程に暗く沈んでいた。
長きに渡り璃月に澱み続ける闇に対し、未熟さ故に‘裏’の存在である我に背負わせすぎているのでは、などと‘また’くだらぬことを考えているのであろう。
この身への同情の念程、我にとって役に立たぬものは無い。此奴……いや、この‘表’の一族にしてみれば、底なしに近いこの命を、それでも削って責務を果たす夜叉の姿こそが、自分達への戒めになっているのだろうか。……お前が、お前達が気にするようなことではない、と何度言っても聞きやしない。
――とはいえ、人の世から夜叉と共に存在も製法も忘れ去られて久しいこの仙薬を、一目で連理鎮心散と見抜いたその勤勉さは褒めてやってもよいかもしれぬ。
「よく知っているな。鍛錬ばかりでなく、勉学の方も励んでいるのだな」
「……っ!」
勢いよくあげられた顔は、つい今しがたの沈んだものとは打って変わり、どこか嬉しそうな様子を浮かべている。
この単純さに少々心配にもなるが、此奴のこの裏表のないところは好ましくも思っている。
「実は、方士としての修行の他に魈様や他の仙人様達のお役に立てることはないかと模索しておりまして。仙薬についても色々調べているところなのですが、何分今まで実物を見たことがなく……」
「今日初めて目にした、というわけか」
「はい。……意外と普通の丸薬と変わりないんですね」
鍾離殿に教えを請えば製法についても何か学べるだろうか。
まだ幾つもの薬包紙を中に残す箱を見つめながら独りごとをつぶやく勉強熱心な少年方士に、決して悪戯心が湧いたわけではない。
薬を届けに来てくれたことに対する礼として、初めて目にする仙薬について触れさせてやろうか。…そう思っただけ。
製法については我もよくは知らないが、一つだけ教えることができる。
「そんなに気になるなら……そこの包み紙に粉粒くらいなら残っているだろう」
「……よろしいのですか?」
「本来であれば微量とて凡人が口にできるような代物ではないが、お前ならまあ……紙に残った粉くらいであれば害はないだろう」
「凡人に害があるものなのですか」
「舐めてみればわかる。何、死にはせん。言っておくが……まず間違いなく後悔するとは思う。心しておけ」
手に取った空の包み紙と我の顔を、淡く澄んだ青色の双眸が行き来する。好奇心に揺れる不安げな表情のまま、紙に残った黒い粉を人差し指で掬い上げ、指先が薄く開かれた唇の中へと運ばれる様を何も言わずに見届ける。
巷で‘氷霜’と称されているらしい、幼さを残しつつも整った顔(かんばせ)が徐々に歪んでいく。
好奇心に押し負けたが故に招いた結果に、目尻に涙が溜まりだした。
悪戯好きと話に聞く此奴の友が、その胸に抱いただろう感情と同じものを胸の内に灯るのを感じながら、口を押さえ微動だにできずにいる氷霜に問いかけた。
「どうした重雲」
「ぅ……ぇ……っ、し、しょう、さま、これ……」
「ふむ。あの旅人がこれを届けに来たときは、食い意地の張ったあれの連れが誤って口にせぬよう鍾離殿に忠告されたと言っていたな。‘常人が耐えられるものではない’と言われたらしい。――ところで味はどうだ。旨いか?」
「なんでずがごれぇ…………!に……っ、にっが……っ」
「だろうな……ふ、くく……っ」
概ね予想通りとなり思わず吹き出してしまい、ひどい、白朮先生の薬より苦い、と悶える姿に、余計に笑いがこみ上げる。
口直しになりそうなものを頼んで来るといい、という我の言葉に無言のままとぼとぼと階段を下りる白い背中を見つめながら、そう遠くない未来に実現するかもしれない淡い期待に思いを馳せた。
――いつの日か彼奴が連理鎮心散を処方するようになることがあれば、もしかしたら今のものよりも幾分か飲みやすく改良されるのかもしれない、と。