酒は飲んでも呑まれるな「かわいいな」
「え?」
戸惑いの声をあげて、目を丸くした伊月がオレを見上げる。
いつも青白い顔は酒の影響で赤く染まって、さっきまで腹を抱えて笑い続けていたせいで浮かんだ涙が目を潤ませている。
やっぱり可愛いと思う浮かれた意識を、急速に呼び覚まされた理性がぶっ飛ばす。
オレは今、何を口走った。
きょとんとした顔で固まっている伊月を前に、オレも石みたいに固まった。
=== === ===
ギャンブルから引退することを決めたのは、自然な流れだった。
あのイカれた神父の思うままになるのは癪だが、自分の命と引き替えにでも守りたいただ一人の存在を、自分も相手も欠けることなく救われた。どれだけ伊月が大切だったか痛烈に思い知らされて、お互い、今後はもっと干渉しあっても良いのではないかと意見を交わした。
大切に思うあまり、傷つけることを恐れていたけれど。無意識の嘘をもう見落とさないように、これからはもっとお互い本音で語り合おうと約束した。
明日は珍しく伊月のスケジュールが一日空いてるということで、オレも時間を空けた。今後についてゆっくり話し合わないかと仕事終わりの伊月を家に呼んで、ひさびさにゲストルームを整理して、上機嫌で出迎えた伊月は見慣れない手土産を渡してきた。
「酔って良いことないし、お酒なんか飲まないほうがいいと思ってたんだけどさ。よく考えたら、ビールとかワインとかの味が好きじゃないから避けてただけなんだよね」
伊月が酒を持ってきたことも、飲もうと誘ってきたのも、初めてだ。驚きながら受け取った紙箱には、みかんの絵が描かれていた。
知り合いに勧められたのだという果実酒には、ジュースみたいな可愛らしいパッケージとは裏腹に、しっかりしたアルコール度数が表示されている。普段酒を飲まない伊月には厳しいのではないかと一応注意すれば、「介抱してくれる人が居るから大丈夫」とふざけたことを抜かした。
甘い果実酒は晩酌には不向きだろうと、食事を終えて、シャワーを浴びて、お互いラフな格好になってから、グラスを準備した。
飲酒に興味を持たない伊月に、酒の誘いをかけたことは無い。道ですれ違う酔っぱらいへ向けられる、冷めた視線の理由を知っていたから。
仕事の付き合いで口にすることはあると聞いていたけれど、実際に二人で飲むことは初めてで、今夜が伊月にとっていい夜になるようにとボトルをあける手に気合いをこめた。
悠々と二人並んで座れるソファは、この前買ったばかりのもの。
ギャンブル用口座の残金を減らすついでに、リビングの調度品をあらかた入れ替えた。使い慣れた二個一組の椅子をロングソファーに変えた思惑は受け入れられたようで、肩が触れそうな距離に座っても伊月は間合いを空けることなくそれが当然だという顔つきで笑っていた。
スウェット姿で乾杯して、甘い果実酒を飲みながらポツポツとお互いの胸の内を吐き出した。
本当はこうだった、ああだった。あれが嬉しかった、楽しかった。とろりとした濃厚な甘さに爽やかな風味が混ざる酒は、思い出話を弾ませた。
飲み慣れていない伊月に無理をさせないよう気をつけていたつもりが、ボトルの中身は予想より早いペースで減っていった。
みかんの風味が、辛味や渋味の強い酒が苦手な伊月にも飲みやすい味わいだったせいだ。「こんなにお酒が美味しいと思ったの初めて」と喜ぶので、氷を多めに足してやるぐらいしかできず、上機嫌に酒を楽しむ姿に余計な口出しをせず見守っていた。
もしかすると、こいつは笑い上戸だったのかもしれない。
いつの間にか暗い顔つきが馴染んでしまっていた細面に、楽しげな笑顔が溢れて、白い歯を見せてガキみたいに笑い声をあげていた。こんな風に声をあげて笑う伊月、いつぶりに見たか。笑いすぎて肩がぶつかってくることさえ嬉しくて、アルコールだけでは得られない多幸感に浮かれていた。学生時代のくだらない失敗を思い出して顔を真っ赤にするほどバカみたいに笑い続けていた伊月に、オレも釣られてバカになっていたわけだ。
「かわいいな」
=== === ===
最悪だ。
アルコールが一気に抜けていく。
タイミングが違う。今日はそんなつもりじゃなくて、ゲストルームの準備も済ませたし、今まで通り友人としてもてなすつもりだった。
これからはお互い無意識に嘘をつかなくていいように本音で話し合っていこうと約束もしたが、十七年隠し通してきた思いをこんな唐突にぶつけて驚かせるつもりじゃあなかった。
ミスった。これじゃまるで、オレが酒の力を借りて口説こうとしてるダセぇ男みたいじゃねぇか!
「っ……」
「……ははっ、飲み過ぎた?」
「いや、違……く、ねぇ、か」
否定しかけて、やめて、言葉の行く先が定まらない。無意識にこぼしてしまった心の声に、翻弄される。
これ以上は言ったらまずいと思う気持ちと、言ってしまえと急く気持ち。真逆の気持ちがぶつかりあって、なかなか次の言葉が見つからない。思わず片手で頭を抱えると、アルコールだけのせいにはできない火照りが掌から伝わってきた。顔が熱い。ダッセぇ。駄目だ、もうこうなってしまえば、今更誤魔化すなんてみっともない真似できねぇだろ。
「お前は、可愛いだろ」
「…………え?」
横を見れば、向こうもアルコールが抜けてきたのか、困惑するように眉を寄せてオレを見ていた。言ってしまったものはしょうがない。大きく息を吸うと、オレは座る位置をずらして上半身ごと伊月に向かい合い、一息で捲し立てた。
「冷静に考えやがれ! いい年こいた男が黒髪ロングで街歩いてても職質もされずに居られるのは、お前が、可愛いからなんだよ! オレは三日連続で職質ぶちあたるときだってあんだぞ? お前は、客観的に見て可愛い! 自覚しろ!」
「……いや、職質とか……関係なくない?」
「ある。お前が可愛いから一人で鉛筆コロコロやっても許されるし、お前が可愛いから趣味がお菓子作りって言っても誰も笑わねぇし、お前が可愛いから「社長の女」みてぇだなんだウチの奴らが騒ぎやがる!」
「酔ってるな?」
「酔ってるに決まってんだろッ!」
素面でこんなアホらしいこと言ってられっか!
ヤケクソ気味に吐き捨てると、グラスに残っていた酒を一気に煽った。酒の味なんてもう分からない。オレも伊月ももうこの辺で止めておくべき時だろうと、ボトルに固く蓋をして伊月には届かないテーブル端へ置いた。
視線が痛い。
顔を逸らしていても分かる。まじまじとこちらの様子を観察している。なんだってこんな居たたまれないことになるんだ。まさか、酒で醜態をさらすのがオレの方になるとは。
「今の話、客観的にって言ったか?」
「あぁ」
伊月の声に肯定を返す。妙に冷静な声が聞こえて、どんな顔をしているのかと横目で窺えば、赤ら顔に真面目な表情を浮かべてこちらを見ていた。
「じゃあ、ガッちゃんから見た僕は? どう見える?」
「……」
「黙るなよ」
「…………可愛いよ」
「なんで目逸らした? こっち見て言ってくれよ」
「んだよ」
「言ってってば」
「お前も酔ってんだろ」
「酔ってない」
「酔ってる」
「酔ってないから。聞かせてほしい」
しつけーやつ。人の失言につけこみやがって。
デカい溜め息をついてから向き合えば、伊月は憎たらしいほど嬉しそうに口元を緩めてみせた。
なんだその顔は。イライラしてんのか、ムラムラしてんのか、胸を掻きむしりたくなるような気持ちが爆発して、喉が鳴る。目の前のふやけた笑顔をどうにかしてしまいたい。優位に立ったような笑顔を奪って、余裕のない声を上げさせてやりたい。ずっと燻っていた飢餓感が凶暴さを増して、今すぐにでも理性を押しのけて伊月に食らいつきたいと騒ぎだす。
「こんなくたびれた男の、どこが可愛いんだ?」
「…………全部」
伊月は可愛い。世間的にはちょっと面がいいだけの陰気でくたびれたおっさんだろうが、オレにとってはたった一人の宝物だ。髪の一本一本から、爪の先まで、欠片さえ損なうことなく守ってやりたい。クソみてぇな世の中で生きていくために必要な苦しみだって、どうにかして癒してやりたい。伊月が笑ってくれるなら、オレはなんだってできるんだ。
こいつが、こいつだけが、オレをオレで居させてくれる。
心が擦り切れそうなほど疲れたときも、隣に居てくれるだけで気が楽になる。オレにはこいつが必要だと出会ったときに直感した想いが、十代、二十代、三十代と、年を重ねていく間にどんどん強くなっている。
愛しくてたまらない。
どこが、なんて。そんなちっぽけな想いじゃない。伊月の全てが愛しくて、可愛くてたまらない。伊月にだけは、理屈もへったくれもない損得抜きの感情がとどまることなく溢れてくる。自分でも呆れるほどどうしようもない感情を、殺すことも飼い慣らすこともできず、今までずっと持て余したまま伊月の横に居た。
「全部だ。全部、可愛い」
もうどうにでもなれと、覚悟を決めて白状する。
伊月の表情が変わったと思うと、パッと顔を逸らした。動きにつられて、耳にかけていた髪の一部がサラリと横顔に垂れかかる。
うつむいた顔は、さっきまでよりも真っ赤になっている気がする。
たぶん、オレも似たような顔色だろう。さっきから全身熱くて仕方ない。
「……へぇ」
「文句あるか?」
「いや、ない」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
このむず痒い雰囲気はなんだ。
いい年こいたおっさん同士が、こんな段階でどぎまぎしてるほうが恥ずかしいだろ。誰に向けてでもなく舌打ちすると、伊月が口を開いた。
「僕も、ガッちゃんのこと可愛いと思ってるよ」
「……なんだと?」
「当ててみる? 僕が思うガッちゃんの可愛いところ」
「やめろ」
この期に及んで、伊月がさらに居たたまれない方向へ話を広げようとするので、大きく首を振って反対した。
「いいのか? 聞きたくない?」
「飲み過ぎだぞ、伊月」
「お互い様だろ」
肩をふるわせて、伊月が楽しげに笑い声をこぼす。悪かない。悪かないが、良くもない状況だ。
今日はそんなつもりじゃなかったとはいえ、オレたちはいい年した大人同士で、まだハッキリと言葉にしていないだけで、お互い今まで無自覚に目を逸らしていたことに気づいた結果、親愛だけでは言い尽くせない感情を向け合っていることはすでに理解していた。予定と違う方向に話が転がっても対応できる準備は、万全に整えてある。当然だ。そんなつもりじゃなかったなんて綺麗事で場を収めて、伊月をガッカリさせることは本意じゃない。
だけど、いざこういう状況になると、友人だった期間が長いせいか無駄にむず痒い気分になって、手を握るとかキスするとかガキでもできることが異常に恥ずかしく感じてスムーズにできなかった。
「……どうしよっか」
「…………あー……」
笑い声が収まると、迷子になったみたいな声が聞こえて、ようやく肩を抱いた。覚悟を決めよう。これはもう、ここで退く方がバカだ。年柄でもない羞恥心は捨てろ。
天井を仰ぎながら静かに決意すると、また笑い声がした。今日の伊月はよく笑う。可愛い。だから、こんなにも調子を狂わされているのかもしれない。
「こういうとこ」
「あ?」
「てれやなとこ」
ぼそぼそと喋る声を聞き取って、照れ屋と揶揄われたことに一瞬遅れてから気がつく。この野郎と口を開きかけた途端、伊月がオレの肩に頭をすり寄せてきて心臓が止まった。
「僕だけが知ってる、ガッちゃんのかわいいところ」
「ッ……!!」
囁かれた声に、グッと腹が熱くなる。
どうして、こいつはこうもオレを喜ばせるのが上手いんだ。自分がこいつのために生きているんじゃないかと、錯覚しそうになる。
肩を抱く手に力を入れすぎないように気をつけながら、伊月を抱き寄せる。もう一方の腕を背中に回して、熱くなった体を腕の中に閉じこめると、頭がクラクラした。信じられないぐらいに血が沸き立って、体が震えそうになる。
「伊月……っ」
昼休みの屋上で、日の光を浴びながらサラサラと風に揺れる黒髪に、ずっと触ってみたかった。
白くて細い首を際立たせるように肩の上で揺れていた髪が、今は背中まで伸びている。長い黒髪を飽きるまで見て、自由に触れることを許される関係になれればと、何度同じことが頭をよぎっては気の迷いだと否定してきたか。
伊月の匂いとオレの家のシャンプーの香りが混ざったたまらない香りが鼻をくすぐる。頬を寄せればサラリと流れる黒髪は柔らかい肌触りで、酒なんかよりも強烈に頭をバカにする。もう一瞬だって離れたくない。ずっとこうして伊月を抱きしめていたい。
この温もりが必要だった。ずっとこれが欲しかったのだと、全身が歓喜した。
「…………ん? おい、伊月?」
オレが正気を失っていられたのは、悲しいことに僅かな間だけだった。
腕の中から寝息が聞こえてくることに気がついて、こいつ本当にマイペース野郎だなとちょっと引いた。
ありえねぇだろ。ここで寝落ちって。
「バカがよ、もう二度と飲ませねぇ」
慣れない飲酒のせいで、眠気に勝てなかったのだろう。あと一時間も経たないうちに日付も変わる。オレにもたれかかっていた体を一度ソファーに預けると、静かに溜め息をついた。
オレは分別のつく大人だ。寝てる相手の隣で大きな音は立てないし、もちろん寝込みを襲うなんてこともしない。だが、人の腕の中で眠るほうもどうかと思う。無いだろ。無い。中途半端に盛り上がったまま取り残されてしまった。
「……ったく」
妙に満足げな寝顔を睨みつけていたが、そのうち、これはこれで悪くないものが見れたと気を取り直して腰をあげた。せっかく準備したのだから、今日は当初の予定通りゲストルームに寝かせよう。
抱えあげる前に、移動中に危なくないよう、手持ちの髪ゴムで伊月の髪を緩くまとめて胸の前に流した。指通りのいい感触は名残惜しかったが、今日は大人しく寝かせてやる。
とはいえ、これぐらいは許されるだろうと、掬いあげた黒髪にキスを落とした。
「次は、寝かさねーからな」
明日の朝、どの面さげて起きてくるだろう。
少しだけ楽しみに思いながら伊月を抱え上げると、ずっしりとした宝物の重みに勝手に口元が緩んだ。
この腕の中に伊月が居る。それだけで幸せだ。
我ながら単純な男だと笑って、オレをそんな単純な男にしてくれた伊月が可愛くてたまらないのだと、改めて実感させられた。