爪先の紅 眠りの中を漂っていた。静かで安らかな泥のような眠り。
そろりと意識が浮上して横を見ると、隣の男が月明かりに照らされながら身を起こすところだった。
何も身に着けない素肌に白いシーツが撓んで優雅なドレープを作る。どこか硬質な印象を受ける村雨の身体に当たる光として、怜悧な月光はこれ以上ないほど相応しい。未だ夢の中の心地の獅子神であったが、村雨もまた普段よりは些か茫洋とした目つきで寝室の壁を向いていた。
こちらに目を向けないまま村雨は言う。
「あのクローゼットの右奥にある小さな箱はあなたのものか」
クローゼットの扉は閉まっていて何について話しているのか、獅子神に思い当たるものはなく黙って首を横に振った。
「持ってきてもいいか」
もちろん、と答えた。何を置いていただろうか。身体を起こし再度思い出そうと試みたがやはり何も思い出せない。
そのままひた、ひたと素足で歩いていく村雨の身体を眺めていた。細く無駄な肉の一切が削げ落ちてしまったような身体。普段より髪が大人しい分、より小さく見える頭。あの頭の中には空恐ろしくなる程の知性が収まっている。ただ呼吸をするように他人の心の奥を暴き嘘を嘘と見抜く苛烈な論理も今は静かに眠っているように見えた。
村雨が小さな箱を手にベッドへ戻ってくる。獅子神に背を凭れさせ体重を預けてくる。愛しい重さを感じながら村雨の手元を覗き込んだ。
赤いマニキュアだ。未開封だった。
なぜこんなものがあるのだろう。首をひねる獅子神を振り仰いで村雨が言う。
「以前の交際相手のものではないだろうか。あなたも知らない内にこっそり隠していたのだろう。別れの気配を感じた時に」
そういったことはこれまでによくあった。見つけたらその都度捨てるようにしていたのだが、見落としがあったらしい。村雨に不快な思いをさせてしまっただろうか。許しを請うように手の甲を、次に頬を撫ぜた。頬のくすぐったさに目を細めながら村雨は鷹揚に笑った。
「気にしていない。あなたは人に好かれる性質だ」
「ごめんな、お前に嫌なもの見せて」
「だから、気にしていない。……あなたが、気にしているだけだ。そうだな……ならば贖罪の機会をやろうか」
ふふ、と悪戯を思いついた子供のような含み笑いをして、村雨が脚を組み素足で獅子神の膝をつつく。
「塗ってくれ」
瞬間、村雨の纏う雰囲気が一変し下から見上げられているはずなのに高い玉座から見下ろされているように圧倒された。緋色の双眸が一切の反抗を封じるような冷たい光を湛えている。あまりにも甘く抗いがたい罰に頭がくらくらと沸騰しそうになる。
慎重な手つきで獅子神は村雨の足を自身の立てた膝に乗せた。しろく骨ばった脚は水の流れるような滑らかな形だ。
マニキュアの封を切り蓋を開けるとシンナーのツンとした香りが寝室に漂った。濃くとろりとした粘度のある暗い赤が小瓶の中に満たされている。小さな刷毛に液をつけ、そっと村雨の足の爪に色を乗せた。暗い赤が爪の上で深紅に映える。
丁重に塗り進めていき、最後に左足の小指のちいさな爪にちょんと赤を乗せた。これで最後。白い雪原に赤く熟れた柘榴が落ちる様だった。
「どうだ、似合うか?」
「ああ、似合いすぎるぐらい似合ってる」
獅子神は恭しく村雨の足の甲に口づけを落とした。