ファンチェズ/スワンプマンの失態 人間の精神を感覚的に理解することはできないとしても、肉体の反応から推測することはできる。瞳孔の開き。発汗。指先の震え。呼吸の深さ。どれもが雄弁に思考を語っていた。前の職場の人間などは、陽気に振る舞う自分を相手に「おまえに比べて彼は人の心がない」と同僚の悪口を言っていた。文学的な情緒も人間臭いためらいも、生物としての抗えない欲望も、全て肉体の反応で学び、再現することができた。
我らがボス――チェズレイ・ニコルズを盗み見る。盗み見ることは気付かれているが、チェズレイは「目的が無く自分に近寄る人間などありえない」という思想を持っているので「ファントム」から視線を向けられることで安心しているように見えた。この男もまた、財力か権力か肉欲かを求めていると、まだ思っている。
父と子のように並び、街角を歩く。薄曇りのヴィンウェイに太陽光は少なく、影も光も曖昧だった。無論、見えないよう部下たちがついてきている。護衛として。いざとなれば「得体のしれないファントム」から、ボスを守るための護衛として。
「ああ、ここです。道が細くて車が停められないので――」
チェズレイは足を止める。小さな洋裁店だった。ショーウィンドウに白いドレスをまとった女性の写真が飾られている。それに目を留め、すぐファントムへ向ける。
「こうして歩くしかない。手袋の採寸ばかりは部下にやらせるわけにいかない」
そう言うと可笑しそうに目を細める。何一つ楽しんでいない、値踏みするような紫の瞳。白いドレスを見る時の目とは違った。
シルクの白い長手袋。百合の花のブーケ。すれ違った少女の持つ白熊のぬいぐるみ。ほんの僅かな瞬間、チェズレイの目は白に囚われる。
なるほど、と思考を整理する。彼の母は濁りを恐れ死んだ。息子にも完璧を求めた。それ故に大衆では純潔のメタファーである白を好むのか。それでいて重たい色のジャケットを纏う。年若いというのに、学生のような白いシャツなどは身に着けない。母への思慕と哀悼。あるいは、強く見せるための鎧。どちらにせよ、チェズレイは白を好んでいるようだ。
舘に戻ったチェズレイは、疲れた様子でソファに座る。机には花束が乗っていた。赤を基調とし、情熱的な欲望を伝えようとするもの。金がかかった大きな花束だった。
「メッセージカードを残して捨てろ」
部下に命じたチェズレイは、何も感じていない。強いて言うなら、うっすらと怒りを浮かべている。気に入らない「蝿」からの贈り物だったのだろう。かしこまりました、と一度下がった部下が戻る前に、手を伸ばす。
花束からカスミソウを抜き取る。そろそろファントムが「蝿」でないと、並み居る有象無象から一歩リードしなければならない。花をチェズレイの顔にかざし、楽しげな声を作る。
「思ったとおりだ。ボスには白が似合うよ」
自分が知らないポジティブな特徴を言われると、人間は相手が自分を理解していると思いこむ。また、本人を褒めるよりも本人の好きなものを褒めることが自尊心の低い人間には効果的だ。人懐っこい笑顔を浮かべ、微笑みかけた。
チェズレイはカスミソウを瞳に映す。濃い紫が、滲むように濁った。
「……白を好きなのは、私じゃない」
一言。
そう告げるチェズレイの表情には、得意げな微笑も、嘲る悪意もなにもない。ただ、虚ろな胴体から響く。
チェズレイは立ち上がると、長い髪で目元を隠したまま低く笑った。首をすこし傾げ、目を合わせて言う。
「ファントム。あなたにも失敗があるのですね? 気に入られようとして、踏み外す。愚かな面が」
口角を持ち上げて、チェズレイは笑っている。思った反応ではない。判断ミスをしたというのに、それが好意的に反映されている。
「フフ。急にあなたのことが気に入りましたよ。頑張ってください、私の側近を目指して」
細い背中に髪が踊る。階段を上がって、チェズレイは消える。
俺は、疑問と共に残された。