窓いっぱいに広がった分厚い遮光カーテンのゆったり波打つひだが、一部だけ不揃いに身を寄せ合っているのが謎解きのヒントだった。
「ここにいたのかい」
「――あァ、モクマさん。なんだか、身体が火照ってしまって。すこし、夜風にあたろうかと……」
布をかき分けて重い掃き出し窓を開くと、期待通りに相棒はそこにいてくれてほっと胸を撫で下ろす。二階建てのセーフハウスのバルコニーは白いタイルが敷き詰められて広く、呼び声に首だけで振り向いた相棒は、鉄製の胸よりすこし低い場所にある手すりに身体をすっかりとあずけて……預けすぎて随分と前のめりに傾斜してしまっている。こっちを見た瞳も、声も、おなじくらいに骨のないぐにゃぐにゃの形をしていた。
お風呂を作って帰ってきたら酔っ払いの姿が消えていたから驚いた。宴もたけなわ……を過ぎた頃に「もう一歩も動けません」とか言いながら相棒がソファにひっくり返るのが合図で、そうしたらモクマはにやけて「甘えん坊さんめ」などと返しつつ細い身体を抱き上げて、甲斐甲斐しくお風呂に入れてあげる……というのが最近はやりの遊びだったのに。まあ、確かに今日は忙しく、事前に用意をしておかなかったのはこちらの落ち度かもしれないけれど……。
日付けをまたぎ、夜はより一層深まる頃合いだった。一歩進むたびにまとわりつく冷たい墨色の空気をかき分けながら歩く。
夜風にあたる、それは結構だが……、
「……ちと、薄着すぎやせんか。ズボンもゆったりしてるから風入りそうだし……酔っとるからわかんないだけで、今、かなり寒いよ」
やや早口になりながら、まるで娘を心配する口やかましい父親みたいだと思ったが、出た言葉は取り返せない。
でも、ほら、だって。息を吸うと鼻の頭がつんと痛くなった。比較的温暖なこの国でもこの時間は冷えるのだ、自分の倍ほど鼻梁の標高の高そうな相棒なら殊更だろう。
こいつにはいつだって元気にいてもらわないと困るのだ。
「ほら、着て」
「ン……」
近くまで寄って、持ってきていた厚手のニットのカーディガンを肩にかけると、傾斜のお陰で近かった目線はにわかにまっすぐに伸び、それからもたもたと袖の空洞に腕が突っ込まれた。水中にいるような緩慢な動きに焦れて手を出すぎりぎりで着替えは終わり、さて戻ろうかと思ったらチェズレイはまたくるり、手すりに二の腕を乗っけて斜めになってしまった。投げ出された細長い腕が中空にだらりと垂れ下がる。ああ、こりゃ、服汚れてそうだな、あとで洗ってやらんと。
はあ、とため息。動くつもりはないらしい。仕方ないので隣に並んで、手すりを片手で掴んで、今度はできるだけ平坦な声をつくって問う。
「何見てたの?」
「そこの」ぴったりと丈のあった袖口からのぞく几帳面にととのった爪先が、しぼんでいた風船に空気が入ったみたい、迷いない動きで何かをさした。
「ん? なあに? ……?」
追いかけるも、寄ったのは眉根だけだった。だって、モクマがどう目を凝らしてもそこには何も見えない。
唯一、見えるものといったら――、
「そこの、街灯。光の周りが……まるく、虹色に輝いているんです」
……果たして、酔いに溺れたチェズレイが熱心に見つめていたものは、モクマがこれ以外にはなにもないが、対象からは除外していた街灯だった。なにせ、地面からにょっきり伸びて途中で柔らかな九十度のカーブを描いて曲がりその先端に電灯がついて光る、ごくごく当たり前の形をしていたので……。
けれど、言われて覗き込んでみれば、人気のない場所に立つこの家の、濃い色の夜を切り抜く唯一の光源は、少し大袈裟なくらいに明るくて、確かに光の周りにあわい虹色の輪を纏っていた。……普段からこんなだったっけ。
「……ふむ。なるほど、キレイなモンだねえ」
「おや。モクマさんにもお見えになる?」
「え、見えるけども……?」
素直な感想を呟けば、いちど意味深な確認が挟まった。嫌な予感にモクマの背が丸まる。え、まさか見えちゃいけないやつだった!? カマかけられた!?
目をゴシゴシこするが、やっぱり見える虹の光輪。となりのななめ男は何がおかしいのか顔を伏せてくすくすと笑って、気が済んだころにこちらを向いて、とろけるような笑みと声を覗かせながら言った。「これ、眼精疲労じゃないと見えないらしいですよ」
「ぶはっ」
「……最近昼夜問わず資料の細かい字と睨めっこでしたものねェ……あなたにもずいぶんお付き合いいただいてしまった」
あまりにロマンのない真相に噴き出すと、それきりチェズレイの声は申し訳なさそうに覇気をなくしてしまったので、あわてて明るい声を作って手を振る。
「や、や、それはいいんだけどさ。お前さんの事務仕事手伝えることなんかそうそう無いし。おじさん、ちゃあんとお役に立ててたでしょ?」
確かに、ちょっと骨の折れる仕事ではあった。滞在地の大企業の不正の証拠を暴くため、電子化もされていない紙のリストをひとつひとつ照合していく。これになんの意味があってどう繋がるのかは、よくわからなかった。
でも、頭を空っぽにしてできる単純作業はきらいではなかったし、なにより最近とみに増えゆく優秀な構成員ではなく自分を選んでくれたことがとても嬉しかった。
一生懸命頑張った結果は功を奏し、その情報をもとにした先ほどまでの潜入も無事ミッションコンプリート。楽しい祝杯の結果が、ふたりの疲れ目の酔っ払いを生んだのだった。
「……」
じっと見つめられる。やましいことはないから、真っ直ぐ見返す。
「……それは、それは、もう……」
モクマの視線と先ほどの声の中から真実を読み取って、気遣いや負い目はかえって失礼だとでも考えたのだろう、感嘆めいた声を響かせながら前髪をかき上げるしぐさは、いつもの調子に戻そうとする意識を感じた。
「あなたの普段の大雑把さが裸足で逃げ出すほどの、正確かつ丁寧な仕事ぶりでしたよ」
「え、ホント? 嬉しいなあ」
……やっぱり酔っているから、動きはひどく緩慢だったけど。ついでに髪の生え際に差し込まれた指は力加減が効かず、金糸があちこちに跳ねてしまっている。
などということは意に介さず、いつものリズムを取り戻したチェズレイはより真に迫ってうっとり続けた。
「あなた、私を風呂に入れる時も驚くほど丁寧に洗ってくださるでしょう? 武器の手入れだってそうだ。もしやその気になればできるのでは、と、アテンドしましたが……正解でしたね」
「いや〜褒めるなあ〜、お前さんに比べりゃ全然だよ〜」
予想外に褒めてもらって、素直に喜ぶ。相棒からの賛辞はごちそうだし、彼からもらうものはなんだって正面から受け止めようと決めている。
……いやだってそりゃ、守り手ですし? 守るための武具もその対象も、そりゃあ丁重に扱わないといけませんし? 刃はただしく研げばどこまでも切れ味を伸ばしてくれるし、この可愛い子の白いお肌にやさし〜く泡を伸ばしていくと、お目目がとろけて一本の線になって、仮面の詐欺師なんて二つ名が世界一似合わない表情になってくれるのだから……。
あれ、かわいいんだよなあ。クセになっちゃう、っちゅうか……。
嬉しい賛辞と甘い記憶と近い未来の想像に溺れていたら、元気になってしまった身体がひとりでに動き出してしまった。
一歩後ろに下がって、ななめになった腰に手が伸びて、そっと抱き寄せようとした、その時――、
「ですが……」
「え」
……不穏な影は、いつでも急にやって来る。すぐそばの、前髪のベールをなくしてあられもなく晒された白い顔に浮かんでいた晴れがましい笑みがたちまち曇ったと思ったら、
「それがどうして、料理や洗濯になると発揮されないのでしょうねェ……?」
「あ〜……」
そ、そこに繋がっちゃうかあ……。
モクマは伸ばしかけの手のひらごと肩を落として情けない声をあげた。脳裏に浮かぶのは、また溜めていてこっそり外のランドリーとかで処理しようとしていた洗濯物の山を見つけられた時の絶対零度の瞳だ。
「やっ、そ、それは、うん、今度からは注意するからねっ? あ〜それより、電灯の虹のキレイなことときたら!」
すっとんきょうな声を上げつつ手すりから身を乗り出して、目の上で敬礼みたいに指を並べて、その先にある光源を眺めるふりをする。
風向きがわるいと察しての、下衆らしいあからさまな話題そらしだった。だけどチェズレイにとっても言葉遊びくらいの目的しかなかったのだろう、フッと笑って、モクマにならって光を見下ろす。
ごく近くに並ぶ横顔。
白い光を浴びた肌は、陶器のようにぴかぴかと輝いている。稀少な宝石がはまったような紫の瞳も、同様に。
実はそんなに電灯には興味のないモクマは、そっと隣を覗き見て、
(……あっ)
「……母が、花屋にも並ばぬような、ありふれた野花をみて、これがいっとう好きなのと微笑む、その感性を、子供心にうつくしいと思いました。その価値は金額の多寡や希少性などといった相対的なもので決められるのではなく、彼女の心にとって唯一のものなのだと……」
……やっぱり、と、予感はすぐに確信に変わった。
口を開く前の、目のやさしくやわらぐこと。彼女の話をする時のチェズレイは、まるで子どもが握った手のひらにしまっていたきれいなガラス玉をそっと開いて見せてくれるみたいで、だから、それを聞くのがすきだった。
野花。旅立ってすぐに、ルークからの礼として贈った白い、あの。サプライズで渡した時も、驚いて目をまん丸にしたあとで、おんなじ顔で思い出を語ってくれたっけ。
「……そして」とびきり優しい顔で、声で、続く。
「同じように、あの虹が、実像すらない、まやかしの虹ですが――、でも、今の私には、とてもすばらしく、美しいものに見えたのです。
それで、あァ、私にもそんな、私だけの宝物を見つける目が備わっていたのだと……そう、思ったら、嬉しくて……」
「――」
ほう、と、ため息混じりの声が、白い雲になって墨色の夜をゆらめかせた。
呆然と眺めていると、視線に気づいて高い鼻がこちらを向き、もとより紅をさされていた目元がさっと色をより濃いものに染めぬいた。
「……眼精疲労の賜物に向かって、何をと……、酔っ払いの戯言だと、思われます……?」
それは、とても珍しい、照れた相棒だった。
唇がかるくさみしげにとがって、冷えで赤くなった指先が、所在なく中空で絡んで泳ぐ。
「いんや」いじらしい動きはたまらないが、見ているだけは無理だった。手を伸ばして、上からぎゅっと包み込む。
冷たい手だった。こちらの熱がみるみる奪われていくのがわかる。
ならば、せめて声で。
冷めぬ熱を、情を込めて。
「お前さんの、だいじな虹を。俺も同じものが見れて、嬉しかったよ……」
「……」
……そのままって感じの、ぜんぜん、格好つかない台詞だった。
全体のコンパスが違うのにむりやり掴んだから、片足は浮いてるし、もう片方もいっぱいに背伸びして、体勢だって格好つかない。だけど身体を手すりに預けたチェズレイとは、常よりずっとずっと近い目線だった。
その、すぐそばの目が。モクマの不器用な声を受けて、さっきまでだって、言葉を失うほどに美しかったのに、それがさらに、さらに、あざやかに花開く。
ちゅ、と、誰もいない深い夜にちいさな音が響いた。
ふたりして同時に動いた、見つめ合ったままのキスだった。触れ合うだけで終わりだった。
だって、手は空いてないし、変な格好だし。だけどチェズレイは手を掴まれたまま、これまた嬉しそうに目を綻ばせる。
よく考えなくとも、身体をもどしてからすればよかった。いよいよこちらも冷えてきたし。手を離して横並びに戻って、髪を掻きながら締めにかかる。
「あのさ、チェズレイ。人間、向き不向きもあるからアレだが……、良けりゃこれからも、俺にできそうな仕事があったら、回してよ。
だってさ、あんな綺麗なもの、お前さんだけが見れるのはずるいじゃない」
素知らぬ顔で仕事を続ける無口な白い輪っかを視界におさめつつ言うと、クク、と低い笑い声がした。
「……ずるい、か……いかにも下衆らしい発想だ……」
「でしょう? 下衆だからね〜」
そう、俺ってば、欲深い下衆だから。
……だから、いちど空振りに終わったことだって、懲りずにまたできちゃうのだ。
言いながら、一歩、近寄って。腕と腕がくっつくような間近の距離で、姿勢を正してしまったせいでずいぶん遠くなってしまった腰に手を回して、そこを支えに、もう一方を膝裏に差し込みつつ、「ソイッ!」
「!」
掛け声と共に抱き上げると、油断していたらしいチェズレイのつま先は思いの外高く、ぴょんと元気に宙を掻いた。
「……おやおや、この私としたことが……下衆な守り手の魔の手に掛かって、一歩も動けなくなってしまいましたァ……」
「はいはい、薄着の甘えん坊さんにはこれから思う存分ぬくぬくの刑だからね〜」
「おや、それはなんとも恐ろしい!」
持ち上げた身体が纏う布地は、やっぱり薄っぺらかった。衝撃でスリッパが脱げて落っこちた音がしたけれど、拾うのはまた後で。くるりと踵を返して駆け出すと、芝居がかった悲鳴が間近で響いた。すぐさま嬉しそうに首に腕回しておいて合ってないにもほどがある濡れ衣だったが、今はこの会話こそが正答なのだ。
さあさあ、全力で温められた風呂へと進め! こんな冷えた身体をそのままにして風邪でも引かせた日には、それこそ守り手の名折れなのだから。
すぐに泡だらけの湯船に漬け込んで、目を一本にするまで全身くまなく洗い倒して、心地いいとご好評のシャンプーを施して、それからそれから……、
「モクマさん」
楽しい想像に胸弾ませながら忍び印の結構なスピードで階下のバスルームへと飛ばしていると、耳に唇が寄せられる。
「ありがとうございます」と、囁く声は掠れて温かかった。
「うん?」
「私と一緒に、私の宝物を見てくれて」
「……うん……こっちこそ、ありがとね」
彼がどこかに取り落としてきた子ども時代のような、無邪気な声でもあった。
ちょうど、目的地に到着する。
常なら半分寝ているひとを甲斐甲斐しくお世話するので、広い脱衣所に置いてあるチェズレイを寝かせる専用の長椅子に身体を下ろす直前で、もういちど、「モクマさん」と名を呼ばれた。すこしぶりに見えた目が「でもね」と続けて、それからそっと閉じられる。
「……本当はね、私の一番の宝物は、あなたなんですよ。……知っていました?」
しずかで、ひそやかで、だけどじまんげな、
胸の奥底にある大切なものを、ひらいて見せてくれる、あの声と同じひびきだった。
「……チェズレイ」
たまらなくなって、離したばかりの身体をもういちど抱きしめる。背に腕を回すと、すぐに返された。まだ互いに表面の熱は冷えたままで、これでは身を寄せても温め合えない。
それでも、どうしても、くっつかずにはいられなかった。
「チェズレイ……ッ」
とくとく、心臓の音がかさなる。二度目の呼び声は、笑えるほどに性急だった。
「はい、モクマさん」
「あのね、お前さん、すっかり冷えちゃってるからさ、だから、お風呂だけじゃあ、足りないかも。そしたら、もし、そうなったらさ、別の方法で、あっためてもいいかい……?」
続く声も、また、この心臓と同じ駆け足のリズム。
焦っているくせに奥歯にものが挟まったような、もったいぶったお誘いとともに顔を擦り寄せられて、一日の終わりで伸びた無精髭がふれて、くすぐったそうにチェズレイが身をよじる。
そっと離れると、ひたりと間近で目があって、疲れ目だって、掠れ目だって、酔いどれでもまったく色褪せない相棒の美貌が、きっとみっともない顔をしているだろうモクマを見て、にっとその完璧をゆがめた。
「ええ、それはもう……、喜んで」
それは花が咲くような……というにはすこしばかり夜の色が濃い、欲に満ちたあまい香りのする、モクマの前でだけ開かれる笑みであった。