赤い糸辿って 朝起きたら、見慣れないものが視界に入った。
右手の小指に結ばれたそれは、赤い糸のようなものだった。ものだった、と確信が持てない言い方をしているのは、取ろうと思ったらすり抜けて触れなかったからだ。
(なにこれ、幻覚?)
でも、幻覚にしては随分はっきり見え過ぎているように思う。透けてる訳でもなく、はっきりと見える赤。小指の根本にしっかりと結ばれているそれは、部屋の外へと伸びていた。辿って自室のドアを開けると、階段の更に下へと続いている。
「……まあ、いっか」
きっと疲れているんだ。だからこんな幻覚見ちゃうんだって。実際下の階に降りてみても、家族からなんの反応もない。本当に見えていないみたいだ。
赤い糸は玄関の先、ドアの向こうへと続いている。
一先ず糸のことは放っておいて、家でゆっくり過ごすことにした。今日は学校もバンド活動も休み。予定があるのは夕方からなので、それまでゆっくりできる。
◆
「あ、来た来た! 美咲さん、こっちこっち!」
CiRCLEの前までやって来ると、桐ヶ谷さんが此方に手を振って呼んでくれた。彼女の元に歩み寄れば、薫さんと花園さんも既に到着していたようだ。
今日はRoseliaのライブを見に来た。紗夜さんを尊敬してやまない桐ヶ谷さんがライブを見たいと頼み込んだところ、あの時桐ヶ谷さんの練習に付き合ったメンバー分、紗夜さんがチケットを取ってくれたのだった。
右手を振り返しても、三人とも特に赤い糸については何も言ってこない。此処へ来るまでも変に見られた訳じゃないし、やっぱり幻覚の類らしい。いや、そうじゃないと説明つかないんだけどさ。
「やあ美咲、久し振りだね」
「いや、薫さんとは昨日も練習で会っ、」
左手を挙げて挨拶すること薫さんに突っ込みを入れようとして、言葉が詰まった。固まったあたしの視線は、その左手へと注がれる。
薫さんの左手の小指に、赤い糸が結ばれていた。その糸は間違いなく、あたしの小指まで繋がっている。赤い糸の終着点は、薫さんだったのだ。
「美咲?」
急に言葉を止めるあたしを不審がった花園さんが、顔を覗き込んでくる。慌てて首を振って「なんでもない」って取り繕った。
若干不思議な顔をされはしたが、特に何か言われることもなくCiRCLEの中へと向かっていった。あたしの視線は、薫さんの左手。赤い糸へと注がれる。けれどそれに知らない振りをして、気付かない振りをして目を逸らした。
だって、そんなの都合が良過ぎる幻覚だ。
薫さんに対して向けている想いは、バンド仲間や後輩が向けるべきものではないということは自覚している。そうじゃなければ、こんな幻覚見たりしない。
「美咲。ドリンク交換してくるけど、どれにする?」
「あ、ありがとう。えーと、じゃあオレンジジュースで」
分かった、とカウンターに向かっていく花園さんの背中にお礼を言う。
ライブ開演までまだ時間があるロビーは賑わっていて、流石Roseliaだなと実感する程に人が敷き詰まっている。あたしは人混みに逆らえず、逃げるように隅へと避難した。壁に寄りかかかって、ほっと息を吐く。
「ねえ、あそこに居るのって“TOKO”じゃない?」
「その横に居るのはもしかして薫様……?」
そんな声が聞こえてきて、人混みは更に過密に。どうやら薫さんと桐ヶ谷さんがそれぞれのファンに捕まったらしい。ざわざわと落ち着かない人混みを、あたしは他人事のように遠くから眺めていた。
やっぱり、薫さんは“みんなの憧れであるべき存在”だ。優しくて、カッコ良くて、みんなから慕われている。そんな彼女が、あたしなんかと釣り合う筈は無い。なんておこがましい幻覚を見ていたんだろう。
そう思っているのに、赤い糸は消えてはくれない。あたしの葛藤なんかまるで知らない振りをしているみたいに、無責任に存在を主張して人混みの方へと伸びている。
やめてよ。あたしと薫さんの間に赤い糸が繋がっているなんて、そんな幻覚で変な希望持たせないでよ。
「……消えてよ、」
糸を引っ張ろうとしても、そのまま引きちぎってやろうとしても、あたしの指は糸を擦り抜けるだけ。こんなにはっきり見えているのに。こんなにはっきり彼女へと伸びているのに。どうして触れないの。どうして諦めようとしていたのに、望みを捨てることすら許してくれないの。自惚れる要素なんてある訳ないのに、どうして証拠とばかりに主張してくるの。
「美咲」
触れない糸を触ろうともがいていたら、近付いて来る影に気付けなかった。名前を呼ばれて、弾かれたように顔を上げる。
「……かおるさん、」
「開場の時間になったから、一緒に行こうか」
微笑んで手を差し伸べてくれる。けれど糸のせいで気持ちがぐちゃぐちゃのあたしは、その手が嬉しいくせに避けるように目を逸らした。
「……ファンの人たちは、どうしたんですか」
「レディファーストさ。先に中へ入って行ったよ。たえちゃんや透子ちゃんも先に行ってると言っていたよ」
「……薫さんも、先に行かなくて良かったの?」
「美咲だけ置いては行けないさ」
「……こんな人混みから、あたしのこと探すの面倒じゃなかったですか」
薫さんが、折角あたしを呼びに来てくれたのに。あたしの口から出るのは可愛くない言葉ばかり。こんなこと、言いたい訳じゃないのに。
「どれだけ雑踏の中に君が迷い込んでいたって、私は美咲を見つけてみせるさ」
「はぁ……。どこにそんな自信があるんですか」
「私と美咲の間には、運命の赤い糸があるからね」
呆れて溜息を吐いたら、薫さんの言葉で思考が一瞬停止した。その言葉は、今一番聞きたくない言葉だった。やめて、貴女まで赤い糸なんて口にしないで。自分の小指と、彼女の小指を交互に睨み付ける。
「また、そんなこと言って……、」
「美咲には見えないのかい?」
薫さんが左手で、あたしの右手を取った。赤い糸が絡まる小指にそっとキスが落とされる。
「私には、こんなにはっきり見えているのに」
糸と同じ色をした瞳が真っ直ぐに見据えてくる。
自惚れるだけの条件は、もう、十分過ぎるほど揃ってしまった。
あとは、あたしが一歩を踏み出すだけ。