ストレイシープは眠らない「おやすみ、仔羊ちゃん」
お月様とお星様が煌めく紺碧の空の下。今夜も眠れずにいた迷える仔羊が、ぐっすりと眠りの海へ落ちていきました。
モノクルの奥にルビーの瞳を輝かせる、ブルーシープと名乗る魔法使いが仔羊の頭を撫でて微笑みます。シルクハットの下に見える羊の角が、月明かりに照らされました。
その隣で、黒髪の間から同じような羊の角を覗かせた使い魔の女の子が、じっとブルーグレーの瞳を魔法使いへ向けました。
「美咲もありがとう、お疲れ様」
魔法使いが使い魔の女の子の頭を撫でてあげれば、恥ずかしがりやの彼女は窓の外へと目を逸らします。
まだ夜は始まったばかり。眠れぬ仔羊が眠った後は、魔法使いと使い魔の女の子の、二人だけの時間です。
◆
今夜のミルクティーは、すっきりとしたアッサム。ミルクの量はいつもより控えめ。そこに、やさしさをひとさじ。スプーンひとさじの蜂蜜を溶かせば、アッサムの茶葉の香りに甘い香りが混じって、それだけで心がぽかぽかして、満たされた気持ちになるのです。
「火傷しないように、気を付けて飲むんだよ」
魔法使いの膝の上で、使い魔の女の子は少しずつ紅茶のカップを傾けます。カップにしあわせでまんぱいに満たされた味を、ゆっくりと味わう。この時間が、二人は何よりも好きでした。
やがてカップが空になり、お腹が満たされた頃。使い魔の女の子は、本棚から一冊の本を取り出します。それをだいじそうに抱えると、再び魔法使いの膝の上に座りました。
「今日は、あたしが読むから」
「それは、なんとも特別儚い夜になりそうだね」
「……約束、してたし」
恥ずかしがりやの使い魔の女の子は、頭を撫でる手を払い除けると、照れたのを誤魔化すみたいに本を開きます。
「“ぼくが6つのとき、よんだ本に”——、」
夜空に寄り添うお星様みたいに、透き通った心地良い声。いつもは仔羊たちに向ける声ですが、今だけは魔法使いひとりの為だけに物語を紡ぐのです。
魔法使いは、物語を紡ぐ使い魔の女の子が好きでした。ゆっくりと、ひとつひとつの文をだいじに噛み締めるみたいに読み上げる声と、お星様がきらきら溢れるみたいなブルーグレーのひとみも。
「“バラのためになくしたじかんが、きみのバラをそんなにも”——、」
魔法使いは、おかわりのミルクティーをひとくち飲みます。その声を聞いているだけで、蜂蜜ひとさじのミルクティーは、とびっきりにニコニコに甘くなっているように思うのです。魔法を使えるのは魔法使いだけですが、使い魔の女の子の声もまた、魔法のようだと思うのでした。
ミルクティーだけではありません。使い魔の女の子が傍に居るだけで、夜の空も、お月様も、お星様も、とても綺麗に美しく見えるのです。ふたりで過ごす夜が、とても贅沢で掛け替えのないものだと、ふたりとも感じておりました。
二人だけで過ごした夜の時間が、夜をこんなにも愛おしくだいじなものにするのでした。目に見えない時間という宝物が、夜をこんなにもキラキラと美しくしてくれます。
「“おかしくなって、さばくに下りてから”——……、」
物語は続きます。物語の終わりにはまだ時間が掛かりそうですが、夜はまだまだ長いのです。
おはなしを紡ぎ続ける使い魔の女の子の声に耳を傾けながら、魔法使いはその身体を壊れやすい宝物のように抱き締めます。
窓の外から見える夜空はいちばんきれいで、いちばんせつないけしきに見えました。
いちばんだいじな、ふたりだけの夜の時間。二度と同じものは来ない夜の時間をふたりで過ごす度に、夜は美しく輝きます。
明日はきっとまた、今日とは少しだけ違う夜で、今日よりもだいじな夜になるでしょう。それでもお星様の光は、今日も明日も、ずっとその先も。ボーダーレスに夜を照らしてくれるのです。
だから今は、明日も変わらず光るであろうお星様が照らしてくれる、今日だけの特別な夜を。お日様が顔を出して空が明るく染まるその時まで、ふたりだけは眠らずに過ごすのです。
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引用: 「星の王子さま」