Gimme a smile, Baby「あら?」
本日は、ハロー、ハッピーワールド! 通称ハロハピの練習日だった。CiRCLEのラウンジに一番乗りした弦巻こころは、部屋に入った瞬間にいつもと違う光景に気付いた。
ラウンジの隅っこに、黒いベビーカーが一台鎮座していた。ライブハウスではおおよそ見ない物に、こころは物珍しげに近付く。日除けのシェードが下ろしてあった為全容は見えないが、そこから小さな足が覗いているのは見えていた。
しゃがみ込んで、シェードの裏を覗き込む。そこには、こころが期待していた通りのものがあった。
「赤ちゃんだわ!」
ボリューム抑えめに歓声を上げる。
ぷっくりとした小さな手足、こぼれ落ちそうなほっぺた、控えめに聞こえてくる寝息。
赤ん坊が、ベビーカーの中ですやすやと眠っていた。親らしき人物は周りには見えない。まだ他のバンドメンバーも来ていないので、暫くその赤ん坊を眺めていることにした。
「こころん、おはよう〜! 早いね!」
次いでラウンジに入ってきたのは北沢はぐみだった。途中で合流したらしく、その後ろに瀬田薫と松原花音の姿もあった。
元気いっぱいのはぐみの挨拶に、こころが「しー」と人差し指を立てる。彼女にしては珍しい仕草に目を丸くした三人は、すぐにその理由に気付いた。
「わぁ、赤ちゃんが居るんだね。お母さんは……?」
「分からないわ。あたしが来た時からここで寝ていたの」
「可愛いね〜、ちっちゃい!」
「穏やかに眠る顔……嗚呼、儚いね」
四人でベビーカーの中を覗き込む。やがてその小さい手足がもぞもぞと動き、赤ん坊の目が開く。そのまんまるな目が四人を捉えた途端、赤ん坊は顔をくしゃりと歪めて泣き出した。
ふえええん、とそれ程大きくない泣き声だったが、赤ん坊に慣れていない四人を怯ませるには十分だった。
「おや、泣いてしまったね……!」
「お腹が空いちゃったのかな?」
「うーん……、お母さんが居ないからとか……?」
赤ん坊は泣き続ける。薫がベビーカーを揺らしてみたり、はぐみが頭を撫でてみたり、花音が手を握ってみたりするが、一向に泣き止まない。
その様子を見ていたこころが、何か思いついたように鞄を探りだした。
「こんな時は、ミッシェルに手伝ってもらいましょう!」
こころが取り出したのは、手のひらに収まるサイズのミッシェルのぬいぐるみだった。後頭部にはキーチェーンが付いていて、キーホルダーだということが分かる。
それを赤ん坊に手渡してみる。赤ん坊が泣き止み、ぱちくりと丸い目を瞬きさせて手の中のミッシェルを見た。すると僅かに口角が上がり、そのままミッシェルの頭をぱくりと口に咥えた。はぐみの顔がぱっと明るくなる。
「あ、赤ちゃんちょっと笑ったよ!」
「ミッシェル食べられちゃったけどね……」
花音が苦笑いをするも、機嫌を直した赤ん坊にほっとした様子だった。感触を確かめるようにもごもごとミッシェルを喰む赤ん坊の頬に残る涙を拭こうとして、顔を近付けたはぐみがとあることに気付く。
「ねえ、この赤ちゃん、みーくんに似てない?」
「おや、本当だ。目も髪も同じ色のようだね」
泣いたせいで潤んだ瞳は、澄んだブルーグレー色をしていた。細く柔らかな黒髪は頭のてっぺんで、ピンク色のゴムによって結ってある。その目と髪の色は、確かに彼女たちと同じバンドメンバーである奥沢美咲のものと一致していた。
「そう言えば、美咲は何処に居るのかしら?」
「あれっ、もう着いてるって美咲ちゃんから連絡来てたよね……?」
先にCiRCLEに着いていると連絡があったのは、つい10分ほど前のことだ。それなのに、美咲の姿はそこには無かった。
はっとした表情で、はぐみが目を見開く。
「もしかして、この赤ちゃんってみーくんなんじゃない……!?」
既に居る筈の美咲が居ない。居たのは、美咲と特徴が一致する赤ん坊のみ。
まさか。花音がそう笑おうとして、口を噤む。他の三人は神妙な顔をしていた。流されるまま、花音も表情を硬くする。
「あなた、美咲なの?」
首を傾げたこころの問い掛けに、赤ん坊がへらりと笑う。途端、赤ん坊含め五人しか居ないラウンジがざわついた。
「ほ、本当に美咲ちゃんなの……?」
恐る恐る、花音が赤ん坊に手を伸ばす。すると、小さな手が花音の指をきゅっと握り締めた。ブルーグレーのまんまるな目がじっと花音を見つめれば、なんだか一つ下の後輩の姿が浮かんでくる。ような気がした。
「嗚呼、美咲! なんて可愛らしい姿になってしまったんだ……!」
「今日はこの美咲と遊びましょう! やっぱり美咲はミッシェルが大好きなのね!」
「わーい! はぐみもみーくんのこと抱っこしていい!?」
赤ん坊になってしまった美咲(暫定)を薫が抱き上げ、その周りをこころとはぐみがはしゃいで駆け回る。それが面白いのか、赤ん坊は声をあげて笑っている。
本日のハロハピの活動は、赤ん坊の美咲と遊ぶことに変更! そう決まった矢先だった。
「あれ、みんなまだ練習始めてなかったんだ」
「あれ、美咲ちゃん……?」
ラウンジに入ってきたのは、奥沢美咲本人だった。勿論よく知る高校生の姿である。ラウンジで楽しそうな四人を見て、不思議そうに首を傾げていた。
実はこころよりも先にCiRCLEに到着していた美咲だったが、スタッフが大量の荷物を運んでいたのでそれを手伝っていた。そして戻ってきたら、揃っていたバンドメンバーたちが赤ん坊を抱えているこの状況である。
「え、何これ、どういう状態?」
話が逸れたり他の楽しいことを見つけたりして、練習どころではなくなってしまうことはこのバンドでは日常茶飯事ではあるが、四人で仲良く赤ん坊を囲っている光景は初めて見たし予想外であった。
疑問に思っているのはこちらなのに、何故か四人も美咲の登場にびっくりしたかのように目を丸くして赤ん坊と美咲を交互に見比べている。至って真面目な顔で薫が口を開く。
「じゃあ、この美咲は一体……?」
「いや、美咲はあたしですけど……この赤ちゃんはどうしたの……?」
挙句の果てに赤ん坊を美咲呼ばわりだ。意味が分からなくて頭に疑問符を浮かべるものの、四人も同じように疑問符を浮かべている。なんでだよ、と美咲は胸の内でツッコミを入れた。
五人が見つめ合い、ミッシェルを咥える赤ん坊が喃語のような言葉を発する奇妙な状況の中、ラウンジにまた新たな影が入ってくる。
「あっ、起きてたんだ? ハロハピのみんなが面倒見てくれてたんだね!」
入ってきたのは、CiRCLEのスタッフである月島まりなであった。彼女はハロハピに囲まれた赤ん坊を見て、安心したような笑顔を見せた。五人の疑問符が更に大きくなる。
「実は親戚から預かっててさ〜、みんなが面倒見てくれてて助かったよ! さすが、ハロハピは赤ちゃんも笑顔にしちゃうんだね」
まりなは礼を言いながら、薫が抱っこしている赤ん坊のほっぺたをつつく。赤ん坊は楽しそうに笑って、まりなへと手を伸ばした。そのまま、まりなが赤ん坊を抱きあげる。
そこでようやく、四人は自分達が勘違いをしていたことに気付いた。はぐみがほっと安堵したような、気の抜けたような息を吐く。
「び、びっくりしたー……違うおうちの赤ちゃんだったんだね」
「美咲が赤ちゃんになったわけじゃなかったのね!」
「いや、ていうかあたしが赤ちゃんになるとか、そんな非現実なことある訳ないじゃん……? なんでそんな話になってるの……?」
楽しそうに頷いたこころに、美咲が呆れたように溜息を吐く。そして、そのじとっとした視線は3人と比べて比較的マトモ枠である花音へ。
「花音さんまで一緒になってたとか……しっかりしてくださいよね」
「ご、ごめんね……?」
後輩のごもっともなツッコミに、苦笑いで返すことしかできない。実際、赤ん坊には美咲の面影があったし、こころたちが言うと本当にそうなってしまったように感じていたのだった。そんなことがある訳ないのに、と今更恥ずかしくなってきて顔を赤らめる。
「美咲に似てとても可愛らしい赤ちゃんだったからね、私たちもつい信じてしまったのさ」
同調する薫に、美咲は再び溜息を吐く。というか自分がもし仮に赤ん坊になったとしても、この四人に面倒を見てもらうのは少し怖い。
「そんなに、似てるかなー……」
美咲がちらりと赤ん坊の方を見やる。丁度目が合った赤ん坊はミッシェルの耳を頬張りながら、眉を下げてふにゃりと笑った。