お前と地獄の話がしたい「この世界にも天国や地獄ってあるんですか?」
魔法舎中庭での訓練中、ふと、賢者さんから尋ねられた。
「あるよ、地獄。俺は旦那様と奥様に拾ってもらうまで、地獄にいた」
シノがくい、と猫のような丸い顎でネロを指した。別にシノはネロに話すことを強いているわけではない。お前の代わりに俺が話した。だから話すも話さないも、自分の好きなようにしたらいい、と大きな赤い目で、待ってくれているのだ。なんかこういうところ、あいつに似てるかもな。いや、そうじゃなくて。
「あー……まぁ俺も似たようなもんだよ。賢者さんが聞きたいのはそういうのじゃなくてさ、もっとこう……」
「祈りや信仰として、天国や地獄といったものが、この世界でも信じられているかということか?」
「そういうことなら中央の奴らに聞けばいい。俺たちに聞いても面白くないぜ。ファウストとネロを見てみろ、夢や希望がどこにある」
「シノ!」
「はは、シノの言うとおりだよ」
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「ネロの好きな本を教えてください」
どうしたリケ、本なんか読んでえらいなあ。またミチルたちと勉強してるのか? だけど、そういうのはルチルとかに聞いた方がいいと思うぜ。と、頭を撫でようとした手をかわされる。
「そうじゃなくて、ネロの好きなものが知りたいんです。僕はまだ読み書きがあまり得意ではないけど、でも、ネロの好きな本を読んでみたいんです」
読書は好きだ。東の国で暮らすようになってから、本を読んで過ごす時間ができた。1人きりの部屋で、物語に耽るのは贅沢な生活に思える。”普通”っぽくて、気に入ってる趣味だ。しかしネロの部屋に本棚はない。本を開き、普通の暮らしをなぞってみたところで、結局それに興味も愛着も持てなかった。今まで読んできた本は、荷物のどこかに置いてある気もするし、店を転々とする間に手放してしまった気もする。
「『ライ麦畑でつかまえて』って知ってるか?サリンジャーの」
「初めて聞きました。古い本でしょうか?」
俺の生まれた場所は北の国でも治安の悪い所だった。ろくでなしの家だったから、ひとりで生き抜くためになんでもした。誰もが生きるのに必死だった。毎日顔を出す露店で食べ物を盗み、市場ですれ違う人から財布をすった。生きることに犠牲が必要だった。
だが、俺の地獄はこんなところではない。俺の地獄にはいつだってあいつがいた。俺が信じたのは、お前だけだった。ひとりになって、今さらまともぶって、何の意味があるのだろうか。正しさが何なのか、頭ではわかっているつもりだ。まともになりたい。でも、なれないこともわかりきっている。
代わりなんてできやしなかった。あんただけだったんだよ。
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「ネロ、お前本とか読まねえよな」
「別に、盗賊で生きていくのに、本なんて読んだってしょうがねえだろ」
「まあそうだけどよ。『ライ麦畑でつかまえて』とか、読んだことないのか」
「ねえよ。それ読んだら腹が膨れるのかよ」
「情操教育だよ。いつか読んどけ」
そう、古い本なんだ。昔の受け売りだ。
俺はまだサリンジャーを読んだことがない。あいつが牢に入ってから、やっと手にとった本は、引き出しの中で何十年もしまわれている。でも俺の地獄に本はない。
ネロ! この本はまだ僕には難しくて、今は読めないけれど、いつか絶対に読み終えてみせます。その日がきたら、またいっしょに好きな本の話をしましょう!
俺にいつかは来ない。俺はいまも地獄にいる。サリンジャーは引き出しの中で、埃を被ることも許されず、何百年もしまわれている。