誕生日「魈……いる?」
「どうした」
旅人の一大事かと思い、魈は仙力を使ってすぐ傍へ現れた。望舒旅館の最上階。普段なら誰も踏み入ることはない場所だ。
「今日はお前の誕生日だって聞いたぞ~! だからオイラ達、魈を祝いに来たんだ~」
ところが、旅人の用事は拍子抜けするくらい些細なことだった。
「なんだ、そんなことか。我は特に誕生日だからといって別段何かがあるわけではない」
今日が自分の誕生日ということすら魈は忘れていたくらいだった。もはや何歳の誕生日なのかすら忘れかけている。他の夜叉達が存命していた頃には、誰かの誕生日に酒を酌み交わすこともあったけれど、ここ数百年余り、そのようなことをすることもなくなっていた。
「まぁ、そう言うなよ~! 言笑の腕には劣るかもしれないけど杏仁豆腐とチ虎魚焼きを作ってきてやったんだぞ~! 一緒に食べよう」
「……我を祝おうとしてくれたことには感謝する。それにしても、我の誕生日を誰に聞いた?」
「鍾離だけど」
旅人がそう言った瞬間、魈は一瞬固まった。目をパチクリとさせて旅人を見ている。
「……しょ、帝君が……?」
「おう、そうだぜ。会ったら誕生日を祝ってやってくれって言ってたんだ」
「そうか……今日帝君は、どちらに……?」
「離月港にいたぞ~。相変わらず講談を聞きながら茶を飲んでたぞ」
鍾離が魈の誕生日を覚えていたことに驚きを隠せなかった。これといって誕生日を祝われた記憶もない。今更どういった真意が……? と考え込んでいると、旅人に折角だからと勧められるまま、共に席につき飯を馳走になった。
旅人の作る杏仁豆腐は、望舒旅館の料理人とは少しばかり食感は違うものの、嫌いではない。料理を食べ終わる頃に、旅人にハッピーバースデーという聞いたことのない歌で祝われて、更には拍手までされてしまい、恥ずかしくてすぐにその場を去ってしまった。
「魈、ここへ来るとは珍しいな」
離月港の上空へと現れた魈は、旅人に聞いた通り鍾離が講談に耳を傾けている姿を目にした。隣に行って話し掛けるわけにも行かないので、その場を去り鍾離の家の物陰に身を潜め休んでいた。
「あっ、鍾離様。おかえりなさいませ」
立ち上がって出迎える前に鍾離に声を掛けられ、慌てて身なりを正す。
「どうした? 薬がなくなったか?」
「薬は、まだあります」
「ほう、ならば他の用事ということか。どこかへ出掛けるのか? もう俺の許可などなくても自由にどこへでも行ってもいいというのに」
「いえ、その」
ここへ訪れた理由を改めて考えると、余りに無計画に鍾離のところへ来てしまったと思い至る。旅人が自分の誕生日を祝いに来てくれました。鍾離様は我の誕生日を覚えててくださったのですね。などと世間話をするのも躊躇ってしまう。
「……特に用事はありません。失礼いたします」
これ以上考えていても最善の言葉なんて思いつきそうになかった。自分の誕生日という日に鍾離の顔が見れただけでも十分であろうと、魈はその場を去る決意をした。
「魈、待つんだ」
魈が仙力を使うより早く、鍾離に腕を掴まれてしまった。更には鍾離の胸元へ引き寄せられ、軽々と持ち上げられてしまう。鍾離の整った顔が目の前にある。石珀色の瞳は、優しい笑みをたたえていた。
「あ、あの、鍾離様」
「すまない。少し意地悪をしてしまった。誕生日おめでとう、魈」
鍾離はしっかりと魈に目を合わせ、優しく頭を撫でながらそう言った。
「ありがとう……ございます。ですが、鍾離様に祝われる身分ではありませんので……降ろしてください」
「何を言う。俺はもうただの凡人だ。折角魈が来てくれたんだ。もうしばらくこのままでいよう」
魈を抱えたまま、鼻歌交じりの鍾離は楽しそうに家の中へと入っていく。
魈はここ数百年で、一番幸福だと感じる誕生日だった。