秋の温泉旅館ごっこ「隠岐ー、湯加減どない?」
「ええ感じですわぁ」
入浴剤の効果で乳白色に濁ったお湯を手のひらで掬いながら、半透明のドアの向こうから届く声に答える。
お湯を湯船に零すと、きれいな波紋が広がった。
ほわほわと上がる湯気と香りが、浴室内を満たしている。
まだ髪を洗っていないのに濡れている前髪をかき上げた。
「ちょっとお邪魔してええ?」
「わー、イコさんえっちやわー」
「それは否定出来へんわ」
浴室のドアを開けたイコさんは、肩まで捲り上げたTシャツとパンツ姿だった。
「あれ? 一緒に入るんとちゃうんですか」
「今日は隠岐のおもてなしデーやからな。背中流したろ思うて」
*****
おれがお付き合いしているイコさんちの風呂場で良い香りの入浴剤入りの湯船を堪能して、何やらおもてなしを受けている理由は、何日か前に遡る。
防衛任務を終えて解散した後、一緒に帰っていたイコさんに
『隠岐、もうすぐ誕生日やん。欲しいもんある?』
と直球で尋ねられた。
『そーですねぇ……。あ、いつかイコさんと温泉旅館でお泊まりしてみたいです』
スケジュール的、金銭的にも今すぐ叶う夢ではないのは判っているけれど、浮かんだ言葉をそのまま伝えてみた。
最近涼しくなってきたので、温かい風呂が恋しい。
寮暮らしのおれはシャワーで済ませてしまうことが多いけれど、湯船につかるのは大好きだ
そして何より、温泉といえば卓球。
温泉でリフレッシュした後、浴衣姿のイコさんとゆるゆるとラリーを続けたりたまには勝負してみたり、のんびり楽しく過ごしたい。
『温泉か、ええな! せやけど泊まりやと色々都合付けなあかんな』
『せやから、また今度行きましょ』
『よっしゃ。そのうち行こな』
いつになるか判らない遠い約束がこんなに嬉しくて楽しみだなんて、イコさんと付き合うまで知らなかった。
『いや、それはそれで、今後のお楽しみでええねんけど』
うーん、と腕を組み、口元をぐっと引き下げて考えているイコさん。
『ほな今年は、生駒温泉旅館にご招待させてもらうわ』
『え?』
『よしよしそれで行こ! ほな隠岐、うちに来れる日教えて。全力でおもてなしさせてもらうわ』
そこからふたりのスケジュールを調整して、おれの誕生日に近い週末に生駒温泉旅館へのお泊まりが決まった。
そしてその日を迎え、いそいそとイコさんの部屋へやって来たおれは、待ち構えていたイコさんによって風呂場へ直行させられたのだ。
*****
「それにしても」
洗い場に立つイコさんが、浴槽を見下ろした。
「にごり湯ってヤバイな。めっちゃええ眺めやわ」
「イコさん、ほんまもんのえっちさんやった」
「いやいや、見えそうで見えへんのってエロいやん」
「ゆうてもこんなん、なんぼでも見たことあるやないですか」
「それとはまたちゃうねんなぁ。こう、風情があるっちゅうか」
「ないですて」
普通に目の前で着替えることもあるし、そもそも自分で何度も脱がせたことがある身体に風情も何もあったものではないと思うが、イコさんは何かを噛みしめるように頷いている。
「そろそろ出といで。のぼせるで」
「はぁい」
ざばっとお湯を纏いながら立ち上がり、イコさんが差し出してくれた手に掴まった。
用意されていた椅子に腰を下ろすと、背後に立ったイコさんがボディソープを手のひらに出し、お湯で濡らしたタオルを揉んで泡立てていた。
「ほな、首からいくでー」
「うわ」
うなじにもこもこの泡が押し付けられ、思わず声が出てしまった。
首元から肩、背中を泡だらけのタオルで優しく擦られるのは、予想以上に気持ちがいい。
「痛ない?」
「全然やし、もっと強めでもええですよ」
「いやいや、あんまゴシゴシしたらあかんねんで。泡で撫でるくらいで丁度ええんやってテレビでゆうとった」
「なんや、泡で撫でる、てえっちですねぇ」
ふふ、と笑うと、背後で息を呑む気配。
「あんな隠岐。えっちやゆうほうがえっちやねんで」
「あらら。えっちなおれはあかんですか?」
「いや、いつもやったら大歓迎やねんけど、今日はおもてなしする日やもん」
「めっちゃ嬉しいんやけど、おれイコさんにこんなすごいおもてなししてもろてええんかなぁ」
「誕生日やし、隠岐やからな。特別おもてなしバースデーモードやで」
背中を流し終えたタオルをたたみ直しておれの手を取ったイコさんは、肩から指先までを丁寧になぞるみたいに洗ってくれた。
「ん、こそばい、です」
「そんな色っぽい声出さんといて」
じわじわと熱が上がり、湯船につかっていた時よりも顔が熱くなってくる。
泡だらけのイコさんの手がおれの手を包み、指を絡められると溜息が溢れた。
「イコさん、気持ちええ……もっと」
「ほんまお前、誘うん上手になったなぁ」
イコさんの手が胸と腹に泡を広げていくと、くすぐったさだけではない感触が身体の中でぐんぐんと育ちはじめる。
「このまま美味しゅういただきたいのは山々やねんけどな。隠岐に美味しくいただいてもらいたいごはん、用意しとんねん」
せやからちょっとだけな、と、イコさんは後ろからおれの耳たぶに唇を押し当てた。
身体の次は頭も洗ってもらい、全身きれいになったおれはもう一度湯船につかって温まった後、風呂から上がった。
先に風呂場から出ていたイコさんが脱衣所で待ち構えていて、ふわふわのバスタオルで身体を拭いたおれに浴衣を着せてくれた。
「わ、これどないしたんですか?」
「実家から送ってもろた。なるべく温泉旅館ぽいやつってゆうて」
「えっうそやん」
イコさんと予定を立ててから数日しか経っていないし、その間だって忙しかったのに、ここまで凝ってくれるなんて思ってもみなかった。
「ええやろ?」
「めっちゃすごいわ……。ありがとうございます」
深い緑色の浴衣に紺色の細い帯を締められ、よぉ似合うで、と背中をぽんと叩かれた。
部屋に戻ると、イコさんが用意してくれていた夕食が運ばれてきた。
「おれもなんか手伝わせてください」
「あかんあかん、隠岐は座っといて。もうそっちに持ってくだけやし」
イコさんがテーブルの真ん中に置いたのは、大皿にこんもりと盛り付けられた天ぷらだった。
「わー、天ぷらさんや!」
「旅館っぽくてええやろ? 刺身と迷ったんやけど」
「おれサツマイモの天ぷらめっちゃ好き。あっシソもカボチャもある~」
「揚げたてやからヤケドせんようにな」
「はぁい」
イコさんと向かい合って座り、ふたり同時に「いただきます」と手を合わせた。
まだあつあつの天ぷらをつゆにひたし、噛りつく。
つゆを含んだ衣と、ほかほかのサツマイモの甘みが口に広がった。
「めちゃめちゃ美味いです!」
「そら良かったわ。おいもさんまだあるからいっぱい食べ。アジもカシワもエビもあるで」
「めっちゃ豪華や~」
レンコンの天ぷらを齧ったイコさんは、我ながらウマいな、と満足そうに頷いていた。
今日はおもてなしされとき、と言っておれに何もさせてくれないイコさんに食い下がり、食器の片付けだけはやらせてもらった。
その間、風呂に入ってきたイコさんは、おれのおねだりに負けて浴衣を着てくれた。
おれに着せてくれたものと似ているけれど、色が違う。
「かっこええー」
「おおきに。でも俺おもてなし担当やから、ふつうの格好でええねんで」
「充分おもてなししてもらいましたから、あとは一緒にのんびりしましょ」
イコさんは肩ががっしりしていて身体の厚みがあるので、和装がすごく似合う。
大好きな先輩で、自慢の隊長で、おれの大事な恋人だという贔屓目を除いたとしても、藍色の浴衣に黒い帯をきりっと締めている姿はすごく格好いい。
「めっちゃにこにこしとるやん」
「そらもう、お風呂は気持ちええし、ごはんは美味しいし、浴衣のイコさんはカッコええし。最高やもん」
やっと落ち着いて腰を下ろしてくれた湯上がりのイコさんの隣に座り直すと、腰を引き寄せられた。
「ほんまもんの温泉旅館やなくてゴメンな」
「おれ、ほんまもんより生駒温泉旅館のほうが好きかもです。イコさんがめっちゃおもてなししてくれて嬉しかった」
「そうゆうてくれたらおれも嬉しいわ。誕生日おめでとうな、隠岐」
「ありがとうございます」
肩をくっつけてイコさんの腿に手を乗せると、熱い手のひらに包まれた。
「なぁ、いつかほんまに行こな。温泉旅館」
「はい。そん時は卓球もしましょね」
「うーん、しもた。それは用意してへんかったなぁ……」
「それは、いつかのお楽しみにしときましょ。今日は別のお楽しみがええです」
顔を寄せて低く囁くと、ふっと目元を和らげたイコさんにきつく抱きしめられた。