2022.02.06
##烈端
あいつが嫌い。浮かべてみればすんなりと胸に収まった。好きの文句はおためごかしによく扱うものだが、嫌いの三文字はどうにもそれに染まってしまう気がして避けてきたのに。案の定断定の言葉は腹に据わって、装いたがる良い子ちゃんづらを溶かし落としていく。
嫌い。嫌い。あいつが。一騎が、嫌い。
「甲洋」
は、と顔を上げた。まさに泥ぶった感情を向けていた男が、気遣わしげにこちらを覗き込んでいる。
「どうした? 忘れ物か?」
「いや……うん。そう、なるのかな」
ひるむようになるくせ、たたらは踏まない。見事な体幹を揺らすのは動揺か誰かを支え損ねた時くらいだ。俺など放っておけばいいのに、険を態度に出してみたって気付かずまっすぐ見てくるのが嫌い。俺だけを見ているみたいに、穏やかな声で名前を呼んでくれるから嫌い。
「一緒に帰ろうって、言いそびれてたんだ。なんとなくまだ教室に残ってる気がしたから、それで……」
誰かに求めた言葉を、気負わず与えてくれるから、嫌い。
「……方向が違うのに? 俺んちのほうへ歩いたら、一騎、遠回りになっちまうよ」
「同じは、途中までだけどさ。一人で学校出るのって、なんか寂しいだろ」
乏しい想像力で、俺の心を言い当てるのが、嫌い。
これ以上、暴かれる前にわざとらしく騒ぎ立てながら立ち上がる。ずかずかと扉まで歩いて、必要ない教科書で重量の増えた鞄を肩に掛けて振り返ると、すこし目をまるくして、最低限の荷物で薄っぺらい指定鞄を片手にぶら下げたまま、監視員かのように俺の動きを追っている。
「ほら、はやく。置いてくぜ」
あわてて三歩で追いついて、これもあわただしく扉を締める。待たずに歩き始めても、気にしたふうもなく並ぶ。
困った顔をするくせに、抗議なんかなく、隣に来てくれるから、嫌い。
「いいのか」
「いいもわるいも、お前が誘ったんだろ」
言いっぱなしにしないで、俺の反応を伺ってくれるところが、嫌い。
「用事とか、礼の手土産とか、ないけど……」
「いらないよ。……幼馴染同士で下校くらい、なんにもいらないさ」
ぽつ、ぽつ、なめらかじゃない会話のあいまに上履きの高い鳴き声が響く。そろわない歩幅が、たまに同じになる。合わせてやらなくたって、お優しい俺をしなくたって、そばにいてくれるところが、嫌い。
どうせ、どうせ、ぜんぶが反転だ。一騎といると呼吸が楽になる。一騎といると、自分の気に食わないところも、認めていいんじゃないかという気がしてくる。悪感情で塗りつぶそうとしたところで、自覚をした心は主を尻目に膨らむものだ。
「お前、俺のこと、好き?」
「そりゃ……? 好きだけど」
言葉の裏を疑わずに、当然の顔して言い切ってくれるところが、嫌い。
「そっか。俺もだよ」
「……? 一緒に帰るのと、なんか関係あったか?」
「ないよ。聞いておきたかっただけ」
言ってみればずいぶん楽になった。恋物語とやらは、たぶん、ここから始まる。